反撃と毒
永禄五年(1562年)四月、相模、小田原にて
北条氏康
既に桜の花も散り、春の風が心地好い日が増えた。もうしばらくしたら梅雨の季節がやって来る。
実に平穏な日々が関東では続いている。
北条方から上杉方を攻めねば戦は起こらない。上杉方からは攻められる事がないのだ。
日の当たる縁側に座り、織田信長からの書状を読む。
書状を読み終え、春の日に当たりながらゆっくりと目を閉じる。
織田が上杉と和睦した。
上杉は美濃の斎藤と結び、散々に織田勢を蹴散らし、織田家の所領は尾張の六割程度になった。
織田信長は、和睦では多額の銭と三人と言う質を取られた事に怒る。上杉勢はまるで守銭奴の商人の様で、その頭領である上杉政虎は関東管領に相応しくないと非難する。
ともあれ、上杉勢は東美濃から退いた。
織田と北条が組めば上杉など恐れるに足らず、一段落したら攻勢をかける故、北条方も関東で上杉方を叩いて欲しいとある。
書状からは、織田信長の再戦への気概が滲み出る様であった。
上杉勢は戦に滅法強い。
この冬は北条も織田も戦で散々に敗けてしまった。
北条とてこれ以上戦に勝てぬ様であれば、家臣たちの心が離れ、いずれ潰れてしまう。小さな勝ちでも良いから、一つ勝ちが欲しい処だ。
戦で勝てないならばと信長と組み、美濃のいる上杉勢に謀略を仕掛けてみたが、上手くかわされてしまった。どうやら、美濃の斎藤家臣に知恵を持った者がいるらしい。
戦も謀も上手く行かぬ。
だが、悪い事ばかりではない。ようやく実った事もある。これまでの働きかけに応じた者が出た。
本願寺と蘆名が動く。
一向宗本願寺が縁のある武田家の弔い合戦とばかり、越中に兵を上げる事を約束した。
本願寺宗主の妻と武田信玄の室は姉妹であり、宗主と信玄も義兄弟であるためだ。
実際には武田の弔いなど関係はない。一向宗の版図拡大を進めたい目論見で声を上げたのは明白である。
その一向宗と越後長尾家との因縁は深い。
上杉謙信の祖父は、越中で一向宗との戦により敗死。父親はその弔い合戦のため、越後では一向宗の禁止令を出し、越中には数度となく侵攻を繰り返した。
一向宗と越後長尾家は今回の事がなくとも、初めから敵同士なのだ。
これで越中は揉める。上杉勢は越中に兵を出さざる得ない。
更に、蘆名だ。
蘆名盛氏、今は家督を嫡男に譲り隠居し、止々斎と名乗っている。家督を譲ったとは言え、実権は止々斎が握っている事は間違いない。
この男は貪欲で、隙あらば敵を攻めて喰い、蘆名家最大版図を築いた。
その蘆名が、上杉政虎が留守の越後に目をつけた。
止々斎が目をつける様に仕向けたのだが、北条の意図も分かって乗ったに違いない。
これで役者は揃った。皆の利益が一致したのだ。
越中で一向宗が、尾張美濃で織田が、北越後で蘆名が、そして関東で北条が上杉を攻める。
上杉政虎よ、四面楚歌を如何する。
ゆっくりと目を開ける。
先ほどと変わりない日射しが燦々と降り注ぐ。その様な日を浴びていると、氏政が現れた。
「父上、御加減は如何ですか。その様に起きていては体に障りますぞ」
「氏政か、大事ない。もう熱は引いた。これは毎年この時期の事よ、心配するでない。それよりもこの文を」
織田信長よりの書状を氏政に渡す。
氏政は縁側に腰を下ろして、受け取った書状を読み始めた。
「やはり、織田では上杉に敵いませぬか」
「仕方なかろう。上杉勢の美濃方面の大将と言う村上義清は戦上手な男。信玄と互角に合戦できる者もそうそうおるまい。その様な相手に織田だけで戦に勝つのは難しかろう」
「そうですな。尾張の弱兵では生き残っただけでも上々と思いましょう」
「氏政、そう侮るではない。織田信長はその弱兵で義元を討ち取ったのだ。戦の勝ち負けに兵の強弱は余り関係ない。弱兵であれば勝つ工夫をしたら良い。また、強兵でも驕れば敗ける事など数多もある。覚えておくが良い」
上杉は強兵、だが、驕らぬ。驕る様であれはつけ入る隙もあろうという処なのだが。
「分かっております。ですが、織田信長が今川義元公を討ち取ったのは、信長の軍略でも尾張兵の力でもありませぬ。時の運と天の力でございます。義元公が討ち取られたのは、赤子の拳もあろう雹が降った為でございましょう」
「氏政。では、この程の武田に起きた事も時の運に天のお陰と言うか」
「左様、義元公も信玄公も、織田や上杉に敗けたのではありませぬ。時の運、そして天の力に敗けたのです。時の運や天に挑んで勝てる者などおりませぬ」
「ほう、時の運と天が上杉や織田を勝たせ、今川や武田を討ち取ったと」
「いえ、そこまでは言いませぬが。織田は兎も角、上杉には天が味方したのは確かな事」
世の人々は、皆、氏政の言う通りに思っておる。
天が上杉の味方をした。天が星を降らせ武田を滅ばしたと。
武田が滅んだ後に、上杉政虎は京の朝廷と幕府に金を納めた。特に陰陽寮に多額の金を納めたと北条に縁のある公家や商人が知らせてきた。
京の人々の間では、陰陽寮が星降りを上杉に売ったらしい。それで上杉は逆らう武田を懲らしめたのだと囁かれている事も。
その様な話しがある訳がない。都合良く武田の籠る海津城に星が落ちるなど。
しかし、事実、星は落ち、武田は滅んだ。海津城はなくなり、大きな窪地があるだけと調べた者たちの報告も受けている。
全てが信じられん。だが、真なのだ。
皆、信じてなどはいないが、折り合いをつけるために、天が上杉の味方をしたと思い込む様にしている。でなければ納得できない話しなのだ。
「……」
「父上、北条は兵を分けております故、問題ありますまい。大きくは小田原城、川越城、鉢形城に」
氏政は、儂が武田と同じように北条も星降りに寄って滅ぶのかと心配していると思った様だ。その様な心配などしておらぬ。
兵を各城に分けた事で、効果的な戦ができず敗けが続いた。勿論、上杉政虎が越後に戻るまで各城に籠り、守りを固める事を支持したのも儂だ。
策の誤りとは思っていないのだが。
「それに、ようやく本願寺と蘆名が動くのです。やっと役者が揃いました。これからは我らの攻める番」
「そうだな」
「関東は我ら北条の物となり、織田も奪われた領地を取り戻せましょう。待った甲斐がありました」
「関東から出て行かぬのであれば、叩き出すまでか」
「そうです、父上。上杉なぞ、また、関東から追い出しましょうぞ」
熱が出たお陰で、少し弱気になったのか。氏政が言う様に上杉なぞ関東から追い出してしまえば良いだけ。何も難しく考える必要はない。
既に、北条の当主は氏政。
勢いがなくなった家は滅ぶ。
だからこそ、若い氏政に家督を譲った。
老人は全てが心配事になり、今を守ろうとして勢いを殺してしまう。
故に、若い者に託す。老人は若い者が困った時に知恵を貸すだけで良い。
儂も、また然り。
「氏政、今宵は良い月となろう。共に酒を飲まぬか」
「お体は大丈夫なのですか」
「問題ないと言うたであろう」
氏政が探るように儂の顔色を見る。そして諦め、困った顔で返事を返してきた。
「分かりました、父上。今宵の相手をさせて頂きましょう。丁度、春の魚で焼いた蒲鉾が献上されたと、奥の者たちが言っておりました。今宵は蒲鉾と政虎を肴に、旨い酒を飲みましょうぞ」
「うむ」
「では、父上、宵となりましたら参上します」
氏政が一度頭を下げてから立ち上がり去って行った。
氏政は北条の当主。己の考えもあろう。今宵はゆっくりと、それを聞いてやろう。
対上杉の戦をどの様に考えているのか。
北条の領地をどの様に治めたいのか。
そして、北条家を何処に導く積りなのか。
くしゅ
いかん。まただ。
どうもこの時期は調子が悪い。
毎年この時期は目が痒くなり、くしゃみと鼻水が止まらぬ。酷い時なぞ昨夜の様に熱まで出てしまう。
だが、それも梅雨入りまでの辛抱。梅雨が始まれば、この症状が嘘の様に止まる。不思議なものだ。
くしゅ
いかん、いかん。
永禄五年(1562年)四月、信濃、深志城下にて
海野幸稜
どうやら、朝になったようだ。
小鳥の賑やかな囀りに起こされた。
引戸の隙間から光が漏れてくる。
瞼を薄く開け、部屋の天井に映る朧気な光を見る。
庭にある竹林が風を受け、涼やかな音を奏でる。
まだ、頭が起きない。目が覚めただけ、光と音を感じるのみ。
しばらく、このままでいよう。
微睡み。
睡眠と覚醒の中間。
寝ているが起きている。
起きているが寝ている。
時が進み、時が止まる。
時が止まり、時が進む。
何か懐かしく。だが、それが何なのかは分からない。ただ、懐かしい。
どのくらい微睡みの中にいたのだろう。気がつくと人の気配がした。部屋に入って来た者がいる。そして、隣にかがみ俺を覗き込んだ。
目が合った。
「海野様、目を覚まされましたね。では、そのまま、暫くお待ち下さいませ」
「誰だ」の声が出ない。かすれた息が漏れるだけ。
声をかけた者に手を伸ばそうとする。しかし、気持ちだけ。指一本さえも持ち上がらない。
いや、自分の腕が、手が、指が、何処にあるのかさえ分からない。
もう一度、「誰だ」と叫ぶ。
かすれた息だけが漏れた。
カシャカシャと茶を点てる様な音が聞こえる。
何をしているのかと問おうにも声が出ない。起き上がろうと試みるも体が動かない。耳だけは音を拾う。しかし、耳は音を拾うが頭が考えない。上手く思考が繋がらない。
何もできない事が恐怖となり、ひたすら叫ぶが、只々、かすれた息となって出るだけだ。
「安心してくださいませ。もう少しで毒消しができます故」
毒と聞こえて騒ぐ。しかし、再び息が漏れるだけ。
「まさか、二度も謀られて薬を盛られるとは情けない。もし、これが命を取るほどの毒であれば、あなた様は二度ともあの世でございますよ。少しは気をつけてくださいませ」
二度?
「さあ、毒消しができました。これを飲めば頭も体も動かせる様になります」
何者かが近くに寄り、俺の頭を持ち上げて柔らかい物の上に置いた。
再び、何者かと目が合った。
辛うじて、その者が女だということだけが分かった。
「さ、さ、これを飲んで下さいませ」
押さえられた俺の口に、茶碗から何かが流し込まれる。
苦い。
上手く飲めず、むせった。
口から溢れた液が、肌に流れ落ちるのを感じる。
「これで、暫くお待ち下さいませ。ほどなく動ける様になりますから。でも、昨晩の事を思い出すのが先かしら」
女の声が、笑った様に聞こえる。
女の立ち上がった気配。
茶の道具を乗せた盆を持っている女の姿を、視界の端に捕らえた。
「海野様、新しいお召し物をお持ちします故、この部屋から動かずお待ち下さいませ」
女は俺の返事など聞かず、そう言って部屋から出て行った。
再び、静かになった部屋。
風に揺れる竹の音と小鳥たちの囀りだけが聞こえる。
暫くすると、毒消しの効果が効き始めたのか徐々に頭の中の霧が晴れ、昨晩の事を、女が言った二度の意味を思い出す。
なんてこった。
また、やられた。
一度ならず二度までも。
俺も男だ。
責任を取ろう。
隣で寝ている女の安らかな顔を見て、そう思った。
次回、極東支配人と鉄砲
氏康様、まさかの花粉症?
花粉症は現代病かと思っていたのですが、古くからあるようです。
氏康様ほど酷くはありませんが、作者も、毎年、梅雨前に目が痺れるような日が続き、梅雨に入ると治るという症状があります。
話は変わって、幸稜の隣は誰?