謀略と竹中重治の知恵
永禄五年(1562年)一月、美濃、明智城にて
海野幸稜
段蔵の知らせで、館に戻ることにした。
女には戦場を避け、気をつけて熱田詣でするように伝えて別れ、館に急いだ。
館に戻ると村上様は不在。
当の竹中重治は俺に会いたいと所望したため、普請現場にいる俺が呼ばれたと分かった。
重治がわざわざ明智城まで来た理由は、恐らく上杉勢の動向の訳を確かめに来たのだと想像。
客間に赴くと重治が目を閉じて微動だにせず座っていた。
「お待たせいたしました、竹中殿。某を呼ばれたとの事。如何なさいました」
取り敢えずの急ぎ挨拶の言葉をかけて、重治の向かいに座る。
「これは海野殿、忙しい処申し訳ない。上杉勢が岩倉城攻めを解かれて美濃まで後退したとの知らせを受けて急ぎ確かめに来た次第」
重治は俺が座ったのを見届けて頭を下げた。
「やはり、使いの者だけでは足りませんでしたか」
「ええ、退いた子細までは分からず、上杉勢に引かねばならぬ一大事があったのではと、斎藤家中でも不安の声がありまして、某が確め役になりました」
「役目、ご苦労様です」
俺がそう言って頭を下げると、重治は一瞬苛ついた目をした。細い目が更に細くなったのだ。
竹中重治は上杉勢に不満がある。
斎藤家からすると上杉勢が、理由もなしに勝手に戦線を後退させたと捉えるしかない。当然、織田の圧力は最前線たる斎藤家に一手に掛かる事になる。
共に織田と戦うと言う盟約であるはずなのに、斎藤家だけが前線に立つ事になった。そうなると、斎藤家中に騒ぎだす連中が出てくる。上杉勢は我らを謀るつもりかと。
その様な者ほど大きな声だ。まるで織田信長の味方だ。
上杉勢との対織田同盟を推進している竹中重治たちやそれを認めた斎藤龍興への風当たりが強くなる。そして、周りから責め立てられ龍興が嫌になり、甘い事だけを言う側近たちに実権を渡してしまったら斎藤家の崩壊の始まりだ。
信長の大笑いする声が聞こえてきそうだ。
上杉勢も斎藤家をもう少し丁寧に対応すべきなのだが、その余裕がなかった。
ここは素直に話して協力を願うべきだろう。
「竹中殿、この度の事、誠に申し訳ない。実は織田の謀略に遭い困っております。岩倉城から引いたのも実はその謀略が原因。下手な手を打てば上杉勢は美濃から引き上げる事になります」
「ほう、織田の謀略ですか」
「左様、織田の謀略です。その謀略には相模の北条も関係していると睨んでいます。北条はともかく、織田には謀略を仕掛けて来た事を、後悔するような手があればと考えているのですが、未だにこれと言った手が思いつかず。竹中殿の知恵を頂ければと思う次第」
「某の」
「はい、話しだけでも聞いては貰えませぬか」
「分りました」
知恵を貸してくれと自尊心を擽られ、知的好奇心に負けた若い竹中重治は、俺の話しを聞く決断をしてくれた。
共に苦労し、知恵を出し合い、困難を乗り越えた時に盟友は生まれる。一方的な依存では難しい関係だ。
利害や打算なく相談できる、そう言う関係に成れたら良いのだが。
「それでは聞いてください。始まりは我が御屋形様の上杉政虎様からの書状でした。その内容は……」
俺は御屋形様からの書状内容から推察した出来事、織田と北条の連携、美濃上杉勢の動きを止める狙いについて私論を話す。
幾つかの質問が重治からあり、それに俺が答える。
話しを聞き終わった重治は目を閉じ考え込んだ。重治が語り始めるのをじっと待つ。
「馬を売りなされ」
「馬をですか? それでは信長の話しを認める事になりませんか。直ぐに北条経由で話しは関東に広がり、それ見たことかと関東武将たちが騒ぎます」
「いえ、大丈夫でしょう」
「そうでしょうか。このまま美濃の上杉勢は動きを止められ、春と共に引き上げる事になりませんか」
「何も手を打たねば、次に上杉勢が美濃に来るのはいつになるのか、村上様の様な我らに理解のある人物が大将となるのか、と大きな課題が不透明となります。そして、この同盟が維持されなければ、早晩、美濃は織田の物となりましょう。それでは我らが困ります。関東管領様もお困りになるでしょう」
「分かっております。では、馬を売るとはどの様な事なのでしょうか」
「簡単な事、まずは老馬を集めてください。そして織田信長には先日馬の件で世話になった、上杉勢の数多の戦で武勲を上げた手練れの馬を用意したので買って貰いたい、と言って高く売りつけるのです」
「それだけですか」
「はい、それで十分かと。もし、信長が断れば信長は馬の購入を断ったと管領様に伝え、信長が馬を買ったら老馬を高く売りつけてやったと伝えれば良いのです」
俺は膝を叩いた。
「なるほど、信長が断れば前回の購入は謀略のためであった事の証明になり、購入したら使えない馬を高く売りつけたと我らの手柄にせよと言うのですね」
「その通りです」
「流石、竹中殿。これで、してやったりと言えるでしょう。信長の悔しがる顔が見れらないのが残念です」
「上杉勢は織田攻めを再開できますか」
「勿論、馬を売りつける件と共に岩倉城攻めの再開を村上様に進言いたしますよ。春になるまでに岩倉城を落としたいですから。竹中様には手間を取らせますが、斎藤家の援護のほどをお願いいたしたく」
「分かっております。斎藤勢が尾張の津島攻めをすると見せかけますよ。町に火をかけると噂も流します」
「ありがとうございます」
「これは貸しとしたいのですがね」
「では、この借りは直ぐにでも返しましょう。犬山城には斯波義銀殿に入って貰いましたが、岩倉城には織田信安殿に入って貰いましょう」
「なんと、本当に上杉方は尾張を喰わぬつもりですか。それとも……」
「某にも先の事は分かりません。ですが、これは我ら上杉方の決定事項です。上杉方を譲歩させたと竹中殿の手柄にしてください」
「それはありがたい。斎藤家臣の声だけが大きい者たちも、少しは静かになりましょう」
「上杉が再びこの地に来る時まで、斎藤家を保たせてください」
「でなければ、次に会うときは敵同士になっているかも知れません」
「竹中殿、勘弁してくださいよ。手強い敵と戦はしたくありません。他にやりたい事がたくさんあるので、その様な面倒な事はしたくないです」
「面倒だから戦を避けるとは、いやはや海野殿は面白い方だ。ですが某も同じです。ゆっくり読みたい本もあるので、本当は戦などやっている暇などないのです」
「分かります。分かります」
俺と竹中重治は暫く笑い合った。
「竹中殿、少し違う話をしても良いですか」
「はい、構いませぬが」
「尾張の国は、女子供だけでも熱田詣でに行けるほど安全だとか。真でしょうか」
「はい、尾張の国は安全なものですよ。織田信長は商人が滞る事なく商いができるよう治安には気をつけている様ですから。それに、熱田神宮には武家から農民まで皆が詣るそうです」
「それほどですか」
明智城の普請を眺めていた女の言っていた事は本当だった。
女は間者ではなく、熱田詣での途中の者。
間者ならば直ぐにばれるような嘘はつかない。しかし、人を騙すような者にも見えなかった。
まあ、普請情報が敵方に通じたとしても問題はない。明智城に秘密などないのだ。
「海野殿、如何されました」
黙り込む俺を探るよう重治が聞いてきた。
「いえ、やはり織田信長は恐ろしい男だと感じいっていた処です」
「正に。座を廃し市を活性化させる。寺社に付加をつけて人を呼び込む。これは近江でも行われている事です。ですが、おいそれと誰もができる事ではありません」
「軍事、政事、万事、己の道の為ならば邪魔者を排除して進める。織田信長、全く、面倒な相手が敵となったものです」
「信長が味方であれば、頼もしい相手ですか?」
「いいえ、もっと面倒な相手となるでしょう」
織田信長は己の道を塞ぐ者には容赦がない。例え相手が同盟者であってもだ。
力が強い相手には無茶な事は言わないだろうが、その力が逆転した時はどうなる事か。
「では、岩倉城攻めと津島攻めの子細を詰めましょう」
重治とは、今後の作戦の子細を擦り合わせて別れた。
数日後、村上様の文が織田信長に届けられた。当然、上杉の武勲ある馬を買えと書いてある。
その事とは別に、尾張の庶民の間に一つの噂が広まった。
その噂の内容とはこうだ。
少し前に織田の殿様は、上杉の馬を高値で買った。それは上杉の大将を懐柔させるための策だった。その売値に気を良くした上杉の大将は、更に馬の数を揃えて織田の殿様に買って欲しいと申し込んで来たらしい。
もし、織田の殿様がその馬を買ったら、織田と上杉の戦は終わるのではないか。
馬を買ったから戦が終わるなどと言う話しなどはないのだが、尾張の庶民は無責任に噂を広める。皆、戦に巻き込まれるのは嫌なのだ。
だからこそ、希望を求める。
織田の殿様が馬を買って戦を終わらせてくれないかと。
織田信長は、馬の買い取りを拒否した。
馬を見聞した商人は、上杉勢が希望する値と馬の状態を有りのまま信長に報告。それを聞いた信長は激怒した。こうして、上杉と織田の商売は御破算となった。
上杉勢と斎藤勢は再び東西から尾張に攻め寄せた。
落胆したのは尾張の庶民。織田信長と言う男に落胆したのだ。
そして、二ヶ月後、織田信安の元家臣による内応を切っ掛けに岩倉城は落城。
尾張北東の二郡は信長の手を離れた。
一郡は犬山城を拠点に尾張守護の斯波義銀が治め、もう一郡は岩倉城を拠点に尾張守護代の織田信安が治める地となった。
上杉勢は一切政事には干渉しないと二人に伝え、尾張から東美濃へと退いた。
ほどなく、明智城に織田信長からの使者が現れ、和睦を願い出た。
次回、和睦の条件と遠江の蜜柑
本庄繁長は、岩倉城攻めに参加し満足顔です。まだ、深志城に帰っていません。
柿崎景家への報告は家臣に任せっきりです。