偽装
その日の午後八時、権藤一郎と有馬慎吾がホテルペルージュの本館で椅子に座って話していると、ポケットに両手を突っ込み、周りをキョロキョロと見渡す髭面の男が見えた。長野県警・秋里署の朽木啓介警部補である。権藤一郎が声を掛けると、すぐに二人に気が付き、「やあ」と手を振りながらこちらに近寄って来た。若い刑事を一人連れている。その刑事は、秋里署の大津涼平と名乗った。
「じゃあ、今から十四号コテージに移動したいんですが……、ついては、朽木さんと大津さんに、ちょっとお願いが……」
互いの自己紹介も終わり、有馬慎吾が二人の刑事に何かを頼もうとすると、その声を遮るように「あら、朽木さんじゃないの」という大きな声が後方から聞こえた。振り返ると、二人の女性が立っている。
「こちらは本郷裕子さん。H&Yエステートの社長さんよ」
初めに声を掛けてきた女性が、もう一人の女性を朽木啓介に紹介した。
本郷裕子……。このホテルのオーナーである。
「本郷さん、困っておられてね。今も早く早川真理子さんを殺害した犯人を見つけてくれって、頼まれていたところなのよ」
本郷裕子を紹介した女性は、なぜか嬉しそうだ。
有馬慎吾は、本郷裕子に目を向けた。白のブラウスに薄いベージュのスーツを身に付けた気品の漂う女性である。ホテルペルージュのホームページによると、彼女は今年で五十六歳のはずだが、どう見ても四十代にしか見えない。
有馬慎吾が本郷裕子を見ていると、彼女もそれに気付いたのか、有馬慎吾に目を向けてきた。少し驚いたような顔で、有馬慎吾をじっと見つめている。
「あなたは?」
本郷裕子を紹介した女性が、有馬慎吾を見下したような顔で睨みつけてきた。
「あなたは、ひょっとして、高坂早苗とラーメンを食べた男……? ねえ、あなた、高坂早苗と何を話したの?」
その女性が急に責め立てるように有馬慎吾に迫ってきた。朽木啓介が間に入って「まあまあ」と執り成し、その場を収めてくれたが、その女性はまだ有馬慎吾を睨み続けている。
「彼女は立花清美、長野県警の警部だ」
朽木啓介が、彼女を紹介してくれた。今から四人で話しをするところだと説明すると、立花清美は自分も話し合いに加わると言う。一連のやり取りを静かに聞いていた本郷裕子は、「それでは、私はこれで……」と言って、軽く頭を下げて本館から出て行った。
「今から皆さんには、十四号コテージに行って頂きたいんですが、ついては何も言わずに、僕の言う通りに動いてもらえませんか?」
静かになったところで、再び有馬慎吾が口を開くと、立花清美の目がまた吊り上がった。有馬慎吾は構わずに話しを続ける。
「そうですね、まず立花警部。一人で十四号コテージに先に行ってもらえませんか? 鍵はフロントに預けているので、それを受け取って、外周道路を反時計回りに歩いて行って下さい」
有馬慎吾に指示されたのが癇に障ったのか、立花清美が「あなた、何を私に命令してるのよ」と激しい口調で迫って来たが、今度は権藤一郎が間に入り、何とか立花清美をなだめて、了解を取り付けてくれた。
「朽木警部補と大津刑事は、ここで待っていて下さい。少し試したいことがあるので……」
二人は面白そうにニヤニヤ笑っている。有馬慎吾が何を企んでいるのか、少し見てやろうといったところだろうか……。
「じゃ、親父。行こうか」
立花清美がフロントで十四号コテージの鍵を受け取り、コテージの森に入ったのを見て、有馬慎吾と権藤一郎もコテージの森に向かって歩き出した。
立花清美は外周道路を歩いている。街灯があるので、暗くて歩くのに困るということはない。コテージ番号が書かれた標識もはっきりと見える。立花清美は時々現れるその標識を見ながら、ゆっくりと十四号コテージまで歩いた。
いくつかのコテージを横目で見ながら、多くのカーブとアップダウンを過ぎると、やがて十四号コテージの標識が見えてきた。その標識を右に曲がると、目の前に十四号コテージが現れた。立花清美は持っている鍵で、玄関の錠を開けた。
部屋の中は真っ暗である。部屋の照明を点けて何気なく中を覗いた時である。立花清美は腰を抜かすほど驚いた。部屋の中に人がいるのである。
ソファに座ってニヤニヤ笑っているのは、有馬慎吾と権藤一郎だった。
「やっぱり、この部屋に来ましたか。慎吾、おまえの言った通りだ」
「何が言った通りよ。あなたたちはカートで来たのね。私だけ歩かせて……。いったい何がしたいの?」
立花清美は、かなり怒っている。
「立花さんと親父は、部屋でちょっと待っていてくれますか。俺は朽木さんと大津さんを呼びに行って来ますので……」
有馬慎吾は、立花清美から十四号コテージの鍵を受け取り、部屋から出て行った。
しばらくして有馬慎吾が戻ってきた。朽木啓介と大津涼平は、外周道路を歩いてやって来ると言う。有馬慎吾は部屋の照明を消し、玄関の錠を閉めた。
窓から外の様子を伺っていた有馬慎吾が、「来たぞ」と権藤一郎に小さな声でささやいた。朽木啓介と大津涼平は、外周道路を右に曲がって、こちらに向かって来る。やがて玄関のドアノブがガチャガチャと鳴り、「あれ?」という声の後に、鍵を回す音が聞こえた。
「誰もいないのか?」と言いながら部屋の灯りを点けた時である。「うわっ」という大津涼平の声が聞こえた。ソファに有馬慎吾と権藤一郎、それに立花清美が座っていたのだ。
「やっぱり騙されましたね」
有馬慎吾が嬉しそうに言う。
「なんだ、なんだ、おまえは……」
朽木啓介と大津涼平は、まだわけがわからない。
「ここは何号コテージだと思いますか?」
「何言ってるのよ、十四号コテージに決まっているでしょう」
立花清美が、またかん高い声で責め立てた。
「ここは十八号コテージですよ。十四号コテージじゃあ、ありません」
立花清美が「えっ?」という声を出し、朽木啓介から鍵を取り上げてタブを見たが、そこには十四と書かれている。
「おまえ、鍵を付け替えたのか?」
朽木啓介は、やっと有馬慎吾の仕出かしたことを理解した。
「さっきフロントに鍵を預ける時、十四号コテージと十八号コテージの鍵を付け替えておいたんです。従業員は全く気が付きませんでしたよ」
ホテルペルージュの鍵には白銅製のタブが付いており、コテージ番号はそのタブにしか彫られていない。タブと鍵を繋ぐリングは開閉式で、簡単に鍵を取り外すことが出来る。有馬慎吾は、十四号コテージの鍵と十八号コテージの鍵を付け替えて、フロントに預けたのだ。長野県警の三人が受け取った鍵は、十四号コテージのタブの付いた、十八号コテージの鍵だったのである。
「表の標識も部屋の番号も、十四と書かれていたぞ」
そこまで言って、朽木啓介は、はっと気が付いた。有馬慎吾は、それも書き換えたのだ。
「この部屋のパソコンで、数字をプリントアウトして、道路の標識と玄関のドアに貼り付けておいたのです。暗いから、よくわからなかったのでしょう」
道路標識は黒く塗られた木製の板で出来ており、それに白字で数字が印刷されている。本館近くは複数個のコテージ番号が印刷されているが、奥に行くに従って数字の個数は減り、この近くまで来ると、外周道路に沿った標識は十八と十四の二つだけとなる。有馬慎吾はその上に、黒地に白抜きで十四、十八と順番を逆にした紙を貼り付けたのだ。もちろん、右に曲がると十八号コテージがあることを示す標識も十四に書き換え、真っすぐ進むと十四号コテージがあることを示す標識は、十八に書き換えた。
玄関のドアも同じである。ドアには金属製のプレートが貼られ、それに黒字でコテージ番号が記載されている。有馬慎吾はよく似た色を使って、十八と印字されたプレートの上に、十四と書かれた紙を貼ったのだ。暗いとプレートの上に紙が貼り付けてあることには、気が付かない。
「あなた、私たちを騙したの?」
立花清美は、怒る気力もなくしたという顔で、有馬慎吾を見つめている。
「俺は、十五年前の身代金の受け渡しのあった日も、犯人は同じトリックを使ったと思っている。ただ、それを誰かで試してみないと、自信が持てなかったんだ」
有馬慎吾は、満足そうな表情を浮かべている。立花清美、朽木啓介、大津涼平で試した結果、全員が騙されて十八号コテージにやって来たのである。ホテルペルージュに何度も足を運んだ立花清美や朽木啓介でさえ、騙されたのだ。十五年前、犯人が同じことをすれば、君原真紀もきっと十八号コテージに身代金を運び込んだに違いない。
しかし立花清美はまだ納得しない。なぜ犯人がそんなことをしたのか、それがわからないのである。
「立花警部。私と有馬君は、十キロのリュックを背負って南側に広がる山林を下りてみたのです。秋里署の刑事四人が県道に着く前に山林を駆け下りるのは、どうしても無理だった。あの足跡は、身代金が運び込まれる前に付けられたと、そう考えざるを得ないんです。当然、身代金は、十四号コテージには、運ばれてはいない」
権藤一郎も有馬慎吾に加勢してくれた。
「私たちは君原真紀が十四号コテージに入るところを見ているのよ」
「それは君原真紀に扮装した犯人なんですよ」
権藤一郎が大きな体を揺すりながら、なんとか立花清美をわからせようと説得する。
「私は、暗くなってから二十号コテージの裏庭に立って、十四号コテージの玄関に立つ有馬君を見ましたが、そこに人がいることはわかりますが、とても顔の判別は出来なかった。有馬君が外周道路までやって来ても同じだった。暗くて顔の判別は出来ないんですよ」
ここで初めて立花清美の顔色が変わった。権藤一郎の言っていることをやっと理解したのだ。
十五年前、君原真紀が身代金を運び込んだのは十四号コテージではなく、十八号コテージであった。犯人は、君原真紀が十八号コテージから出ると、すぐに同じ服装で十八号コテージから十四号コテージまで歩いて行った。ただし赤いリュックの中身は、空である。
その犯人は十四号コテージに入るとすぐに、空のリュックを折りたたんでアウターの中に隠し、何食わぬ顔をして十八号コテージに戻った。
立花清美と朽木啓介が見たのは、そんな犯人の姿だったのだ。
ホテルサンロイヤルで君原真紀に着替えさせたのも、現金を赤いリュックに詰め替えさせたのも、犯人が同じ服装をして立花清美たちを騙すためだった。立花清美に君原真紀を見つけさせたのも、犯人による意図的な仕業だったに違いない。それが有馬慎吾の結論である。
「有馬君、あなたの言いたいことはわかったけど、それは妄想よ。いったい、誰がいつ鍵を付け替えたって言うのよ」
立花清美は、まだ自信を失ってはいない。
「早川真理子なら可能なんじゃないですか?」
有馬慎吾は鎌をかけて聞いてみたが、立花清美は「それは無理」とばっさり切り捨てた。
「君原真紀は鍵をフロントに戻しているのよ。と言うことは、早川真理子は、十八号コテージのタブの付いた十四号コテージの鍵しか持っていないことになる。でも彼女は、十八号コテージの鍵をちゃんと持っていた。それは捜査員が確認しているの。鍵を付け替えたのなら、彼女は十八号コテージの鍵は持てないでしょ。有馬君」
さすがは長野県警の警部である。早川真理子による鍵の付け替えではないことを一瞬で見抜いた。鍵の付け替えは、一方が人手に渡ってしまうと、元に戻せないのである。
「それに事件の後、長野県警の捜査員が、フロントに戻された十四号コテージの鍵で、何度も十四号コテージの施錠と解錠をやっているの。早川真理子が鍵を付け替えたのなら、そんなことも出来ないでしょ。そうじゃないかな? 有馬君」
立花清美は、一転して勝ち誇った顔をしている。
「まさか、君原真紀まで共犯者だなんて言うんじゃないでしょうね。有馬君」
立花清美は、嬉しそうにゲラゲラと笑い出した。
犯人がやったのは、鍵の付け替えではない。そんなことは、有馬慎吾は百も承知である。
有馬慎吾が先ほど試したのは、標識を書き換えれば、間違えて十八号コテージにやってくるかどうか、ということだけである。十四号コテージの鍵で十八号コテージの錠を開ける方法については、別のことを考えていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、買ってきたばかりのドライバーをリュックから取り出して、玄関に向かって歩いた。
「これならどうだ?」
玄関のドアを開け、側面に付いた二つのネジを回し始めた。やがて五分ほどの作業で、ドアに付けられたシリンダー錠のシリンダーが外れた。
「ちょっとあんた、何をやっているのよ。器物損壊罪で逮捕するわよ」
立花清美が、またかん高い声を上げた。
「それは、これを取り付けてからにしてくれ」
有馬慎吾は乱暴に言い放って、今度は同じシリンダーを取り付けた。
「いいか、今、取り外したのは、この十八号コテージの錠。取り付けたのは、十四号コテージの鍵で開く錠だ」
有馬慎吾は鍵を付け替えなくても、錠のシリンダーを取り換えれば、同じことが出来ると言っているのだ。
「いい加減にしなさいよ。十八号コテージのドアに十四号コテージの錠を取り付けたって言うの? このホテルの錠前は合鍵を作るのも難しいのに、錠を作るなんて不可能でしょ」
「俺は十四号コテージの錠に取り換えたとは、言っていない。十四号コテージの鍵でも開く錠に取り換えたと言っているんだ」
二人のやり取りを黙って聞いていた朽木啓介は、やれやれという顔をした。有馬慎吾の言っていることをやっと理解したのだ。
このコテージでは、ピンタイプのシリンダー錠が使われている。この錠は、正規の鍵を差し込むと、シリンダー内部に配置された多数のピンが鍵形状に合わせて一定距離移動し、それによって、シリンダー内筒の回転が可能となる。この内筒が回転することで、施錠と解錠が出来るのである。有馬慎吾は、このシリンダー錠をピンのない、どのような鍵でも内筒が回転する空錠に付け替えたと言ってるのだ。
鍵の付け替えは、十四号コテージと十八号コテージの両方の鍵がないと出来ない。十四号コテージと十八号コテージの錠の付け替えも、同じ理由で不可能である。もちろん十四号コテージの正規の錠を自分で作り、十八号コテージのドアに取り付けることも不可能である。しかし、見掛けだけ錠の形をしているが、どんな鍵でも開くピン無しの空錠シリンダーなら容易に作れるし、それに付け替えるのも簡単である。犯人はこのコテージの錠と同じ色と形をした空錠シリンダーをあらかじめ二個作製し、十四号コテージと十八号コテージの錠をそれに付け替えたのだ。
錠の取り付け、取り外しは、部屋の中からしか出来ない。従って、錠のシリンダーをピン無しの空錠シリンダーに付け替えたのは、それぞれのコテージに宿泊した客である。十四号コテージの錠を空錠に取り換えたのは、前日にこのコテージに宿泊した落合要人と名乗る人物である。彼は十四号コテージを空錠に取り換え、翌一月七日の朝、そのままホテルを立ち去った。
そしてその日の夕方、犯人の一人が清掃の終わった十四号コテージに適当な鍵を使って入り、落合要人が取り外した正規の錠に戻した後、玄関を施錠せずに勝手口から出て山林に足跡を付けた。十四号コテージの錠を正規のものに戻したのは、警察による現場検証が入るからである。また、十四号コテージを施錠しなかったのは、早川真理子には、十四号コテージの錠を開けることが出来ないからである。
十八号コテージの錠を空錠に取り換えたのは、早川真理子である。午後五時四十五分にチェックインした彼女は、十八号コテージの錠を空錠に付け替え、さらに十八号コテージを十四号コテージに偽装して、君原真紀がやって来るのを待った。そして君原真紀が十八号コテージに身代金を置くと、すぐに彼女と同じ服装で十四号コテージに行き、玄関の錠を開ける振りをして中に入り、あたかも君原真紀が十四号コテージに身代金を運んだように見せ掛けた。その後、十八号コテージに戻って正規の錠に戻したのである。
これらの錠を犯人以外で開け閉めするのは、一月七日に十四号コテージを清掃したホテルの従業員と、十八号コテージに身代金を運んだ君原真紀の二人だけである。一回くらいであれば、空錠であることに二人とも気が付かなかったとしても仕方がない。
こうやって、犯人はまんまと赤いリュックに入った身代金を手に入れたのである。
有馬慎吾が言っているのは、こういうことなのだ。
「なるほどな。だから犯人は、玄関は施錠せずに本館に戻れという指示を君原真紀に出したのか……。早川真理子は、十四号コテージを施錠出来ないからな」
朽木啓介に十五年前の君原真紀の言葉が蘇ってきた。
「十四号コテージのドアを開ける時ですか? ええ、手袋ははめていません」
君原真紀はこのように供述した。しかし、十四号コテージのドアノブから、君原真紀の指紋は検出されなかった。
「手袋ですか? 君原真紀がはめていたかどうかは、暗くてよく見えませんでした」
朽木啓介と立花清美は、こう報告した。
捜査本部は困ったが、君原真紀が十四号コテージに身代金を運び込むところを、二人の刑事が見ているのだ。結局、君原真紀の勘違いとして問題を処理してしまった。
今になってやっとわかった。君原真紀は、初めから十四号コテージのドアノブなど触ってはいなかったのだ。
「あまりにも馬鹿げた話ね。あの事件の犯人は保前正樹で間違いないし、早川真理子の事件とは関係がない。有馬君、あなたの考えは、しょせん素人の空想よ」
立花清美は顔を真っ赤にして怒っている。いきなり立ち上がり、「それ以上言うのなら、証拠を見せてちょうだい」と言い残して、部屋を出て行った。
「悪い。彼女はあの事件で英雄になったんだ。それなのに、犯人に騙されていたなんて、耐えられないんだろう。許してやってくれ」
十五年前、立花清美だけが前を通り掛かった登山服姿の女性を君原真紀と見抜き、幹部の制止を振り切って女性を尾行した。結果的にそれが正しかったこともあり、その後の捜査会議での彼女の発言力は、飛躍的に高まったと朽木啓介は言う。
「昔はそうではなかったんだが……。あの事件が彼女を変えてしまったんだ」
朽木啓介は苦しそうな表情を浮かべて、立花清美を庇った。
「ところで、涼平。一月六日に十四号コテージに泊まった落合要人という人物の身元を調べてくれないか?」
「もうやりましたよ。さっき、県警本部に頼んだら、すぐに回答がきました。でたらめですよ。そんな住所は、十五年前も今も存在しないとのことです」
「有馬さんの言う通りになってきたな。防犯カメラに、その落合要人の映像はないのか?」
これも大津涼平は、すでにチェックしている。
「だめですね。顔が映っていません」
落合要人は帽子をかぶり、防犯カメラに背を向けている。わかるのは、ホテルサンロイヤル五一七号室にチェックインした人物と、よく似た体型の男ということだけである。
想定していた答えなのか、朽木啓介には、さほど落胆した様子はない。
「身代金を手に入れる方法はわかった。しかし、それはまだホテルペルージュの中にある。次は、どうやってホテルペルージュから運び出したかだ。それと保前正樹も……」
朽木啓介が考え込んでいると、何かを言いたそうな有馬慎吾の顔が見えた。
「どうした?」と朽木啓介が問い掛けると、いくつか教えて欲しいことがあると言う。
「身代金と保前正樹の遺体をホテルのどこかに隠し、現場検証が終わった翌日以降に運び出したということはないですか?」
身代金と保前正樹の遺体を運び出すのは、保前正樹の遺体が発見される一月十二日までであれば、いつでも良いのである。警察の現場検証が終わった翌日以降に、身代金と遺体を車で運び出した可能性はないのか? 有馬慎吾は、それが知りたかった。
「それはない」と、朽木啓介は即座にその可能性を否定した。身代金が奪われたことに気付いた一月七日の午後七時以降、保前正樹の遺体が見つかる一月十二日の朝まで、朽木啓介は他の捜査員と一緒に、ホテルペルージュに出入りする車の座席やトランク、荷台を全てチェックした。宿泊客や従業員の手荷物も漏れなく検査し、コテージの森の南側に広がる山林を降りて来る人物がいないか、それも昼夜問わずに見張り続けた。
「立花清美にずいぶんと馬鹿にされたが、それだけはやっておきたくてなあ。当然、身代金と遺体を運び出した者は、誰もいなかった」
「じゃ、足跡を付けた犯人が、保前正樹を担いで南の山林を降りたという可能性は?」
「それもない。鑑識が靴で踏み締められた雪の硬さを解析して、掛かった荷重を割り出した。結果は五十キロから八十キロということだ。二人分の荷重が掛かれば、すぐにわかる」
「じゃあ、防犯カメラの映像に細工をした可能性はないですか?」
「それもない。映像には、我々が到着した様子が、切れ目なく正しく映し出されている。途中で別の映像を挟み込んだ痕跡も、映像を加工した痕跡もない」
「防犯カメラの時刻は?」
「防犯カメラの映像を録画したハードディスクを取り外した時、捜査員が時刻を確認している。全て正しい時刻を示していたとのことだ。それは間違いがない」
ホテルペルージュの防犯カメラには電波時計が内蔵されており、毎日、午前二時に補正がなされる。補正後はクォーツ時計によって時が刻まれ、その情報が受信側のコントロールユニットに送られる。受信側での時刻補正は出来ない仕組みになっており、仮にそれを強引にやったとしても、コントロールユニットにその痕跡が残るとのことである。
「では発信側で時刻を変えるというのは、どうなんでしょう?」
「あの日は、午前二時に電波を正しく受信したという記録が、防犯カメラにもコントロールユニットにも残されていた。ハードディスクを取り外した時の時刻は正確だった。その間に防犯カメラやコントロールユニットを触った者は誰もいない。表示時刻が途中で飛んだり、止まったりしていないことも確認済だ」
有馬慎吾は「そうですか……」と言いながら、手帳を見ながら質問する項目を考えている。まだ聞きたいことがあるようだ。
「このホテルには、遺体を流すことが出来る排水路はないですが? 下水でも雨水でもいいんですが……」
朽木啓介は笑いながら答えた。
「それもない。雨水も下水もいったんそれぞれの排水溝に集められて、それからしかるべき処理が行われる。配管は太いところでも直径四十センチメートル、しかも排水溝のマンホールは雪の下だ。開ければ必ず痕跡が残る」
朽木啓介は、雪が降り積もった山林に足跡を残すことなく、また五台の防犯カメラに姿を捉えられることもなく、ホテルペルージュに入ることも、出ることも不可能だと言う。
有馬慎吾は、朽木啓介の答えに落胆する様子を見せず、むしろ、すっきりしたという顔をしている。何か考えがあるように権藤一郎には思えた。