隔離 1
文は心の状態が不安定な一年を過ごします。
退院後、妹家族と温泉旅行に行った。妹の態度は普通だったので安心した。機嫌が悪い時に電話を掛けてしまったのだろうと思った。
フェリーにも乗って、カモメに餌やりをしたら姪っ子は私の後ろに隠れていた。地元のお寿司屋さんに立ち寄ったら、姪っ子は海老の握りを頼み、海老だけを食べていて可愛かった。家族写真を含め、たくさん写真を撮った。
病院の通院はカウンセリングが月に二回、診察が月に一度になった。
生け花は先生に「体調が良くないです」と言って断ってお休みさせて貰った。内心で勇気が必要だったが、先生に伝える事が出来てホッとした。
一人暮らしは続けていて、入院した時にはまったビーズ作りをしたくて、町の手芸店でビーズの本とビーズや金具を大量に買って、何かしらビーズのアクセサリーを作っては姪っ子に送ったり、母や友達にあげたりしていた。精神状態は『躁』だった。朝早くに目覚めて、ルンルンと町中を歩いていた。また夏には白いツバが広い帽子を被り、白のワンピースを着て歩いている姿を、地元の小学校の先生に目撃されて、「どこの女優さんかと思った」と言われたりした。
雑貨店が出来ていて入ってみたら、小物がとても安い値段で売られていた。お店の店主の男性が「気功もしています」、と言われて気功が分からなかった私は家に帰って母に電話して聞いたら、すごい剣幕で「もうその店には行かないで。私が本物の気功をする友達の所に連れて行くから」と言われて、隣町の母と同世代の女性から私は気功をされたが、何も感じなかった。
私は危うい精神状態で、食べ吐きもまたするようになっていた。両親を心配させているのは分かっていたが、やめられなかった。
母から私が住む町の臨床心理士でスクールカウンセラーの女性を紹介された。会ったら、私が最初に入院した病院に私をお見舞いをしに来てくれた女性だった。その時私は意識障害が始まっていて、「だぁれ〜」と聞き、その女性が「お母さんの友達です」と言われて、私はケタケタと笑い「おかしー、年が違い過ぎるー」と幼児退行した喋り方をしたのを覚えていた。
女性は私より二、三才年上だった。ふっくらとされていて、優しい雰囲気の方だった。
私たちは地元の小学校の相談室でソファーにテーブルを挟んで座り、定期的にお茶を飲みながらお菓子を摘みながらお喋りをしていた。
ある時、「『メリット・デメリット表』を作りましょうか」と言われて、一人暮らしの良い点、悪い点と両親と暮らすのの良い点と悪い点を紙に書き出して見てください」と言われて、私は一人暮らしの良い点に
*自由
*気楽
*楽しい
*気を使わなくていい
また悪い点に
*寂しい
*心細い
*孤独
と書いた。
両親と住む良い点に
*楽しい
*落ち着く
*安らぐ
*安心
*猫がいる
と書いた。悪い点に
*自由がない
*息が詰まる
*気を使う
*食べ吐き出来ない
と書いて、女性に見せたら、「驚きました」と言われて、何について驚かれたのかな?と思っていたら、「文章で書かれると思っていました。それが修飾語で書かれていたからビックリしましたよ」と言われた。しっかり文章にしなければならなかったのだな、と「メリット・デメリット表はまた今度書きます」と女性に言った。女性はちょっと怒った調子だった。不真面目に思われたのかな、と反省していた。
女性とはランチにも一緒に色んなお店に行った。美味しいお店で、オーガニック野菜を使っている所を選ばれていた。楽しく会話しながら食事を楽しんでいた。
秋に町で開催されたマルシェには、女性の旦那さまも一緒に行って、マルシェに出店している食べ物屋さんをまわり、旦那さまが奢って下さった。私は出店しているご夫婦がネパールで仕入れたという、アルパカ素材の大きなストールを二枚買った。とても安かった。ご店主は「巻いてロングスカートにもなります」と言われたが、私は家の二人掛けのソファーに二枚を重ねて掛けた。
冬になったら、さすがに町中を歩くのはやめた。お風呂もまた三日に一度シャワーを浴びるだけにして、普段はホットタオルで顔と身体を清拭していた。夜は早くベッドに入って寝ていた。
食べ吐きは週に一回くらいのペースでどうしてもしたくなってしていた。
三月末の妹の誕生日は私はカウンセリングの日だった。母が病院に連れて行ってくれていた。
カウンセリングが終わり、帰省して来ると言う妹と姪っ子と何処かで待ち合わせしてランチをしようと母が車を停めて電話で話していた。妹は断ったようで、私は楽しみにしていた事が無くなった悲しみで大声を上げて泣き出して、泣き出したら、自分で止められなくなって叫びながら泣いていた。
母が病院に電話を掛けた。連れて来て下さいと言われたのか、また病院に戻って行った。
私は目を閉じて今度は自作の歌を大声で歌い続けていた。誰かに手を引かれてソファーに座らされたが、身体を横にして歌い続けていた。
目を開けて見たら、外来の待合室だった。みなに見られていたが気にせず歌った。知らない初老の看護師さんが私に付き添っておられた。歌うのが楽しくて、好き勝手に歌っていた。
ようやく私の主治医の先生の診察室に呼ばれた。母と入った。私は歌い過ぎて疲れて机に突っ伏して腕を枕にしていた。
「先生」と言ったら、「貴女と話す必要はない!」と大声で叱られた。
先生は私を無視して母と入院の手続きを取られていた。そして病棟まで外来の主任さんと付き添って下さった看護師さんに車椅子に乗せられて、病棟の前にはカッコいい眼鏡の看護師さんと強面な看護師さんと看護助手さんが出迎えに来ておられた。
「文さん、分かるね?『隔離 1 』よ」とカッコいい眼鏡の看護師さんから言われたが、意味が分からなかった。
看護師詰め所にカウンセリングの先生がおられて、先生に「入院する事になりました」と言ったら、先生は唖然とした表情をなされていた。主治医の先生も「カウンセリングじゃどうも無かったのに」とこぼされていた。私に「今の貴女は本来の貴女ではないです」と仰った。
昇進して主任になられた女性の看護師さんから、体重や身長を測られて、この頃の食生活を聞かれ、「バナナとホットミルクだけです」と答えたら「じゃあ、ペースト食ね」と言われて、食事の形態が決まった。
前の担当の看護師さんが奥から出て来られて私は「担当になって下さい」と頼んだら、「はい」と軽い調子で了承して下さった。
私は三階の開放病棟の三室ある隔離室の一番奥の部屋に入れられた。
まだ歌い続けていた。全てを出し切るまで歌うぞ、とばかりに天井にある集音マイクに歌声が拾われても構わない、と大声で夜通し歌い続けた。
隔離室は六畳くらいの広さがあって、床に直にお布団が敷かれているだけで、他に物は無かった。トイレは仕切りの奥にあった。トイレのドアは無かった。
出入り口は十センチくらいの幅の扉を開けるとスペースがあり洗面所とダクトがあった。外に繋がる幅十センチの扉があった。
窓は無かった。
看護師さんを呼ぶ手段は、天井の集音マイクに叫ぶしか方法は無かった。
私はダクトの音の五月蝿さと、病棟内に流れている環境音楽に頭が痛くなり、それに対する文句を叫んでいた。
隔離室には何も持ち込めないのに、私はポケットに手帳とボールペンを持っていた。掛け布団を頭から被って、入院する事になった事などを書いていた。
カッコいい眼鏡の看護師さんにボールペンを気付かれてしまって焦り、私は一緒に来られていた宝塚の男優さんのような看護師さんに「タンポンです」と耳打ちした。嘘をついた。彼女は彼に説明をしてくれて、取り上げられずに済んだ。
翌日は私が嫌っている看護助手さんから、「お風呂に五分で入って下さい」と言われて、呆れてしまった。着替えを出す時間に、お風呂場までの移動時間で五分経つじゃないかと内心で思っていたが、次にいつお風呂に入れるのか分からないから、私は私用のクローゼットを教えて貰って扉を開けたら、紙袋がたくさん山積みになっていて、何が中に入っているのかサッパリ分からなかった。とにかく急いで紙袋の中をあせり、下着と着替えとバスタオルを出して、お風呂場まで行く途中に看護師詰め所の中に主治医の先生がおられたから、私は先生に手を振った。先生は苦笑いをされて「あまり歌わないように」と仰り、のど飴を下さった。私は宝物にしよう、と思った。
お風呂場は四階の大浴場だった。私が入るのは最後だと聞いていたから、かけ湯だけしてお風呂のお湯に潜り、浸かったまま髪を洗った。またお湯に潜って髪の泡を落とした。身体は洗わずにお風呂から上がり、髪と身体を拭いて外に出たら、私の行動がバレていたようで「もうしないで下さい」と叱られた。
隔離室の部屋は私は裸足だし、布団も直に敷いてあるのに、看護師さんや看護助手さんはトイレや外も歩く靴で入って来られていた。私は密かに隔離室に靴をちゃんと脱いで入って来られる方を信用しようと決めていた。
翌日、担当の看護師さんがダクトを切り、環境音楽を消して下さった。「文さんには必要でしょう、と眼鏡とボールペンとノートを下さり、私が驚いていたら、「先生からも許可を貰っています。文さんが暴れるとまた眼鏡を壊す、と先生は心配されて眼鏡を預かっていたそうです」と言われて、先生優しいなーと思った。担当の看護師さんは靴を脱がれていた。
「クレーゼットの中を整理したいです」と頼んだら、快く承諾して下さり、私は紙袋から衣類やタオルを出して、分かりやすいようになおした。
困っていたのは、歯を磨かせて貰えない事だった。歯磨きの時間を取って下さらないのだった。口の中がヌルヌルとして気持ちが悪くなっていた。
お洒落な看護助手さんが夜九時頃に来てくれるようになった。私は歯磨き、舌ブラシで舌も磨いた。歯間ブラシで歯の隙間の掃除もした。
「文ちゃん、なんで摂食障害になったの?」と聞かれて、「高校の頃に部活を辞めたら太ってしまって、食べ吐きする事を覚えました。それからやめられません」と言うと、「なんで痩せたいの?」と聞かれて、「母が痩せていて、私の美の基準が母だからだと思います」と考えながら話した。お洒落な看護助手さんは椅子に足を組んで座っておられて、足をプラプラさせながら私の話を聞かれていた。
「おやすみなさい」と言って隔離室の中に入って寝た。
『隔離 1 』の間は、サバイバル生活だと思った。不自由さを楽しむしかないと開き直った。
看護師さんは三食運ぶ時と朝の検診と問診の時にしか会えなかったから、頼み事をどうするか、シュミレーションしながら考えていた。
ある夜、口ばかり達者でお調子者の男性の看護師さんが薬を私に渡して私は何も考えずに飲んだら、薬が間違っていて私は動悸がして発熱した。
カッコいい眼鏡の看護師さんが私の異変に気付いてくれて、点滴をしてくれた。点滴が終わるまでついていてくれて、「文さん、薬は自分でもチェックしないと駄目。薬剤師がチェックして、看護師がダブルチェックして、患者さんがトリプルチェックしないとね」と教えられた。私は頷いて、彼は仕事が出来るなーと思った。
カウンセリングの先生が、入り口で靴を脱いで上がろうとなされて、私は先生に「土足でいいですよ、先生。みなさん土足ですから」と言った。先生はそれでも靴を脱がれて部屋に入って来られた。
「文さん、何があったの?」と優しく言われて、私は涙を流しながら、「妹の誕生日を台無しにしてしまいました」と経緯を話した。
「もう、落ち着いているみたいですね」と先生に言われて、「まだ精神的に高ぶっているように思います」と言った。
お風呂は一日おきだった。クローゼットを開ける度に紙袋が入れられていて、父か母が毎日病院に来ているのが分かった。ノートに手紙を書いて隠れてクローゼットの中に忍ばせた。
主治医の先生は隔離室に入って一週間後に部屋に来られた。土足で入って来られたから、「先生、知っておられますか、私は裸足です。ですがみなさん土足で入って来られます。靴を脱がれたのは、七人だけでした」と私が言うと「それは失礼しました」と靴を脱がれて床に胡座をかかれた。「院長先生になられたそうですね。おめでとうございます」と私は言った。「何度も断ったんですけどねー」と先生は仰り困った顔をなさった。
先生の指示で私は『隔離 3 』になった。看護師詰め所の横にある隔離室の扉の外まで行ける様になった。部屋の中にベッドとクローゼットが運び込まれた。
携帯の使用の許可もおりて、私はすぐに母に電話を掛けた。母が「今日も行くから、やっと面会出来るわね」と言っていた。父に携帯を母が渡したようで「何か持って行くものは無いか」と言われて、「スリッポンと住宅にジュースを箱買いしているのがあるから、持って来て欲しい」と私は言った。ゼロカロリーのフルーツ紅茶だった。
両親はすぐに家を出てくれたようで、早くに病院に着いた。両親は私の顔を見て泣いていた。
スリッポンを履いて、人間らしい気持ちになれた。
『隔離 1 』とは、一番状態が悪い患者さんの事をそう呼ぶみたいです。
本当はギリシャ数字で表します。
文は『躁』状態です。
お読みくださり、ありがとうございます!




