一枚の写真
六月初旬より日本列島に居座り続けた梅雨前線も日本海方面に抜け去り、ここ信濃の地にも本格的な夏がやってきた七月十八日の早朝、長野県秋里市にあるマンション・セントレジデンス八〇一号室で、一人の女性の遺体が発見された。
発見されたのは、その部屋の住人で、秋里市郊外のリゾートホテル・ペルージュに勤務する早川真理子・四十七歳。胸部を鋭利な刃物で一突きにされており、明らかに殺人である。
第一発見者は、早川真理子と同じマンションの七〇一号室に住み、同じホテル・ペルージュに勤める高坂早苗・二十五歳。
高坂早苗が言うには、その日は、二人とも午前六時スタートの早番勤務に就くことになっており、早川真理子の車に同乗して出勤する約束となっていたが、時間になっても早川真理子が地下駐車場に降りて来ないので、部屋まで様子を見に行ったところ、リビングで血まみれになって倒れている彼女を見つけたとのことである。
早川真理子の死亡推定時刻は、遺体が見つかった七月十八日の午前零時から午前一時の間、凶器はまだ見つかっていない。
なお、高坂早苗が早川真理子の部屋に行ったのは、防犯カメラの映像によると七月十八日の午前五時二十分。高坂早苗の話では、この時、早川真理子の部屋は、玄関の錠が開いていたとのことである。
高坂早苗から通報を受けた長野県警はただちに秋里署に捜査本部を設置し、その日の夕方には被疑者を一人に絞り込んだ。第一発見者の高坂早苗である。理由は、彼女にしかこの犯行は不可能というものであった。
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警察に通報があって二時間ほどが経った時のことである。
「遅くなって悪いな」
ぼさぼさに伸びたあご髭と口髭をさすりながら、日に焼けた一人の中年男が犯行現場にやって来た。非番の日にたたき起こされた秋里署刑事課の朽木啓介警部補である。
「朽木さん、ちょうど良かった。ちょっと中を見てもらえますか? どうも犯人の侵入経路と脱出経路が見えなくて……」
廊下で朽木啓介と鉢合わせをした大津涼平が、ほっとしたような表情で朽木啓介に助けを求めた。朽木啓介が面倒を見ている同じ秋里署の若手刑事である。
「密室か……」
「そうなんっすよ。みんな、困ってましてね」
「マスコミが喜びそうだな」
朽木啓介は密室殺人というのが気に食わないのか、不機嫌そうな顔で部屋の中に入った。
セントレジデンスは、一階から八階までの各階に二LDKの部屋が各六戸ある地下一階、地上八階建ての比較的小振りのマンションである。地下は駐車場となっている。
南の壁が東西に走る幹線道路に面しており、いずれの階にも、マンションの中には中央のエレベーターホールから東西に伸びた短い廊下がある。八階のこの廊下を西に進むと、八〇一号室と八〇二号室が向かい合わせにある。早川真理子が遺体で見つかった八〇一号室が廊下の南側、八〇二号室が北側である。エレベーターホールの西側には、これ以外の部屋はない。ちなみにエレベーターホールから廊下を東に進むと、南側に八〇三号室と八〇五号室が並び、向かいの北側には八〇四号室と八〇六号室が並んでいる。東西の廊下の突き当りに窓はない。
八〇一号室に入ると、大津涼平が密室だと言った理由がよくわかった。開閉可能な窓は全て内側から施錠されており、侵入と逃走が可能なのは、玄関を通るルートだけである。しかし……。
「向かいの八〇二号室は空室でしてね。玄関には錠が掛かっているし、管理人に錠を開けてもらって中をチェックしましたが、この部屋も窓は全て内側から施錠されています」
大津涼平は、向かいの八〇二号室を通って八〇一号室に入ることも、この部屋を通って逃走することも不可能だと言う。
エレベーターホールには防犯カメラが設置されており、エレベーターを乗り降りする人物はもちろん、その横にある階段を使って各階に出入りする人物や、東側と西側を行き来する人物は、全て捉えることが出来るとのことである。
早川真理子がこの防犯カメラに最後に姿を現したのは、昨日の午後十時。それ以降、この防犯カメラに姿を捉えられた人物は、二人しかいない。早川真理子の遺体を見つけた高坂早苗と、高坂早苗から知らせを受けて八階に駆け付けた管理人である。
「犯人はどうやって部屋に入ったのでしょうね」
大津涼平が不思議そうに言う。
朽木啓介は、早川真理子の遺体が発見されたリビングに立った。幹線道路に面した南向きの部屋で、南の壁には窓が三つ並んでいる。中央の窓は幅二メートルの出窓であり、この前で、パジャマ姿の早川真理子が血を流してうつぶせになって倒れていた。捜査員が駆け付けた時には、すでに息はなかったと言う。この出窓は、側面のみがわずかに開口出来るが、その幅は狭く、人の出入りは不可能である。
「これは……?」
朽木啓介は出窓に近寄り、小物入れに立て掛けられた一枚の写真に目を向けた。どこかで見た覚えのある写真である。
「さて……、どこで見たのか……?」
頭を掻きながら記憶をたどるが、思い出せない。写真には十歳くらいの少年とその両親らしき男女が写っている。女性は明らかに早川真理子とは異なる顔立ちである。
「県警のデータベースと照合してくれ」
写真を大津涼平に手渡し、視線を出窓の横に移した。
出窓の両側には、幅七十センチメートル、高さ九十センチメートルのはめ殺しの窓が付いている。コーナーが緩やかに弧を描き、直線部分も全体にふっくらと丸みを帯びている。窓の周囲は金属製の淡いベージュのカバーで覆われており、それが部屋全体に優しい印象を与えている。
「カバーを外して取り付け部を確認しましたが、こいつは、ネジでしっかりと壁に固定されていますね」
朽木啓介は、視線をさらにその東側に向けた。南向きの壁の東の隅に押し開きのドアがある。建物の南面に設置されたベランダに通じており、唯一、ここからだけベランダに出入りすることが出来る。建物の西面にはベランダはない。
「このドアは、合鍵を持っていれば、ベランダから部屋に入ることが出来ます。ただ、内側からチェーンロックが掛けられていて……」
朽木啓介は、チェーンの先端に付いているつまみを動かしてみた。スライド部分の中央にストッパーがあり、つまみを押し込まないとロックは外せない構造となっている。
「ベランダ側から外すのも掛けるのも無理だな」
朽木啓介は、やれやれという顔をしてドアから離れた。
八〇一号室には、このリビングの他に広さ八畳の洋室が二つ、西壁に沿って並んでいるが、いずれの部屋の窓も全て施錠されており、クレセント錠にはストッパーが掛かっている。また、キッチン、バス、トイレ、収納庫には窓はなく、天井や床下の点検口には人が出入り出来る隙間はない。玄関を除いて、部屋は完全に密室状態である。
「涼平、防犯カメラの映像を見に行こうか……」
朽木啓介と大津涼平は八〇一号室を出て、一階の管理人室に向かうことにした。
二人が管理人室に入ると、捜査員が数名で防犯カメラの映像をチェックしていた。横には管理人が青ざめた表情で立っている。白木初枝という六十歳くらいの女性である。
「高坂さんから連絡をもらった時、私はまだ寝てましてね。すぐに着替えて八階に向かったのですが、怖くて部屋の中には入れませんでした。高坂さんと廊下で警察の方が来られるのを待っていました」
白木初枝は警察の聴取にこう答えている。彼女が言うには、このマンションには十一箇所に防犯カメラが設置されているとのことである。地下一階から八階までの全ての階のエレベーターホールと、地下駐車場の出入り口、それに一階のエントランスの十一箇所で、録画映像の保存期間は一週間である。
「防犯カメラに死角はないですね」
ディスプレーにかぶりつきながら、捜査員の一人が朽木啓介に言った。朽木啓介もよく知る林田敏夫という秋里署の鑑識官である。
「早川真理子と高坂早苗は、昨日も早番勤務のようでしてね、午後三時過ぎに二人ともマンションに戻っていますね」
その後、二人は、午後五時にエントランスで待ち合わせをしていっしょに外出した後、午後六時にそろって早川真理子の八〇一号室に入っている。
「昨日は、早川さんの部屋で夕食を取る約束をしていて、帰宅後、いっしょに近くのスーパーまで買い物に行って、それから早川さんの八〇一号室に入りました」
高坂早苗の警察への供述である。
高坂早苗が七〇一号室に戻ったのは、午後十時。この時、早川真理子は階段近くまで高坂早苗を見送っており、その姿が八階の防犯カメラに写されている。高坂早苗は、自室に戻ってから朝まで一歩も部屋の外には出ていないと言っており、これも七階の防犯カメラの映像で裏付けが取れた。
「映像を署に持ち帰って詳しく解析してみますが、恐らく細工はされていないと思います」
林田敏夫はディスプレーの電源を切った。
朽木啓介が、大津涼平の肩をポンと叩いた。残る可能性は、ベランダからベランダへの移動だけである。朽木啓介は、八〇一号室に戻ることにした。
朽木啓介と大津涼平は八〇一号室に戻り、ベランダに出た。すっかりと高くなった太陽が、容赦なく真夏の陽射しを照り付けてくる。ベランダには屋根が付いているが、あまり日除けの効果はないようだ。
「向こうのベランダから飛び移るというのは、難しそうですね」
八〇一号室のベランダはこの部屋専用の独立構造で、東隣りの八〇三号室のベランダからは五メートル以上離れている。
二人はベランダの西の端まで進んだ。
「やっぱり……」
壁際にステンレス鋼製のハッチがあった。留め具を外してハッチを開けると、高坂早苗が住む七〇一号室のベランダが見えた。壁には火災などの非常時に使う避難ばしごが床面まで伸びており、これを使えば七〇一号室のベランダに降りることが出来る。ハッチには留め具が付いており、下の階からは開けられない構造となっているが、これを事前に外しておけば、七〇一号室から八〇一号室への移動も可能である。
朽木啓介はリビングに戻り、ベランダに通じるドアの錠を閉め、チェーンを掛けた。
「このロックを前もって外しておけば、犯行は可能だな」
「可能ですね。と言うより、それ以外は不可能なんじゃあないですか」
大津涼平の顔は、一転して自信に満ち溢れてきた。
「それが出来るのは、一人しかいませんね」
彼が言う犯行可能なただ一人の人物というのは……、第一発見者の高坂早苗である。
高坂早苗は昨日の夜、早川真理子の部屋を訪れた際に、隙をうかがってベランダに抜け出し、ハッチの留め具を外した。その後、リビングに戻り、ベランダに通じるドアの錠もチェーンロックも外したままにしておいた。ドアはカーテンで覆われており、ロックが外れていることに早川真理子が気が付かなかったとしてもおかしくはない。
そして、午後十時にいったん自分の部屋に戻った後、ベランダの避難ばしごを通って早川真理子の部屋に侵入し、物音に気付いてリビングに顔を出した彼女を殺害した。この後、高坂早苗は玄関のドアのロックも外している。ただし廊下には出ず、再び避難ばしごを使って自分の部屋に戻った。
ハッチに留め具を掛け、リビングのドアをロックしたのは、今朝、第一発見者となって早川真理子の部屋に入った時である。玄関のロックを外しておいたのは、管理人を呼ばなくても一人で八〇一号室に入り、第一発見者を装って密室を作るためである。
こう考えると全ての辻褄が合うし、これ以外の可能性は考えられない。
「あとは凶器を見つけるだけですね」
大津涼平が、少し物足りないという顔付きで言った。凶器が高坂早苗の周辺から見つかれば、この事件はほぼ解決したも同然である。
「確かに、それは、そうなんだが……」
朽木啓介も同じ考えのようだが、なぜか声に力がなく、あご髭を掻きむしっている。
「朽木警部補、どうしました?」
朽木啓介は、「いや……」と言いながら、ドアの前から動こうとしない。
「涼平。あの写真、もう一度見せてくれ」
朽木啓介は、リビングの出窓に立て掛けられていた写真を大津涼平から取り上げ、それを見ながら、しきりと何かを考えている。しばらくして……。
「涼平。この事件、なんか違和感を覚えないか?」
朽木啓介は意外な言葉を口にした。何か、疑問が出てきたようである。
「あの時と同じだ」
「あの時?」
「ああ……」
朽木啓介は、まるでそこに何かが存在するかのように、目の前の空間を見据えている。
「もう十五年も前のことなんだが、ある事件があってなあ……」
刑事生活二十五年、数々の修羅場をくぐってきた朽木啓介にとって、それは忘れることの出来ない、なんとも後味の悪い事件だった。自分は何かを見落としたんじゃあないか? 喉元に刺さった小骨のように、そんな思いがいつまで経っても消えてくれない。
朽木啓介は、その事件と同じ違和感を今回の事件でも覚えると言う。
十五年前、長野県松本市で君原流星という小学五年生の男の子が誘拐され、ホテルペルージュで身代金の受け渡しが行われた。当時、松本南署に勤務していた朽木啓介も捜査に加わったが、犯人はすぐに特定された。理由は、その男にしか犯行は不可能というものだった。朽木啓介には、その男の犯行と断定するには疑問な点がいくつか感じられたが、捜査本部はそれを許さなかった。
『何言ってんの? 彼にしかこの犯行は出来ないでしょう。彼が犯人よ』
かん高い女性の声が、今でも耳に突き刺さっている。ともに捜査に当たった立花清美の声である。朽木啓介より五歳年下だが、数年前に警部に昇格し、今回の事件でも県警本部から派遣されて、捜査の指揮を取っている。
『父さんは犯人じゃない。絶対に犯人なんかじゃない』
そう泣き叫ぶ少年がいた。その横には黙って朽木啓介を睨みつける三歳違いの妹が立っていた。あの時の少年少女の顔を今でも忘れることが出来ない。あの子たちは、今、どうしているのだろう? 朽木啓介の中の違和感は、やがて大きな不安となり、それに全身が包み込まれるような嫌な感触が襲ってきた。
『今度は間違えるなよ。今度は……』
どこかから、そんな気持ちの悪い声が聞こえてきた。