10話:米山建男さんの死とソ連崩壊
もし、私が死んでも、残された米山家の人達を、何卒宜しくお願いいたします。
最後に、本当にありがとうございました。書いてあり、土志田恒夫がハンカチで
流れる涙をふきながら、遺書の全文を読み終えた。その後、米山建男さんの霊前に
手を合わせ、深々と礼をした。そして残された米山幸子さんの所へ行き、孫達と
仲良く長生きして下さいと言うと、幸子さんが涙ながらに、今後とも宜しくお願い
しますと言った。葬式を終え4月を迎えると暖かくなり、やがて桜が満開となった。
土志田恒夫と奥さんが近所の親戚と4泊6日ハワイ団体旅行に誘われ、1991年
4月6日から出かけて言った。バスの出発する八王子駅へ、朝7時に勇が近くの
友人4人を乗せてハイエースで八王子駅へ送った。夏も、ハイエースで、八ヶ岳
、清里、野辺山に山岳ドライブに出かけて、高原の宿に宿泊して、帰って来た。
その後、10月に箱根の温泉に出かけて、ゆっくりと温泉を楽しんで帰って来た。
ちょうど、この頃、共産主義の超大国・ソ連で、体制崩壊ののろしが上がった時期
だった。歴史を遡ると、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が1990年11月
23日に提案し、1991年7月の段階で条約調印の最終合意が成されていたが、
8月クーデターによって事実上破棄された。その結果、ソ連は1つの国家としての
形態を維持できなくなり、解体へと向かった。条約は、形式的には連邦制だが
実際には中央集権体制だったソ連を、より緩やかな国家連合へと再編する事で
、崩壊の過程をたどっていた連邦を維持しようという内容となっていた。
その中では、国名をソビエト社会主義共和国連邦からソビエト主権共和国連邦
と改称し、連邦を構成していた15の構成共和国の大幅な権限強化が謳われていた
ほか、自治共和国や自治管区にも新連邦条約に調印する権利が保障されていた。
1991年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持
の賛否を問う国民投票が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に
賛成票を投じた。
しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国
「エストニア共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国」、モルダビア共和国・
モルドバ、グルジア共和国、アルメニア共和国は投票をボイコットした。
8月クーデターによって、8月20日に予定されていた条約の調印は行われず、
条約締結のため交渉がやり直されることになった。この交渉は11月になって妥結し
、7つの共和国が連邦結成条約・案に同意し、国名を主権国家連邦とすること
が決まった。しかし、ウクライナが国民投票で自国の独立が賛成多数で承認された
ことを理由に参加せず、エリツィンはロシアの利益を求めてこの同意を破棄した。
結果としてソビエト連邦は1991年12月25日に消滅した。




