1話:相模国の土志田と米山家
土志田勇は、相模原市郊外の川尻の生まれで広い土地を持ちキノコやタケノコ
、山菜を採り、大きな畑をもち、近くの人にも畑を貸して、食糧難の時代にも
食べるものに困らず、また近くの川で、鮎、山女、などをとり、比較的裕福に
育ったが、母の土志田麗子が勇を1952年9月21日に産んで後、子宮筋腫
で子供を産めなくなり、勇は一人っ子だった。。
米山種子は八王子郊外で、両親は大手化粧品会社の社員で共働きの家庭で、
一人っ子として1953年3月11日に生まれた。その後、両親が共働きで、
保育園に通い、祖父母と同居していたので学校から帰ると面倒見てもらっていた。
地元の小、中学校を出て、八王子郊外の普通高校に入った。その高校の1年
の時に土志田勇と同じクラスになった。
土志田はサッカー部で遅くまで練習の日々、種子もブラスバンド部で練習の
日々を過ごした。そして成績の良かった土志田と愛想が良くて話がうまく、議論
をまとめるのが上手な種子が、クラスの選挙で、土志田が級長と種子が副級長
になった。そして、お互いに話しをするようになった。
1年の時は、顔見知りになった程度だったが、付き合うという所までは発展
しなかった。2年になりクラスが変わり、3年になり、また同じくラスになった。
最初、また同じクラスになったねと、会話を交わし、成績の良かった土志田に
、勉強でわからないところを教えてもらい様になり、お互いの家を行き来する
ようになった。
土志田は優秀な成績で東京都立大学理工学部に合格して自転車で30分かけて
学校に通い続けた。米山種子は近くの信用金庫に就職したが、計算が合わない
日は、遅くまで何度も検算して帰が遅くなるのが嫌になり、2年で退職し、
母の大手化粧品会社でセールスレディを始めた。
母の仕事ぶりを見ていて、愛想が良くて、可愛い顔でも注文をしっかり取れ、
セールス実績を上げていった。一方の土志田は、卒業後、日本電信電話公社に
採用され、八王子の種子の家から近い電電公社の事務所に通い始めた。仕事が
早く終わったときは、種子の家に寄って、夕食をご馳走になったりして、
種子の両親も土志田の性格を知り、仲良くなった。
そうして、土志田が電電公社に就職し3年目の1977年6月10日に
八王子で結婚式を挙げた。土志田家でも米山家でも一人っ子だったので、
2人とも両家を行ったり来たりしていたが本拠地は大きな敷地の土志田家の
はなれに住むようになった。土志田家の当主の土志田勇は昔から株をやって
資産を増やし夫婦で温泉旅行や国内旅行に使っていた。
一方の米山家は東北から集団就職で出て来て市営住宅に住み、化粧品の
セールスや保険の代理店をして、金を貯めて八王子の郊外に敷地50坪で
建物が30坪の建売住宅を買って住んでいた。当時の中流の下クラスの
レベルまで上がってきた。
しかし、米山の家系は糖尿病があり、土志田恒夫も定期検診で糖尿病が
みつかり食事制限や薬物療法を始めた。また奥さんの麗子さんも子宮筋腫で
腎臓に問題を抱えていた。1977年10月に、近くの産婦人科で、種子さん
の妊娠が判明し、既に妊娠4ヶ月で、出産予定日が1978年4月6日と
言われた。この話を聞いて土志田家、米山家でも大喜びした。