9話:米山建男さんの死1
5月になり、透析を続けていた米山恒夫さんが透析している病院で腹水が
たまってきたので、もっと大きな病院で治療した方が良いと言われて、
大学病院へ転院するように言われて書類を書いて6月に八王子の大学病院に
転院して腹水を抜いたが、数週間で、また腹水が溜まる様になった。
10月に腹水の溜まり方が少なくなったので退院したが、11月下旬に、
また腹水が溜まったので3日入院して退院してきた。12月下旬も年末年始
となるために3日入院して退院した。そして1991年を迎えた。1月8日から
入院して退院することが出来なり急に体力が落ちてきた。
奥さんも月水金の透析の時に、米山恒夫さんの横について長い間、付き添って
いた。2月2日、風邪の症状が出て食事が取れなくなり点滴栄養に頼り始める
と急激に痩せてきて3月には、げっそり痩せて、昼間も寝ているようになり
3月20日に意識が途切れるようになった。
土志田勇と種子が担当医に状況を聞くと食事を取れなくなり免疫が落ちて感染
したと言い、この2,3日が山でしょうと告げられた。そして1991年3月
24日、帰らぬ人となった。奥さんの米山幸子さんが昨晩から寝ずの看病して
いたが昨晩、午前2時過ぎに奥さんの手を握り、長い間ありがとうと小さな声
で言ったきり、意識不明になったと教えてくれた。午前6時に担当医から、
ご臨終ですと告げられると、米山幸子さんは、呆然として、窓から遠くを
見つめていた。
取り乱すこともなく、来る時が来たという感じだった。その後、土志田勇が
葬儀の連絡をして3月29日、八王子斎場で葬儀を行うことになり、1991年
3月28日が、お通夜で告別式が3月29日と決まった。葬式の案内を印刷して
、土志田家の近所の親戚に配った。米山家では、町田に米山建男さんの兄弟が
2人おり、葬儀の案内を送った。
結局、米山建男さんの弟の郁夫さん1人が出席するだけで、埼玉北部の実家
とは、縁が遠くなり、音信不通だったようで知らせなかった。葬儀には、米山
さんの会社関係者3人と弟の郁夫さんの4人の出席だけで、その他、12人は
全て土志田家の近所の親戚となり質素な葬儀となった。
葬儀も滞りなく、終了し土志田家から車で20分程の場所にある八王子の墓地
に埋葬された。その後、家に帰り、米山幸子さんが土志田恒夫さんに、お礼を
言った。その後、米山建男さんの残した遺書を奥さんの幸子さんが土志田恒夫
に渡した。それには、本当に長い間、土志田家の皆様にお世話になり、誠に
ありがとうございましたと、最初に書いてあった。
思い返せば、埼玉北部の田舎で育ったが戦後の混乱期、食べるものもなく
、故郷に居場所がなくなり、仕方なく都会に出て来て、日雇いの仕事で、
食いつないで、やがて近くの印刷会社に就職して、八王子の郊外に小さな
家を買い、つましい生活を続けていたとき、娘の種子が高校で土志田勇君が
仲良くしてくれ、土志田家に出入りするようになり、家族同様に大切に
してもらい、私が病に冒されたときに土志田恒夫さんのご厚意により、
土志田の本家に住まわせてもらい、米山家の全員が、助けてもらい、
土志田恒夫さんには、いくらお礼を言って、足りないほどの温情をいただき
、人生の末期は、多くの孫に囲まれ、本当に幸せな毎日を過ごさせて
いただきました。