赤いリュック
翌日、有馬慎吾は松本まで車を飛ばした。ホテルサンロイヤルに行って、確かめたいことがあったのだ。権藤一郎は岐阜県警の呼び出しを受けて岐阜に戻ったが、代わりに助手席には大津涼平が座っている。昨夜、朽木啓介から「涼平。明日から有馬さんと行動を共にしろ」と指示されたのだ。
有馬慎吾がハンドルを握りながら、「なあ、涼平」と声を掛けてきた。大津涼平はむっとしている。呼び捨てにされたのが、気に食わないのだ。
「君に呼び捨てにされる覚えはないぞ。だいたい、歳も俺の方が上じゃないのか?」
有馬慎吾は大津涼平の問いには答えず、何食わぬ顔をして、山間の狭い道を駆け抜けて行く。大津涼平は言ってから、「しまった」と思った。有馬慎吾は、自分の本当の年齢を知らないのだ。
「わかった。涼平で良い。その代わり、俺も君を慎吾と呼ぶぞ」
「わかった。了解だ」
結局、大津涼平は有馬慎吾が何を言おうとしたのか、聞きそびれてしまった。
やがて有馬慎吾の運転する車は、ホテルサンロイヤルに着いた。山道を遠回りして来たので一時間ほど掛かったが、目の前に広がる真夏の緑と、たまに姿を現す渓谷を眺めながらの快適なドライブだった。
フロントに行き、大津涼平が警察手帳を掲げながら「五一七号室を見たいんだが、空いているかな?」と受付係に尋ねた。
「こういう時には刑事が横にいると、物凄く便利だな。なっ、涼平」
にこにこしながら無邪気に話し掛ける有馬慎吾に、大津涼平はまたむかっとしたが、目の前にはホテルの従業員がいる。じっと堪えて、有馬慎吾と二人、従業員に連れられて五一七号室に向かった。
部屋に入ると、目の前に広いリビングが見えた。流水模様の純白のクロスと、床面から一メートルほどの高さまで張られたライトブラウンの腰壁が、部屋全体に明るい印象をもたらしている。部屋の中には、少し濃いめのブラウンのソファとテーブルが置かれていた。
「部屋は内装を張り替えましたが、構造や調度品は十五年前と変わっておりません」
十五年前、このテーブルの上で、君原真紀は一億円を赤いリュックに詰め替えたのだ。
リビングの奥には、やはりライトブラウンの木製のドアがあり、それを開けるとキングサイズのベッドが見えた。三十平米くらいはありそうな寝室である。ベッドの横には作り付けのクローゼットが据えられている。幅は二メートル、奥行きは一メートルほどある。
「涼平、十五年前の君原真紀の供述を読み上げてもらえないか?」
有馬慎吾は、その時の正確な状況を知りたかった。
「リビングのテーブルに置かれていた携帯を取り、赤いリュックに一億円を入れ替えた後、寝室に入って服を着替えました。クローゼットに、赤のダウンのアウターとグレーの綿入りズボン、茶色のニットの帽子が掛けられ、床には登山靴が置かれていたので、来ていたコートとスーツを脱ぎ、それらに着替え、靴も履き替えました。コートとスーツは確か、ベッドの上に脱ぎ捨てたと思います。その後、再びリビングに戻り、テーブルの上のリュックを担いで部屋を出ました。リビングのテーブルの上には、サングラスも置かれており、部屋を出る時にそれを着用して、外に出たら外しました。全て、犯人がそうするように指示してきたのです」
大津涼平が持ってきたタブレット端末を見ながら、捜査資料を読み上げる。
「まだ続けるか?」
「いや、もう良い」
有馬慎吾はリビングに戻って、もう一度、部屋の中を見て廻った。リビングにも玄関の近くにクローゼットがあり、その向かいにはドアが二つ並んでいる。一つはトイレであり、もう一つはバスルームである。
「慎吾、テラスは見ないのか?」
テラスに出た大津涼平が、大きな声で叫んでいる。
「テラスはいい。涼平、ラウンジに行って、お茶でも飲みながら、少し話さないか……」
有馬慎吾は用事を済ませたようである。二人は、五一七号室を後にした。
有馬慎吾は出されたコーヒーには手を付けず、十五年前にこのホテルの五一七号室にチェックインした男の姿を見ている。一月七日、フロントとエレベーターの防犯カメラが捉えた男である。帽子をかぶっているので顔はわからない。ただ身長は百七十センチメートル程度、痩せぎすの男である。チェックインの際に宿泊者カードに記入した名前は、江津誠、住所は東京都品川区、チェックイン時刻は午後三時である。
有馬慎吾はしきりと何かを考えている。やがて……。
「涼平。君原真紀がホテルペルージュに運んだ一億円は、家から持ってきた一億円ではない」
大津涼平が思ってもみなかった言葉を口にした。有馬慎吾の言うことは、いつも唐突過ぎて大津涼平にはついてゆけない。
「身代金の持ち出し方が見えたのか?」
「ああ、はっきりと見えた」
有馬慎吾は、よく通る声で答えた。
大津涼平は、先ほど読み上げた君原真紀の供述を思い出しながら、十五年前の五一七号室の様子を何度も頭の中に浮かべては消した。
君原真紀が、一億円の入った黒いキャリーバッグを持って、テラスから五一七号室に入って来る。テーブルの上には、赤いリュックが置かれている。君原真紀が、一億円をその赤いリュックに詰め替え、そして寝室で着替えをする。そして、一億円の入った赤いリュックを担いで、部屋を出る……。
赤いリュックに詰め替えて……、寝室で着替えて……、赤いリュックを担いで……、部屋を出る……。
赤いリュックに詰め替えて……、寝室で……。
「なるほど」
大津涼平にも君原真紀と犯人の動きが見えてきた。
「あの部屋は、リビングと寝室が分かれている。君原真紀はリビングで一億円を赤いリュックに移し替え、それをリビングに置いたまま、寝室で着替えをした。その時に犯人は一億円をすり替えたんだ。別の赤いリュックに入った一億円と……」
「涼平、そういうことだ」
十五年前の一月七日、江津誠と名乗る男が、ホテルサンロイヤルにチェックインした。彼は五一七号室に入って、君原真紀に着せるための赤いアウターとグレーの綿入りズボン、茶色のニットの帽子を寝室のクローゼットに掛け、登山靴を床に置いた。そして空の赤いリュックとサングラス、そして携帯をリビングのテーブルに置き、さらに一階上の六一七号室のドアの前に細かい指示を記した紙を封筒に入れて貼り付けた。
その後、江津誠は五一七号室に戻って、テラスに通じるドアの錠を開け、リビングのどこかに隠れて、君原真紀がやって来るのを待った。隠れた場所は、恐らくバスルームかリビングのクローゼットの中だろう。
やがて五時十五分過ぎ、君原真紀が指示通りに隠しマイクとGPS、そして自分の携帯を六一七号室に置き、テラスの避難ばしごを使って五一七号室に入って来た。彼女はリビングのテーブルに置かれた赤いリュックに一億円を積み替え、リュックをリビングに置いたまま、寝室に行って着替えを行った。
それを隠れて見ていた江津誠は、その間に、テーブルの上に置かれた赤いリュックを自分たちが用意した、別の赤いリュックにすり替えたのだ。その赤いリュックには、もちろん犯人が用意した一億円が入っていた。
何も知らない君原真紀は、江津誠がすり替えた赤いリュックを背中に担ぎ、サングラスを掛け、犯人が用意した携帯を持って部屋を出た。
江津誠は持って来たキャリーケースの中に一億円の入った赤いリュックを入れて、五一七号室を後にした。
それでなくても人の出入りの多い夕方のホテルである。しかも警察が注視しているのは六一七号室。誰も、君原真紀と江津誠が五一七号室を出たことに気が付かなかった。
「しかし、ちょっと待てよ……」
大津涼平は、しきりと頭を振る。
「慎吾。賀谷地区の山荘で見つかった現金に君原真紀と刑事の指紋が付いていたのは、このホテルで奪った金を犯人が山荘に置いたからだ。そうだろう?」
「そうだ」
「しかし、あの山荘で見つかった赤いリュックにも、君原真紀の指紋がべったりと付いていた。犯人がすり替えた赤いリュックだと、指紋は付いてはいるが、べったりというわけにはいかないぞ」
「その通りだ。だから犯人は、君原真紀の指紋がべったりと付いた赤いリュックだけをホテルペルージュから回収したんだ」
大津涼平は、すぐに気が付いた。君原真紀は、ホテルサンロイヤルを抜け出した後、タクシーでホテルペルージュに向かい、さらに赤いリュックを担いでコテージまでそれを運んでいる。その間に赤いリュックには、あちこちに彼女の指紋がべったりと付く。
「だからわざわざホテルペルージュまで身代金を運ばせたんだ。そして金はどこかに隠して、赤いリュックだけを、翌日、ホテルの外に持ち出した。そういうことか……」
「涼平、良い感じだ。俺もそう思う」
ホテルペルージュに着くと、君原真紀は十四号コテージの鍵をフロントで受け取り、犯人の指示通りに外周道路を歩いて十四号コテージに向かった。そして、初めに現れた十四の標識を見て、そのコテージが十四号コテージだと勘違いをした。
その時、十八号コテージの錠は、早川真理子によって空錠に取り換えられていた。鍵穴に板状のものを入れて回せば、シリンダーの内筒が回転してロックが解除される空錠である。君原真紀は持っていた十四号コテージの鍵で解錠し、コテージの中に身代金と犯人から渡された携帯を置いて本館に戻った。
早川真理子は、すばやく赤いリュックから一億円を取り出し、空になったリュックを背中に担いで十四号コテージに向かい、君原真紀が赤いリュックを十四号コテージに置いたように偽装した。そして十八号コテージに戻り、現金は床下にでも隠して、赤いリュックだけを自分のバッグに仕舞った。
その後、朽木啓介たちが、全ての宿泊客の手荷物を検査するが、調べるのは一億円の現金であり、赤いリュックだけなら、よく似たものを女性が持っていてもおかしくはない。しかもこの時点では、警察は赤いリュックのメーカーも型式も把握していないのだ。早川真理子は自分のバッグに赤いリュックを入れて、難なくチェックアウトした。こうして犯人は君原真紀の指紋がべったりと付いた赤いリュックを回収したのである。
十八号コテージに隠した一億円の持ち出しは、急ぐことはない。保前正樹の遺体が発見されてから、ゆっくりと回収すればよい。
保前正樹に濡れ衣を着せることだけを目的としたトリックである。大津涼平にも、犯人の目的と動きが鮮やかに見えてきた。
「実は、犯人はここでも大きなミスを犯していたんだ」
有馬慎吾が残念そうに言った。
「ミス? 手袋のことか?」
「そうだ。君原真紀の指紋をリュックに付けさせることに気を取られて、コテージのドアを開閉する時に、手袋をはめさせるのを忘れたんだ」
「だから、十八号コテージのドアノブには君原真紀の指紋が付いていたはず。しかし警察はそれを見逃してしまった。そういうことだな。これは大チョンボだ」
大津涼平はため息を付き、悔しそうな表情で天井を見上げた。
「涼平。この事件は普通の誘拐事件ではない。保前正樹殺害事件だ。しかもただ殺すだけではない。誘拐事件の犯人に仕立てて、保前正樹を社会的にも抹殺する。犯人は、全てその目的のために動いている」
有馬慎吾が、やっと冷めたコーヒーに口を付けた。
「ひどい奴らだ。俺は絶対にそいつらを許さない」
大津涼平の、まるで少年のような声がラウンジに響いた。
「次は保前正樹だ」
大津涼平が気を取り直したように言う。身代金の持ち出し方はわかった。次はホテルペルージュからの保前正樹の連れ出し方である。これについての二人の考えは一致している。
「ホテルペルージュの防犯カメラには、必ず何らかの細工がなされている」
「慎吾、俺もそう思う。映像には必ず改ざんの痕跡が残されているはずだ」
二人が改ざんを加えていると思っているのは、吉村造園の車が出入りする一月七日の業務用車両出入り口の映像である。
ホテルペルージュの防犯カメラに映し出された保前正樹は、間違いなく本人である。それは妻の保前春子もそう証言したし、指紋でも確認された。彼がホテルペルージュのコテージの森に入ったのは、間違いがないのである。
「人を連れ出すのは、リュックを持ち出すのとはわけが違う。必ず車を使ったはずだ」
「涼平、その通りだ。あの日、コテージの森に入って来た車は二台。しかしワゴン車に乗っていたのは、互いに初めて見知った者たちだ。全員が共犯とは考えにくい。連れ出せるのは、吉村達夫しかいない」
ここで問題なのは、吉村達夫のコテージの森からの退出時間である。防犯カメラの記録によると、吉村達夫がコテージの森から出たのは午後四時十五分。保前正樹がチェックインする二分前である。保前正樹の無実を証明するには、吉村達夫の乗用車が退出したのは、午後四時十七分以降であることを見つけ出さなければならない。
「今からが正念場だな、慎吾」
有馬慎吾と大津涼平は、カップの中にわずかに残ったコーヒーを飲み干し、ホテルペルージュに戻ることにした。




