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病状について少し触れています
私は眠りが深い。夢もみない。レム睡眠、ノンレム睡眠を繰り返す中で人は5,6つの夢をみるという。妹が幼い頃に「あのね、ねむるたびにね、ゆめのなかでね、まちがひろがっていくの」と私に話したことを覚えている。
母も「目を閉じるとどこかしらの風景が広がるのよね」と謎な発言をするけれど、母もそれは幼い頃からだと言うし、人はみな気付かずとも不思議体験をしてるのかも、と思うのだった。
起きたらあっという間に8時をすぎていた。サクラはやはり私に寄り添って寝ていた。
母から文は寝相が悪いと言われた時に、私はサクラはそんな時どうしてるんだろう???と思いながら母の言葉を聞いていた。
サクラは早朝にエサを欲しがる。
誰がサクラにエサをあげてるんだろうと気になった。
父は文句を言いながらも与えそう。
母は猫好きと言いながら早朝には起きないから違うと思う。
叔父は猫好きだし早起きだから、サクラを可愛がりながら、朝起きて1番にすることはサクラにエサを与えているのではないかなと思う。
こんな想像ばかりをふくらませるから、私は主治医の先生から「妄想族」と言われるのだろうな、と朝から可笑しくなってしまった。
今朝はストレッチは軽くでいっかーと、身体が目覚めさせる為のストレッチをして、歯磨き、洗顔、スキンケアをして、ボーダー柄のTシャツを着て黒色の八分丈パンツを履いた。エプロンどれにしようかなぁとチェストの中を見ていたら、黒色とかはやめて淡い水色のデニム生地のシンプルなのを選んだ。
外に出てみたら長い坂のところに、父が青々しい大きな竹を割って、節の部分を取り除き、残りの竹で支えも作って置いていた。父は水の流れ具合をチェックをしていた。父は器用だなぁと感心した。
「バッ!!」と父の後ろから声をかけたら、「おぅ、起きたのか」と父は言った。父に冷えた麦茶を渡したら喜んでいた。
父に「竹ありがとうね、さすがだね、私料理をしてくるね〜」と言って、私はまた家の中に入った。
やはり冷麦とそうめんだけじゃ足りないよね、と昨夜話していたからか五合炊きの炊飯器にご飯がもりもりっと炊けていた。母が予約炊飯をしてくれたのだろうと思った。
色んな具材を入れておにぎりを握ろうかとも思ったけれど、子どもさんは小ぶりなおにぎりを多くても2個くらいしか食べれないよな、と梅干しが苦手ならいけないなと、塩おにぎりに頂きものの高級海苔を巻くだけにしようと思った。
子どもさんがから揚げが好きなことは知っていたので、幸い冷蔵庫の中に鶏もも肉が2枚あった。下処理をして肉に塩を振り、オーブンレンジで低温で両面をあたためた。塩をして出てきた余分な肉汁をキッチンペーパーで拭いた。
ニンニクは使わずにすりおろした生姜で肉の臭みをとって、肉をカットして塩味、醤油味のから揚げを作ろ、醤油味の方はパン粉を付けて揚げよ〜と決めて、肉に味がしみ込むように肉をもんで、タッパーに移してフタをした。
洗濯までするのはくたびれるなぁと思いつつも、洗濯をした。実家は大型の二層式の洗濯機で、全自動やドラム式は汚れがちゃんと落ちないからと、両親は二層式の洗濯機じゃないと、という考えだった。二層式の洗濯機は手間が掛かるけれど、全自動やドラム式よりも短時間で洗濯が終わる利点は確かだなと思っていた。
待つ間に、日記帳に今日の天気、体感での体調・気分、睡眠時間、父がすごく長い竹のそうめん流し器??を手作りをした書いた。
洗濯が終わってから、私は外は陽射しが強かったので、日焼け止めを塗り、帽子を被って、UV加工がしてあるパーカーを羽織って、洗った洗濯物のシワを伸ばして、洗濯物を1個1個裏返してから干した。紫外線で色褪せるからと母は洗濯物は裏返して干していた。母の雑さはシワは伸ばさないことだった。畳むときにまたひっくり返して畳まないといけないので二度手間だったが、母はそうやって衣服を大切にして長持ちさせてるんだな、と私も一人暮らしをするようになってからは母を見習っていたのだった。
父の荒くて短気な気性は昔からだと思うけれど、母が粗雑さや図々しさいい加減さは何時からだろうと疑問に感じるのだった。
入院中は規則正しいルーテーンで、ベルトコンベアで運ばれるように、そして無菌室のような刺激が少ない中での生活していた。
退院後一人暮らしの時になると、最初は最低でも2食は食べ、最初はちゃんと質の高い睡眠で時間的にも十分に眠るだろう。
でも、それは長くて2,3ヶ月しか維持できない、もしかしたら1ヶ月も持てないかもしれない、またうつ状態になって18時間とか寝て、最低限のことしかしない生活を送るようになると思うのだった。
入院中、私は担当の看護師さんから以前指摘されたように、「軽躁状態」になっている。
躁状態というのはその時は『元気』でも、反動でしばらくしたらエネルギー切れを起こして、必ずうつ状態になる。
うつ状態期間は寝倒しながらエネルギーを溜める期間で、今度はなにかの切っ掛けで『躁転』して『躁状態』になり、自制心が緩み色んなことをやらかして第一に家族に心配や迷惑をかけてしまうので、私は躁状態に対して恐怖心に近いものを抱くようになっていた。
主治医の先生にそう言うと、「「躁状態になりたい」と言う患者さん多いのですよ」と言われるのだった。
「そうですね、万能感があったりして、かなり脳から元気になる脳内物質が出ていますものね。でもその後必ず大きな落ち込みが来ますからね。私は怖いです」と先生に言うと頷いておられた。
家族と生活をするのは、両親の気性の荒さや、気の強さ、それぞれから私は愚痴を聞く係もしなくてはならないだろう。そうやって両親に振り回されるのは私の病に影響するのが分かりきっていた。
また同居をさせてもらうとした時に、私がうつ状態になった時に、活動量・労働量が減り、長時間寝ていたら、『こころの病は甘え』という考えの父は私に対してイラつきから暴言を吐くだろう。同じ家に住んで逃げ場はあるのか。
カウンセリングの先生は私が両親のことを相談する度に「ご両親とは程よい距離感が大事ですよ」とよく仰られていた。
程よい距離感とは、どうやったら取れるのかなぁと実際に住んでみないと、距離の取り方や対処法は分からないなぁと思うのだった。最悪『逃げ方』『離れ方』までも考えておかないといけないのかなとも思うのだった。
それ程までに、雁字搦めになっている愛情という名の鎖がさらに私を締め付け、柵が小さく小さくなっていき自由が奪われてしまう気がするのだった。
主治医の先生からは『歪んだ家族関係』だと言われていた。
間違っていても歪んだ愛情だとしても両親はどんな私であっても愛してくれるという自信があるのは、私を産み育み両親は懸命にこれまでずっと私を愛してくれたという実感があり、それは私の自己肯定感の高さや自己愛により人を愛することが出来るようになれたのだとありがたさの方が私の根底にあるのだった。
なるようにしかならないよね、と思いのままの自分の心情を小さな日記帳に小さな小さな字で書き込むのだった。
『書く』という行為は自分自身のこころの中に潜む原因を探して結論を出すまで書けない。私の小さな日記帳は私のこころの有り様をそのままさらけ出して書いたものになっていた。
精神病院にお世話になるようになって約2年位の時期だったと思います。
お読み下さり感謝です( * . .)"




