13話:ソ連崩壊3
午後1時53分、エリツィンはクーデターが未遂に終わったことを宣言。
午後2時になると国家非常事態委員会のメンバーが逃亡、プーゴ内相は拳銃・
アフロメーエフ元参謀総長は首吊り自殺・エリツィンはメンバーの拘束指令を
下し、午後4時20分にはヤゾフ国防相が全部隊のモスクワへの撤退命令の
ニュースで流し、午後4時55分にロシア代表団がクリミアでゴルバチョフと
面会、午後9時にはモスクワ放送が復活。
8月22日の午前2時55分に攻撃を避けるための人質としてクリュチコフを帯同
したゴルバチョフが搭乗したアエロフロー機がモスクワ空港に到着。クーデターの
関係者は逮捕されたが、首謀者たちがゴルバチョフの側近だったため、皮肉にも
ゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼は失墜。午後0時にエリツィンは
クーデターに対する勝利宣言を行う。これには市民20万人が参加したが、
ゴルバチョフが姿を見せる事はなかった。
夕方にゴルバチョフは外務省のプレスセンターで記者会見を行う。同日夜に
なると、モスクワ中心街で共産党の活動禁止を要求するデモが行われた。翌、
8月23日、ゴルバチョフはロシア最高会議で今後のソビエト連邦と共産党
に関する政見演説を行うが、議員たちは彼の演説に耳を傾けなかった。
エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党の活動停止を命じる大統領令に署名。
翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任、資産を凍結し
党中央委員会の自主解散を要求。ロシアはエストニアとラトビアの独立を承認。
クーデターからおよそ10日後の8月28日、ソ連最高会議の臨時両院・
連邦会議・民族会議の合同会議がパヴロフ首相の不信任案を可決し、共産党の
活動全面停止を決定。クーデターを支持した「プラウダ」等の5紙が発禁処分。
また、クーデターを支持したとしてタス、ノーボスチ通信の社長も解任された。
1991年12月までにソビエト連邦構成共和国はすべて独立を宣言した。
また、新連邦条約についての交渉は新たに始まった。ソ連およびアメリカは、
9月にバルト三国の独立を承認。ゴルバチョフはモスクワ帰還後数か月の間、
政権の安定と合法性を取り戻す努力を行ったがそれは不発。
11月に7共和国が、主権共和国連邦結成条約に同意した。しかしウクライナは
参加せず、エリツィンはロシアの利益を求め同意を破棄。ソ連共産党が存在しない
状態では、連邦構成共和国を協調させることができなかった。エリツィンは
ロシアが他の共和国の厳しい経済に対する責任を負う事になると考えたため、
ロシアの新条約への参加は考えられなかった。ソビエト連邦は1991年12月
25日に消滅。ゴルバチョフが1985年12月25日にエリツィンを
モスクワ市党委員会第一書記に任命して6年後だった。
この8月クーデターが失敗に終わった原因として、当時は、まだ普及して
いなかったインターネットがもたらしたとAFPは分析。放送局も新聞社も
保守派によって占拠され情報統制されている中、エリツィン率いる改革派は
打つ手なしだったが、1990年に、当時ソ連の専門家が開発していた
電子メールシステムから、電子ファイルを電話回線を用いてフィンランドに
送信する際、何らかの原因で、「ユースネット」最も古いコンピュータ
ネットワークに漏洩していた。
そこで、まず、誰かがエリツィンの声明をファックスで受け取り、このネット
ワークを介して西側諸国に流した。西側のテレビが情報源を明らかにした
にもかかわらずKGBは全く動かなかった。クーデターの数週間前にはKGBが
レルコム製作部のオフィスに乗り込んだが、モデムなどの役割がわからず、機材の
押収やメンバーの逮捕なども行なわずに立ち去っていた。
クーデターから数ヶ月後に、レルコム制作部の一人から事の次第を知った
エリツィンが、「新聞もラジオもテレビも機能していなかった。それでも国民は、
自分の声明を知っていた。それは、君たちのおかげだったのか」と驚き、感謝した。
この1980年代から1990年までのソ連崩壊、東西ドイツの統一は、今迄、
抑圧されていた人民の声なき声が大きなうねりとなり、自由を求める人民の感情
を武力で抑えよとする、旧態依然とした主流派が、木っ端みじんに吹き飛ばされる
出来事で、21世紀向けての自由への大合唱への始まり、起爆剤になったと
言えよう。




