波
文章が飛び飛びで恥ずかしい限りです
まとめる能力がない状態ですみません><
友だちは温泉に行ったり、一緒に出かける時に、実家まで送り迎えをしてくれる。
私が病になっても何一つ変わらない態度で、旦那さんもそれは同じだった。
ありがたいな、私は人の縁に恵まれているなと思うのだった。
玄関を開けるとサクラはやはりチョコりんと座って私を出迎えてくれた。ただいまサクラと言って横に座ってなでなでした。
まだ両親も叔父も帰ってきていないようだった。
叔父が趣味でしている家庭菜園で採れたのであろう夏野菜があったので、野菜天を作ろうと衣になる天ぷら粉に卵、水を混ぜてしばらく寝かせた。
野菜はオクラ、ナス、シシトウ、パプリカ、大葉、タマネギを洗って下処理をしてからカットした。
小松菜は茹でて、胡麻和えピーナッツ和え、白和えどれかにすればいいやと思って、大きなボウルに洗ってから全体を浸した。白和えがいいな、と思い木綿豆腐を水切りをした。
かっぱ巻きが食べたくなり、キュウリを冷蔵庫から出して、縦にカットして大葉も一緒に巻いたら美味しいかも、と丁寧に水気を拭いて具材を並べた。
お酢に砂糖と塩を少し入れてよく混ぜて寿司酢を作った。ご飯をレンジで温めてから、少しずつ寿司酢をしてくれるを加えながらご飯に混ぜながら大きなうちわであおいだ。
頂きものの高級海苔をすまきに広げて、海苔寿司飯を薄く敷きつめて、カットしたキュウリと大葉を並べてから、すまきでクルクルと巻いて最後は全体を手で締めた。中細いかっぱ巻きになった。細く巻くのは難しいなぁと思った。
天ぷらのたねが馴染んだ頃合かなと、それぞれの野菜に衣につけて揚げていった。それぞれの野菜に合せた下準備をしていたのでスムースに揚げることが出来た。
小松菜は茹でてうちわであおいで冷ました。水切りをしていた木綿豆腐をすり鉢に入れて、少しお味噌を入れてお砂糖も加えた。味をみて、小松菜を混ぜた後にもう一度味見をしようと思った。
料理はだいたい出来たので、お風呂場や湯舟を洗った。夏は湯舟に浸からない時も両親はあるようなので、お湯ははらなかった。
叔父は我が家に同居をするようになってからだと思うけど、仕事帰りに立寄り湯や温泉に入ってくるので、実家のお風呂には入らないのだった。叔父なりの気配り、気遣いから始めたことなのだろうが、温泉友だちもいてその中には、私の友だちの旦那さんも含まれていたので、友だちの旦那さんから聞かれた時には驚いたのを覚えている。
南側の廊下に行き、洗濯物をたたんでいたらサクラが来て私の正座をしている足に両手を添えて香箱座りをした。目を閉じてサクラはリラックスしているようだった。サクラは抱っこされるのは嫌がるのに、ベッタリ私にくっつくのが好きなのだった。
「サクラは甘えん坊さんねぇ。かわいいね。頭もいいもんねぇ」と私もサクラを甘やかしていた。
両親、叔父もなかなか帰って来ないので、汁物がないなぁと、簡単にタマネギを薄くスライスをして、小さ目の片手鍋にお椀4配分水を入れて、タマネギを煮て最後に火力を強くし、といておいた卵を少し落としては菜箸でかき混ぜて、最後にワカメを入れて顆粒の和風だしを少し入れて卵とじ汁を作った。
あ!夕薬を飲むのを忘れてた!と白湯でお薬を飲んだ。
病院では夕ごはんの時間は6時だったから、病院に2ヶ月以上もいると身体が慣れてしまうんだなぁと思いながら、日記をバックから取り出して今日の天気や体調、出来事などを書いてから昨日2階から発掘してきた読み返したかった本を寝転びながら読んだ。
本というものに触れる機会を作ってくれたのは母であり、私の幼い頃からの持病である喘息だった。
母は幼い頃絵本を読み聞かせてくれた。
喘息で家に1人いる時勉強も何もかも終わった後に、また発作で眠れない夜に児童文学から読み始め、5,6年生の頃には海外の文芸書を読むようになっていた。母が初任給で購入したという海外の文芸全集と日本の文芸全集が本棚にあって私は分からない漢字や言葉の表現などがあっても読んでいた。
妹はあまり本を読まない子だったけれど、妹がこれ面白かったという本は私も読んで2人で感想を言い合うのがとても楽しかった。
母は今では絵本を自身で作ってもいる。保育園や幼稚園、小学校に自作の紙芝居の読み聞かせ??にも行っていて講演もしている。
私も調子が安定している時には手伝いに行っている。
受験生の時も毎日3冊とか本を読んでいたのに、大学に入ってから本離れをしてしまっていた。漫画も読まなくなっていた。映画も観なくなっていた。
病になってからは、集中力や本を読む体力がなくて、本を手にすることもなくなっていた。。。新聞も全く読めなくなっていた。最初は仕事をしていて忙しさから読めなかったのだが、病になってからは新聞を読むのはほんと時間がかかることで、その労力が私にはなかった。。。
生け花の先生が私が生けている後ろで俳句をひねっておられた。先生は有名な俳句の同人でもあられた。
私が生けた花の総評を述べられた後に、役枝の高さをほんの少し短くされたり、役枝を少し角度を変えられるのだった。ビックリするくらい花全体が整って先生の手は素晴らしいなぁとお稽古の度に思っていたのだった。
先生は「文ちゃん、三首の中でどれがいいかしら」と、お稽古の後に私は先生からお茶をご馳走になりながら、「私はこれが...」と言うと、「文ちゃんが選ぶ句は点数が多いのよねぇ。うふふ」と先生は言われるのだった。句会で出される句なのだろうなぁと思いながら、私は花のノートに注意点や口伝でしか今ではもう伝わらないであろう花に関する事柄を忘れない内に書いていた。社中では生けた花を写真に撮られる方が殆どだったけれど、私は写生をしていた。
いけばな教室を先生から引き継ぐ形で私がするようになり、先生には今もお世話になっている。俳句は文さんのは川柳寄りになってます!ふふふと笑われている。
カウンセラーの先生も俳句をされておられる。病院内で同人があって、先生方やスタッフさんが句会をされておられるとの事だった。
先生と私は流派は違うけれど、茶道、生け花をしているのも共通で病院に生けられた先生の花を拝見するが外来で病院に行く時の楽しみの1つでもあった。また読書もお好きで私を気遣ってだろう最近は詩集を読んだり、写真集、絵画集を見るんですよ、とか、海外ドラマで今ハマってるのがあるんです、とテレビも観れなくなっていた私に、その番組の内容を話してくださっていた。
私が過去に観た映画の話をしたりもした。主人公の俳優さんの話などで盛り上がった。
先生は患者の状態に合わせて、その患者さんが出来そうなことを勧めたり、興味を持たせたりなさるのだなぁと思った。
主治医の先生は『森田療法』を私に試みられたことがあった。
5つくらいの事柄を10分してみましょうか、と提案されたが私はどれも出来なかった。先生がメモ用紙に書かれた文字が判読不明で、先生になんて書いてあるのですか、と聞き返して先生が「すいませんねぇ意思疎通は阿吽なのに、僕の悪筆が」と大笑いされておられた。
うつ状態が酷い時だったのかなぁと思う。
意欲・気力が本当になかった。
それでも先生のブラックジョークに返していたので、先生から変に感心されていた。
私は本当に音が辛くなっていて、私の担当のワーカーさんからは、「文さんは過敏症ですもんね」と言われ、『過敏症』という症状なのか。。。と内心思いながら、実家のテレビの音が辛いから耳栓はそのままはめていた。
インプットするのは体力・気力が必要なのだった。
2階から掘り出してきたのは、女性の詩人の詩集と、フランスの児童書だった。
詩集は何の布生地分からないけれど、コーラルピンクの美しい表装だった。
入院中パラパラ読みから初めて、新聞が全部読めるようになっていた。
次に本はどうだろう、まずは詩集から始めようと入院中から少しずつ本を読むことを初めて、アウトプットとしては日記をつけていた。
不思議なもので毎回入院中は「何かしたい」という躁状態になるのだった。
手紙を書いては長くなって迷惑だからと出せない手紙が増えていったりしていた。
躁状態の精神の高揚、うつ状態の気分の落ち込みに振り回され、くたびれ果てていた。
文章が飛び石状態です...> < ՞
すみません><




