質と余計な言葉
永禄五年(1562年)三月、美濃、明智城にて
村上義清
挨拶もそうそう、村井貞勝が止める隙なく、一番年長の女が口を開いた。
「村上殿、女子が口を挟む事ではありませんが、上杉家への質は私一人として貰う事はできませんか。この様な若い娘を二人も質にしたなどと世間に広まっては、村上殿の名に傷がつきましょう」
「うむ」
確かに。
御屋形様に、なぜ二人も質を取ったのかと尋ねられても答えられん。やはり、もっと強く幸稜の案に反対するべきであったか。
あまりにも幸稜の予測通りに事が進むので、幸稜に任せ過ぎてしもうた。
儂の目の前に、三人の女子が座っていた。
端から、十一歳になったと言う犬姫。
隣にいる姉に良く似ておる。
質になる事が不安なのか、姉の着物の端に、すがるように触れている。
まだまだ幼い子供だ。
犬姫の隣は、十四歳の市姫。
犬姫と同様に織田信長の同腹の妹だ。
噂に聞いていた通り、色白でうりざね顔にちょうどよい大きさの目と口、美人だ。いや、数年もしたらもっと美しくなろう。
気丈にも儂を睨みつけている。
そして、先ほど儂に意見した女。二十代半ばの歳に見える女の正体は、織田信長の正妻、濃姫だ。
質に指名した人物でない人間が、なぜかここにいる。
村井貞勝も、挨拶の時に困っていたほどだ。
この濃姫は、なぜか幸稜とは面識がある様だ。二人が顔を合わせた時にお互いに驚いた顔を見せた。その後、濃姫は幸稜に微笑み、幸稜は濃姫に何か言いたげな顔に変わったのだ。
和睦会談の三日後、村井貞勝が三人の女を連れて再び明智城にやって来た。
貞勝は挨拶で、濃姫が途中で合流し勝手にこの場までついて来たことを詫びた。
そこで、濃姫がいきなり儂へ意見したのだ。
貞勝が、濃姫に諭す様に言う。
「奥方様、奥方様も大切な方なのです。その様な事を言わず、某と共に清洲にお戻りくだされ。村上殿、申し訳ない。奥方様に他意はないのです、気にされぬよう」
「貞勝、私は織田家に嫁いで来て、まだ何も成し遂げておりません。まだ、一つもです。ですから私にできる事があれば、殿の役に立ちたいのです。私が上杉の質となって、市と犬を清洲に帰してあげたいのです」
「姉上」
市姫が呟く。
「奥方様は、何もせずとも良いのです。我ら家臣に任せて、ゆるりとしていてくだされ。それが殿の望みでもあります故」
「私は、また、何もさせては貰えぬのですね」
「その様な訳では……」
悲しい顔をする濃姫が相手では、百戦錬磨の交渉役である村井貞勝でも歯切れが悪い。
「村上殿、どうか、お願いでございます。私を質に、市と犬を帰してくだされ。どうか、どうか」
濃姫が、潤んだ瞳で儂に哀願する。
弱った、儂はそれでも良いのだが。
いやはや、何とも居心地の悪い事よ。この様な居心地の悪い思いをするくらいならば、戦の方が何倍もましな事か。
さて、如何したものか。お主は、どう思う、須田満親。
須田満親は儂と目が合うと、儂の意図を汲んでくれた。暫く考えて、閃いたように目で合図を送ってくれる。
なるほど、良い考えだ。
織田の者を挟んで須田満親の反対側に座っている幸稜は顔を伏せ、先ほどから儂と目が合わぬ様にしている。
ほほう、どうやら、お前も同じ考えの様だの。
馬鹿者が。
幸稜、お前が面倒をみろ。
「濃殿、織田家からの質の件は、そこに座っておる海野幸稜が全て決めておる。幸稜が是と言えば、濃殿の話の通りとしよう。だが、幸稜が否と言えば諦められよ。それで良いかな」
幸稜は、儂を見て小刻みに首を横に振っている。
幸稜の奴、いつの間に織田信長の正妻と顔見知りになったのだ。
良いからやって見せよ。質など誰でも良いわ。
「濃殿、半刻だ、良いな」
「はい」
濃姫の返事は明るい。まるで願いが叶ったかの様だ。
早速、濃姫が幸稜に向く。
「あなたの名前は、海野幸稜様と言うのね。先日は世話になりました」
「世話したなどと礼には及びません。旅をしておられる何処かの奥方様に茶を振る舞ったまでです。何処かの奥方様にね」
「あら、怒っているのかしら。あの茶は美味しかったわ。もう一度飲みたいぐらいに」
「では、また機会がありましたら振る舞いましょう」
「そう、ありがとう。ふふ、その機会は直ぐに来そうだわ。では幸稜様。村上殿に言った通りです。上杉への質は私で良いでしょう」
先ほどまでの悲しい顔が、嘘の様に笑顔に変わった濃姫が幸稜に言った。
幸稜が困った顔で濃姫を見る。
「どうしたの」
「濃姫様、申し訳ないのですが……」
「どうして、上杉は織田からの質を取ったと言う事実があれば良いのでしょう。織田が敗けを認めたと言う証に」
「……」
小さく頷く、幸稜。
「殿がそれを認める事ができる様に、織田の跡継ぎを質にする事は求めなかった。だから、市たちにしたのでしょう。であれば、市たち以外の誰だって同じでしょう。それであれば私でも」
小さく首を横に振る、幸稜。
普通、人質と言えば嫡男と相場が決まっている。ところが、幸稜は始めから織田の姫たちを人質に求めると進言して来た。
なるほど、嫡男を求めれば織田は反発する。しかし、妹二人であれば、それに匹敵する質と捉えられるが嫡男ではない。織田は必ず質を入れるに違いないと感心したものだが。
どうやら、それは儂の思い違いかも知れん。幸稜が最初から市姫と犬姫の二人に執心していたとしたら。
「なぜ、幸稜様。なぜ、市と犬なのです。教えて下さいませ、私ではいけない訳を」
「それは……」
幸稜が口ごもる。
「幸稜、俺も知りてえな。最初からお前、市姫と犬姫と言っていたな」
繁長、お主は上杉方であろう。なぜ、今、それを聞く。
繁長を見るも、素で疑問に思った事を聞いただけにしか見えない。
わざとなのか、単に知りたいだけなのか、分からん。
「本庄様、この様な時に。それは後ほどに」
「なんでえ、固い事を言うなよ。教えてくれても良いじゃねえか」
「良くはありません」
「どうしてだ」
「どうしてって。本庄様と某は同じ上杉方ではないですか。村井様がいる前で、この様に上杉方同士が問答するなど、上杉方は内が乱れていると勘違いされてしまいます。その勘違いによって織田家が再び戦に舵を取る事になるかも知れません」
「俺はそっちで良いがな」
「良くありません。交渉の度に、痛くもない腹を探られるのは面倒で敵いません。村井様、この様なやり取りは上杉方では日常茶飯事、勘違いしないでください」
苦笑する貞勝。
村井貞勝に話しを振って逃げる積もりだろうが、貞勝は幸稜より一枚上手だった。
「分かりました。ですが海野殿、某も本庄殿と同じ疑問を持っております。宜しければ、某にも教えて貰えぬでしょうか」
「村井様まで」
「だろ。濃殿や村井殿の言う通り、皆、疑問に思ったんだ。だから、教えろよ幸稜」
「本庄様、その様に言われても」
「まさか、幸稜、お前、市姫と犬姫に」
「市姫と犬姫に?」
「懸想しているのか」
繁長の言葉によって皆の視線が、幸稜に集まる。
幸稜が市姫と犬姫に懸想だと、繁長、急に何を言い出すのだ。
「そ、某が市姫と犬姫に懸想ですと。本庄様、急に何を言い出すのです」
「幸稜様、それは本当なのですか?」
「海野殿、それが真であれば、この度の質入れについては日を改めさせて頂きたく」
「市と犬に、け、懸想などと、その様な、その様な……」
織田方の三人が幸稜へと詰め寄る。一人、犬姫だけが何が起こったのか分からない顔をしている。
「駄目です、絶対に駄目です。市と犬を質になどと私が許しませんよ、幸稜様」
「海野殿、済まぬが今日の処は引き揚げさせて頂く」
「いくら、市が美しいとは言え、犬までとは……卑怯な。おのれ」
真か、幸稜?
「懸想などしておりません。少し待ってください皆様方。某、市姫様にも犬姫様にも懸想などしておりません。断じて、しておりません」
幸稜は両手を皆の前に出して、三人に迫られるのを防ぎながら否定を繰り返す。
「本当でございますね、幸稜様」
「ええ、懸想しておりません」
「なんだ、懸想していないのか。だがな、市姫も犬姫も美しくなると思うぞ。お前もそう思うだろ」
繁長が、また余計な事を言った。
「そ、それはそうかも知れませんが」
馬鹿者、お前もその様な事を答えるでない。
「やっぱり駄目です。幸稜様、その様な事で市たちを質にするなどと、あなた様を見損ないました。初めてお会いした時の可愛く笑った顔は好ましいものだったのに」
「海野殿、質の話はなかった事に。この様な事では殿の判断を仰がねばなりませぬ」
「おのれ、おのれ」
濃姫は出来の悪い弟を嘆く様に、村井貞勝はこの機に乗じて質を無くそうと画策して、市姫は懸想された事が恥ずかしくなり怒って、三人三葉で幸稜に詰め寄る。
幸稜は、三人の勢いに敗けてジリジリと後ろへ後退している。
「ですから、某は本当に懸想などしておりません。本庄様が適当に言っているだけですから」
「本当に?」
「濃姫様、本当です。信じてください」
「本当なのね」
「ええ」
幸稜が、濃姫の問いに真摯に答える。
見つめ合う二人。
「では、私が質で良いでしょう」
「そこに戻りますか」
「納得いく訳を言えますか」
「……」
「幸稜様」
「分かりました。分かりました。仕方ありません、話します。話しますから自席へと御戻りください」
ほう、話す?
なるほど、まだ、儂にも話していない事があるのだな。市姫と犬姫を指名した別の理由が。
濃姫、村井貞勝、市姫が、幸稜に個々に思惑を持ちながら自席へと戻る。
「これから、市姫と犬姫を質に指名した理由を話します。ですが、これから話す事は某が勝手に考えた話し。何も根拠があるわけではありません。それでも、宜しいですね」
「良いです、聞きましょう」
「村上様。村上様にも相談していない事ですが、ここで話しても良いですか」
幸稜が、話しても良いかと儂に確認するという事は、話しても良い内容という事だ。織田方に知られたくない事であれば、素知らぬ顔を決め込むであろう。
「うむ」
大仰に頷いた。
「ではお話し致します。事の起こりは、永禄三年(1560年)の八月にあった野良田の戦いで浅井が六角に勝った事です。我ら上杉方が美濃に来る前のちょうど一年前の話しになります」
「今から一年半も前の戦が、市姫と犬姫に関係するのですか」
「恐らく」
「幸稜、先を話せよ」
「はい、戦の結果は浅井家の勝ちでした。その勝ちによって浅井家は、六角家の庇護から抜けました。そして先代を隠居させて朝倉家からも距離を置いた事により完全に独立しました」
「その様だの」
「しかし、浅井家が戦に勝ったとは言え、そのまま六角家を喰うことはできません。未だに名君であった六角定頼様の威光が残っており、地力が違い過ぎるからです」
「朝倉家も同じか。朝倉宗滴殿の威光が残っておるな」
「左様でございます。案の定、昨年春に、六角家の巻き返しがあり浅井家は佐和山城を取られました。浅井家が、正面から戦うには六角家は余りにも大きい。それに今の六角は、美濃斎藤家とも結んでおります。とても、浅井家が六角家を喰らえる様な状況ではありません」
「それで」
「本庄様が浅井家であれば、如何します?」
「俺か、俺ならば戦に勝つ」
「……」
「と言いたい処だが、先ずは同盟だろうな」
なるほど、それで市姫と犬姫なのだな。
須田満親、お主、最初から気がついておったな。
「浅井家には幾つか選択があります。六角家と結ぶ、朝倉家と結ぶ、あるいは覇者である三好家と結ぶ。ですが、いずれにしても同盟とは名ばかりの従属となります。折角、六角の軛を断ったというに、その選択はありえません」
「斎藤家か、織田家か」
「はい、村上様。その通りです。浅井家として斎藤家と結び六角を喰らうのが最善でした。ところが斎藤家は六角家と結んでいた。そこで、次に目をつけたのが織田家です。そして、織田家もまた浅井家に目をつけていました」
「斎藤家を攻めていたからか」
「そうです本庄様。遠交近攻は同盟の基本。織田家も浅井家も考えは同じ。斎藤家を喰い、六角家を喰うです。分配がどのようなものかは分かりませんがね」
「では、幸稜様。幸稜様は、織田家が浅井家と結ぶために、市か犬を浅井家に嫁がすと読んだのですか。斎藤家と織田家の同盟のために私が嫁いだ様に」
「貞勝、今、海野様や姉上が言った様な事があるのですか」
「市姫様、この場でその様な話しはご容赦を」
村井貞勝が、市姫に頭を下げると、市姫が「ふん」と鼻を鳴らした。
「幸稜、それでお前は市姫と犬姫を質に取って、織田と浅井の同盟を邪魔する積もりだったのか」
幸稜はゆっくり首を横に振る。
「違うのか。そうしたらやっぱり、美人の市姫と犬姫を自分の手元に置いて」
「幸稜様」
「濃姫様、戯れ言です。本庄様の戯れ言ですから。本庄様、戯れ言は勘弁してください」
「すまん、すまん」
幸稜、繁長の「すまん」は当てにするな。必ずや二度、三度と繰り返す。諦めろ。
「話しを戻します。織田家と浅井家はいずれにしても同盟すると読んでいます。お互いの利がある限り」
「幸稜様、良く分かりません。織田家と浅井家の婚姻同盟を妨害するためでないとしたら、如何なる訳で市と犬を指名したのでしょう。少しも分かりません」
「濃姫様、申し訳ありません。話しを先に進めます。織田家は今、浅井家との同盟、そして、三河の松平家との同盟を模索している最中かと思います。違いますか、村井様」
「海野殿、某にはお答えできませぬ」
そう幸稜に答えた貞勝が、目を閉じた。
「和議もそうですが、同盟と言うものにも、お互いの条件というのがあります。織田家と浅井家は同盟条件を詰めていた。そこに上杉勢が突如現れ織田家の領地を削り出した。浅井家は、こう考えたと思います。弱くなった織田家との同盟だ、もっと条件を出しても良いのではと」
「それで」
「実際に、浅井家は条件を上乗せしてきたのではないですか」
一堂の視線が村井貞勝に集まるが、貞勝は素知らぬ振りを決め込む。
「織田の方々にお聞きします。織田信長様と言う方は弱味につけ込んで条件を変えるような相手に、可愛がっている美しい妹、市姫様を嫁がせる様な方なのでしょうか。如何でしょう」
濃姫と市姫は、二人揃って小さく首を振る。
「恐らく、織田信長様は浅井家の仕打ちに対して、さぞかし激高された事でしょう。ですが、織田家躍進のため、浅井家との同盟は結ばねばならない。市姫様を浅井家へと嫁がさねばならない。村井様、信長様は怒り、嘆き、そして、諦めたのではないですか。これも世が乱れている為だと」
村井貞勝は、目を閉じたままだ。
「だが、そこに上杉方から和議の条件として市姫と犬姫の指名で質を入れよと来た。そして、二人は今、ここにおります」
口を挟む者はいない。幸稜が一堂を見回して話しを続ける。
「織田家は上杉方に市姫と犬姫を質に入れた為、織田家には残念な事に浅井家に嫁げる様な良い年頃の姫がいなくなりました。信長様は困った事でしょう、婚姻以外で浅井家と同盟せねばならないのですから。今頃、浅井家にも織田家臣たちにもその様に説明している事でしょう」
幸稜がコホンと咳払いをした。
「村井様、今の話しは、全て某の作り話しでございます。ですが、今回の市姫様と犬姫様の質について、上杉方は織田家への貸しと考えております。貸しは必ずや返して貰いますと、織田信長様にお伝え願えるでしょうか」
ゆっくりと村井貞勝は、目を開けた。
「海野殿、面白い作り話しでございました。必ずや我が殿、織田信長に伝えます」
村井貞勝が、幸稜に頭を下げる。
「幸稜、お前やるな。そんな相手に妹を嫁に出せるかと言われたら俺も考えるわ」
「本庄様、全てが某の考えではありません。美濃、尾張、いや、畿内を良く知る方より知恵を借りたまでです。某も借りを作りましたから、いつか返さねばなりません」
竹中重治の細い目の顔が浮かぶ。
一度、非公式で儂に挨拶に来た若者だ。
抜け目がなく、幸稜と同じ匂いがする男と感じた。武で戦うのではなく、知で戦う男なのだと。
しかし、どこまでが竹中重治の考えで、どこからが幸稜の考えなのか。
「濃殿、これで宜しいかな」
「ええ、良くわかりました。村上様」
「良かったじゃねえか、幸稜。これで美しい市姫と犬姫といっしょに越後に帰れるぜ」
繁長、また余計な事を。
「ええ、まあ」
幸稜が濃姫を伺いながら繁長に答える。
濃姫が幸稜に向いて座り直した。
「コホン、幸稜様」
「はい、何でしょう、濃姫様」
「本当に、市や犬に懸想など、ないのですね」
「はい、濃姫様」
「でも、市や犬を美しい姫とか、可愛い姫と思いますか」
「ええ、まあ」
「……」
濃姫が、何か幸稜に呟き、儂の方に向かい直す。
「村上様、私も市と犬といっしょに越後に参ります。二人が心配でなりません。宜しいですね」
「奥方様、なりません。その様な勝手は」
「貞勝、殿に伝えなさい。この濃が身を持って市と犬を御守りするので安心して美濃を取ってくださいと」
上杉方がいる前でなんと剛毅な方であろう。濃姫は、本来、この様な方なのだな。
花に水をやらねば、美しく咲かぬという事だ。
「濃殿、良かろう。幸稜、三人はお前に預ける。粗相の無いように」
幸稜が「ああ、やっぱり」と項垂れた。
次回、反撃と毒
濃姫、市姫、犬姫が越後に。
幸稜、やっと越後に帰れそうです。