整理と永禄の流星群 その一
永禄五年(1562年)四月、信濃、浅間にて
海野幸稜
「ふう、色々な事が起こり過ぎだよ」
あの事を含めて、頭の中を整理するために、一人、浅間に来ていた。
浅間、ここは、浅間温泉。
深志城より一里ほど北にある温泉地だ。
浅間温泉が開かれたのは、今から約六百年前。地元の豪族が天慶二年(939年)に発見したとされている。
うん、困った事があったら温泉が一番。
あれほど悩ましくて困った事が、実はそんなに悩む事ではない事が分かり、深く悩んでいた事が馬鹿らしくなる。
ああ、素晴らしきかな、温泉効果。
単に、どうでも良くなっただけとも言う。
家臣の角雄と段蔵たちには役目を与え、やっと一人になれる場所と時間を作った。勿論、銭を使って人払いし、今日だけは温泉を貸し切ったのだ。貸し切りの温泉露天風呂だ。
ヒャッハー、ビバ、温泉。露天風呂、最高だぜ。
角雄は、深志城で濃姫様たち質の見張り役兼、世話役として待機。
段蔵は、分水衆を引き連れて上杉軍とともに春日山に行った。春日山で届けを出して解散させ、兵たちを故郷に帰すためだ。
兵たちを故郷に帰し、休息を与える事はとても重要な事。
特に今回は、長丁場となったので尚更だ。
そもそも、星降りの計画は俺を入れても数人しか知らなかった。
他の武将たちは、まさか、上杉勢が武田を喰い、信濃、甲斐、美濃、そして関東にと広域に展開、そして長期に渡って駐屯するとは想像もしていなかった。
勿論、その様な事への気構えも、家族への手当てもできていない。
今後の将兵たちの気構えを作る上でも、戦が落ち着いたら故郷へと帰さねばならなかった。
現代と異なり、君主と言えど、無理難題を言えば部下に切り殺される事もあるからだ
既に、北信濃を平定した宇佐美様は、統治を高梨政頼様に引き継ぎ、兵を率いて越後へと引き上げていた。
そして、深志城から南信濃に睨みをきかせていた柿崎景家様も、村上様が美濃から率いて来た上杉勢を預り自軍と合流させて春日山に向かった。
村上様は、深志城に残り信濃衆の編成を手掛けている。終わり次第、南信濃、東美濃へと派遣する予定だ。
今、信濃や美濃には極少数の上杉勢が残ってはいるが、今後は、信濃衆により編成された兵士で守らねばならない。
俺も春日山経由で青海に帰る予定だったが、体調を崩したという理由で、深志城に留まって温泉に来ていたという訳だ。
深志城には、東美濃と違い色々な情報が集まっていた。村上様が単に伝え忘れていた事も含めてだ。
耄碌には、まだ早いですよ、村上様。
あと、十年は元気でいて貰わないと。
さて、色々な事の最初だが、昨年末に御屋形様の名が変わっていた。
村上様から新しい名を聞いた時に「誰?」と尋ねたら怒られた。
コロコロと名を変えないで貰いたい。
その御屋形様の名前だが、上杉政虎から上杉輝虎なった。
御屋形様は、京にいる将軍足利義輝より「輝」の一字を賜り輝虎に改めたらしい。
足利義輝は、御屋形様や武田信玄に共同して上洛し、幕府を守り立てるよう要請したが、宿敵同士である両者がそんな事で手を握る事もなく実現はしなかった。
しかし、星降りに寄って上杉は武田を飲み込んだ。上杉は東美濃まで来たのだ。
将軍が、二度も上洛した御屋形様に期待するのは仕方ない事。
名を贈るから助けろと言う事だ。
今、御屋形様は、将軍から上洛しろとの矢の催促を受けている。
御屋形様の力で三好家の影響力を排除したいと言う将軍の気持ちも分かるが、上杉の関東での戦も、今が正念場。
御屋形様に上洛している暇はない。
暇はないはず。
御屋形様、暇はないですよ、青海にいるのかも知れないけど。
今、御屋形様は、内海屋の船でこっそり江戸から春日山に戻っていて、上杉軍を再編成中だ。
北条が関東で蠢動している今、早く軍編成を終え、直ぐにでも越山しなければならない。
だが、軍編成にも時間がかかる。
各地に散らばった上杉勢を一度越後に集め、統治組と関東遠征組に分けた上で軍編成しなければならない。
そう、再編成に手間がかかっているのは、占領地統治組の編成も同時に行っているからだ。
上杉家の統治範囲は、越後、信濃、甲斐、美濃、上野、武蔵と一部だけの地域もあるが、既に六か国に跨がり、石高が百五十万石に迫る広大な領地となった。
越後以外の地に統治する者を置かねばならない。
越後の地に残りたいと望む者、知行が増えるならばと移封を望む者、意図的に移封させたい者。
利害関係者で相談した結果、移封となった場合は、本人、その家族、そして家臣団と、大移動が発生する。
そんな調整とともに、関東遠征軍の再編成を行う。時がかかる、だが、敵は待ってはくれない。やるしかない、と言う具合だ。
幸いにして、武田征伐とそれに続く戦で大功を立てた者はいない。恩賞となる移封で揉める事が少ないと思われるのが救いだ。
今、各地域の統治者として内々に決まっているのは、甲斐と北信濃、東信濃のみ。
甲斐には、長尾政景様が配された。
これは、意図的な移封だ。
上杉長尾一門の発展が名目なのだが、実態は、御屋形様に挑んだ事のある政景様が属する上田長尾家と、御屋形様を支えてきた古志長尾家との間にある確執の緩和が目的だ。
御屋形様が不在となりがちな越後で、お互いに爆発しては皆が困る事になる。
利害関係人の合意で移封となった。
長尾政景様と家臣団の引っ越しが済むまでは、直江実綱様が甲斐の面倒を見る事になっている。
北信濃には、高梨政頼様が配された。
もともと北信濃の国人で、御屋形様の叔父であり、村上様とも姻戚関係にある人物だ。
東信濃には、村上義清様が配された。
東美濃平定の恩賞にと、今の知行地に旧領とともに加増された形を取る。もともと御屋形様が約束していた地でもある。さらに美濃方面軍の総大将も兼務となった。
三人は、配された地域の筆頭として他の武将や国人たちを束ねる事になる。
正式な通達は御屋形様と上杉家臣団で開かれる評定の場となるが、上杉家臣の有力者が合意している事だ。ひっくり返る事はない。
物事は、事前の根回しで決まっており、発表の時に初めて分かる事などあり得ない。
戦国時代、そんな恐ろしい事はできない。
只でさえ恩賞での負の感情は、遺恨に繋がり易い。負の感情が暴発して謀叛となったら目も当てられない。
次の情報だ。
関東の情勢だ。
去年の暮れに、上野箕輪城主の長野業正が亡くなった。
長野業正は、武田信玄の上野侵攻を全て撃退した戦上手な男だった。それに山内上杉家の忠臣でもあり、上杉を継いだ御屋形様にも従っていた上野の要の人物。
その長野業正が亡くなった事が上杉勢の弱体化と見えたのか、北条方に加担する者が出た。
北条方が上杉方に戦で敗け続けているにもかかわらずだ。
その者とは、成田長泰と佐野昌綱の二人。
成田長泰は、武蔵国の忍城城主。
この男は、関東管領の就任式での出来事を根に持っていると噂されていた男だ。
御屋形様を嫌って北条方に付いたのであろうと、皆が納得したかの様に言う。
本当の理由は分からないが、北条方に付いたらしい。
佐野昌綱は、下野国の唐沢山城城主。
関東一の山城と称される唐沢山城と、佐野昌綱の巧みな戦略によって生き延びてきた国人だ。
もともとは関東を治める公方の家臣だったが、公方の力が弱くなると北条につき、御屋形様が越山すると上杉につきと、関東の国人に有りがちな、強い方につくという選択をして生き延びてきた者だ。
この度は、北条有利と見て、上杉から北条に乗り換えたのだろうとの話。
家を守るため、強い方につくのは間違いじゃない。
だがしかし、今回は誤った選択だ。
上杉方が敗けても、上杉方は越後に退くだけだ。しかし、北条方が敗けたら関東に敵がいなくなった上杉方が佐野家を許すとでも思っているのだろうか。それは甘い考えだ。
北条氏康に上手く乗せられてしまったのだろう。
上野から武蔵へと至る道、そして、上野から下野へと至る道といった重要な拠点を治める二人の武将が、北条方についた。
この事も御屋形様が上杉軍の再編成を急く理由になっていた。
さて、ここからは、温泉に来た理由だ。
沢山の面倒事があったからだ。
面倒事のその一だ。
村上様は知行地が増えた。
越後の根知、信濃の旧領、東信濃。更に、美濃方面軍の総大将としての東美濃を守らねばならない。南北に長い地域の担当となった。
村上様が、根知から東信濃への移封でなかったのには意図がある。
なぜなら、それが御屋形様たちの決めた、俺への恩賞らしい。
村上様は、俺に根知の城代を任すと命じた。
そんな面倒事を俺に任せないで貰いたい。それに屋敷のある青海とは微妙に距離がある。引っ越す積もりはない。
「村上様、某は若輩者、その様な大役は勤められません。謹んで辞退致します」
と言って頭を下げた。
はい、怒られました。
「馬鹿者、素直に引き受けよ」と言われました。
基本的に恩賞の拒否はないものらしい。
そりゃそうだ。恩賞を出す側の面目を潰す事になる。謹んで受けるのが習いだ。
しかし、城代となって根知を治めたとしても、碌な事にならないのは目に見えている。
税が重いと民からは「酷い殿様だ」と恨まれ、税を低くしたらお隣さんから「何やってんの」と恨まれる。
本当、根知の知行収入分の銭を、矢銭として払うから勘弁して欲しい。
言えないけど。
良し、丸投げしよう。当てはある。
その当てを含めてが、面倒な事のその二だ。
深志城で村上様から三人の若者を紹介された。
三人ともに俺と同じ歳頃の若者で、皆が、星降りによって運命が変わった者たちだ。
村上国清、村上様の後継ぎ。
御屋形様の娘と婚姻の約束をしている。
勿論、御屋形様の娘と言っても、杏との間にできた前の事ではない。
朝倉義景の娘で、御屋形様の養女だ。
村上国清はその娘と婚姻したと同時に、断絶していた山浦上杉家を継ぎ、上杉輝虎の後継者候補にもなる事になっていた。
しかし、星降りによってその話しも変わった。
村上様が信濃の地を取り戻し、大領を任される事になったからだ。村上家を継ぐ可能性が高いので、婚姻や山浦の話は保留中だ。
朝倉家と調整中なのだ。
朝倉家としては、山浦を継ぎ御屋形様の後継者候補になる男に、嫁がせる積もりで養女にと送り出すのだ。その様な上杉の都合は知らない。
国清と会って挨拶した時は、睨まれた。
俺の挨拶には、完全に上から目線で挨拶を返してきた。
俺の事は、どうも気にくわないらしい。
自分は美濃の戦には連れていって貰えなかったのに、俺は小姓ということで美濃に連れて行かれた。
仕方なく、村上様から命じられた信濃衆編成を大切な役目だと自分に言い聞かせながら、旧家臣たちの処を走り回った。
村上様に、誉めて貰おうと頑張っていたらしい。
ところが、美濃から戻ってきた村上様は、頑張った自分の事には何も言わず、俺の美濃での働きを誉めるものだから納得がいかない。
今の定まらぬ己の状況に苛立っている処に、その仕打ちだ。
俺が悪事を働いて、そう仕向けた様に見えたのだろう。
それが、俺への態度となった様だ。
知らんがな。
全く、面倒な上司の息子だ。
虐めたくなって、俺と村上様の美濃での仲の良い日々の話しを聞かせたら、悔しげに更に睨みつけてきた。
けけ、このファザコンめ。
諏訪勝頼、武田信玄の四男だ。
なぜ、ここにいる?
首をはねられていてもおかしくない男がここにいた。
挨拶の後に村上様にこっそり聞くと、御屋形様は武田家を根絶やしにする気はなく、また、勝頼については既に諏訪家人として扱う事になったと言った。
その生き残った諏訪勝頼が、暗い目で俺を見る。
根暗だ。
勝頼は産まれた時には、諏訪家に入る事が決まっていた。川中島の戦が終わった後に、公式な儀式を執り行う予定で、母親といっしょに諏訪にいて、父親や兄が亡くなった星降りの難を逃れた。
甲斐府中にいては、諏訪者と言われ、諏訪に来ては武田者と陰口を叩かれる。
尊貴な血筋を誇る諏訪家と、その諏訪家を征服して諏訪の娘に子を産ませた武田家。その確執は根深く、勝頼はどちらにいても余所者扱いだ。
暗くもなろう。可哀想だとも思う。
だが、それとこれとは別だ。
村上様は、その諏訪勝頼を俺の家臣につけると言った。
速攻で、俺は言ったさ。
「村上様、某は若輩者、未だに己の事で精一杯でございます。その様な者が家臣を持つなど、他の武将の方々に笑われてしまいます。某だけが笑われるならば未しも、家臣を笑われるのは我慢がなりません。謹んで辞退致します」
と言って頭を下げた。
はい、怒られました。
「馬鹿者、笑われぬ様に精進せい。兎に角、お前に預ける。家臣として立派に使ってみせよ」と。
ああ、根暗が移りそうで嫌だ。
確かに、村上様、武田家、諏訪家は連合して滋野一族を倒した。
海野平合戦の一件だ。
その敗者である海野家の俺の下に、今回の敗者である諏訪家の者をつける事は、納得感がある。
勝った者が全てを奪うのだ。
他の武将もその様に感じる事だろう。
しかし、俺には分かる。
村上様は、あの暗い目が嫌で、俺に押し付けた。
「村上様、酷いです。俺も嫌です」と叫びたかった。
最後の一人。
こいつには逆の意味で困った。
真田昌幸、真田幸隆の三男。
戦国時代きっての知将と名高い人物。
戦国史好きにとっては、あまりにも有名な武将だ。
真田昌幸も諏訪勝頼と同じような経過を辿って生き残った。
昌幸は三男のため、武藤家と言う処に養子に入っていた。
しかし、真田家の当主、そして昌幸の兄たちが海津城より戻らない。真田家の家人たちは、急遽、昌幸を武藤家より呼び出し、真田家を継がせたらしい。
俺の家臣となる事で、公式にも真田家当主となるのを認めて貰うのが狙いだ。
どうやら、真田家は、星が降った後の早い時期に海津城の跡地を調べたらしい。宇佐美様が攻めるより早く、恭順の意を示して今に至っている。
村上様から真田昌幸を俺の家臣にすると言われた時は、「やっと当たりが来た、これで楽ができる」と小躍りしそうになった。
踊らないけどな。
諏訪勝頼の時の返答では、村上様に怒られていたので素直に承諾した。相手は真田昌幸だから断る理由はない。
それが、間違いだった。
昌幸の嬉しそうな笑顔に騙された。
滋野一族で海野と言えば、真田の主家筋に当たる家。
俺は、てっきり主家筋の海野家に仕える事になって嬉しいのだろうと思ったのだが、違っていた。
俺が、昌幸に「宜しく頼む」と言うと、「某の名は、昌幸のままで宜しいでしょうか」と笑顔で返してきた。
名前ぐらい好きにしたらと答えそうになって、昌幸の笑顔が宇佐美様の顔に重なって見えた。
そこで、試されていると気づいたのだ。
主君となる者を試すとは、とんでもない家来だ。
真田家は、海野家の後継の家だと言っている。海野平合戦で敗けて散った海野の後を継いだと。
だから、真田家の通字は「幸」であり、家紋は「六連銭」だ。もとは海野家のもの。
では、「昌」の字は、何だろう。
武田信玄からではない。もとの名は晴信だ。そして、父親は信虎のはず。
では、武田家臣の誰かに貰ったか。
記憶は曖昧だが、俺の知っている武田家臣の名前に「昌」を使っている者は多い。
彼らの誰かから「昌」を貰ったのだろうか。
誰だ。
武田ゆかりの人物が関係しているのは間違いないだろうが、誰かまでは分からない。
分からないし面倒だ。そのままで良いだろう。
「そのままで良い」と言おうと昌幸の顔を見て、違うと思った。
なぜ、そう思ったかは分からない。でも、そう思った。
昌幸の問いは、名の事ではない、と気がついた。
「昌幸、名とは、とても大切なものだ。お前の考えを聞こう」と問いを問いで返した。
すると、「はい、それでは。某の名、幸は真田の通字、そして、昌は武田ゆかりと思われるかも知れませんが、字本来の意味でございます。故に変える必要は、ないものと考えます」と昌幸は、笑顔で答えた。
「昌」の本来の意味、それは「盛ん」「栄える」だ。
昌幸、誠に良い名だ。
「昌幸、良き名だ。大切にせよ」と言うと、昌幸は「はは」と言って頭を下げた。
これで終わりだった。
俺が思うに、昌幸のあの笑顔には色々な思いがあったのだろう。
父親や兄たちがいなくなった真田家を、盛り上げていこうとの思い。
武田遺臣としての「昌」の字を残す意地。
そして、俺を主君として受け入れられるかだ。
俺が、合格なのかは分からない。
そんな事は、どうでも良い。
俺が、鳶兄弟以外に諏訪勝頼、真田昌幸という家臣を持つ事になったのが、重要な事だ。
勝頼に昌幸、家臣になった面倒な二人の顔を思い出すと溜息が出る。
ええい、憂さ晴らしだ。
つづく




