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岩村城下の戦いと槍の長さ

 永禄四年(1561年)九月、美濃にて

 海野幸稜


 遠征で一番困るのは風呂に入れないことだ。

 水浴びするには季節が過ぎ、精々、水で濡らした布で体を拭く程度で、青海の海野屋で毎日風呂に入っていた身としては、どうしても体や髪がベタついて気持ちが悪い。


 だがしかし、ここは日の本。温泉の国だ。


 ここ東美濃の近くにも有名な下呂温泉がある。下呂温泉を堪能するには現在地から距離があり過ぎ無理だ。ならば必ず陣の近くにも温泉があるはずと地元民に聞き取りした。


 温泉があった。秘湯だ。


 一つは苗木城から東に約二里の中津川。

 効能は筋肉痛、疲労、打撲など。神経痛や関節痛にも良いようだ。

 さらに無色透明で澄んだ湯の見た目と違い、ヌルッとした肌触りは保湿に効果があり、美人の湯として地元民の奥様方に大人気なのだとか。

 天照大神に由来する古い昔からの良泉だ。


 もう一つは苗木城から西に約二里にある恵那の渓谷だ。

 今から約四百年前の建久三年(1192年)に発見された。

 合戦で傷を負った武者が療養したと言われる歴史のある温泉らしい。

 建久と言えば鎌倉幕府の成立間もない頃だから、源義経に敗れた平家縁の武者でも逃げて来たのだろうか。そして、この温泉も高い塩分のため美肌に効果があり地元民の奥様方に大人気。


 そのような温泉をゆったりと堪能するためには苗木城は落とす必要がある。

 村上様に怒られるのが分かっているから力説できないのが残念だ。


 さて、岩村城にいる遠山宗家は織田の後詰めを頼りにして上杉への従臣を拒否し、岩村城に兵を集めていた。

 織田勢がやって来る前に城を落とされる訳にはいかないからだ。

 だからこそ、分家が支配する苗木城までは手が及ばない。宗家が当てにならないと見た分家衆は多勢に無勢とばかり、上杉勢が苗木城を取り囲む前に城を放棄して岩村城に逃げた。

 だから、上杉勢の使者が苗木城を訪れた時は静まりかえって拍子抜けしたようだ。訪ねた先には誰もいない、もぬけの殻だった。


 上杉勢が苗木城を占拠したと同時に、織田勢が岩村城目指して進軍との知らせがあった。


 温泉はお預けだ。


「村上様、残念です」

「城攻めをしたかったか。お前も武家らしくなったものよ。ん、違うのか」

「ん、まあ、…ところで戦場はどこになるのでしょうか。織田勢の兵は六千との事、我らと合わせれば万を越えます。この数が合戦できるような平地があれば良いのですが、なければどのように戦うのか想像もできません」

「それであれば既に調べはついておる。岩村城下だ。近辺でそこ以外に開けた場所はない。織田勢もそこが戦場と考えておろう」


「流石です」

「お前が先陣を切るか」

「お戯れを。慎んでお断りさせて頂きます」

「欲がないのう」

 大きな声で愉快そうに笑う村上様だ。


 俺は武功を立てて偉くなる事は考えていない。この遠征が終われば俺の武家経験は終わりだ。後は青海の屋敷に戻り外海屋を裏で指揮して悠々自適の生活を送るつもりだ。何せ俺の新婚生活はこれからなのだ。


「では我らも岩村城へ全軍で進む事にする。幸稜よ、諸将を集めよ。軍議を致す」

「全軍ですか。苗木城に守備を残さなくとも良いのですか」

「良い、遠山は岩村城から動けず、織田はその岩村城へと進軍中、美濃の斎藤家はその織田を警戒していると言う。誰も苗木城を奪える者はいない。たとえ苗木城を取られたとしても少数であろうから信濃に退く時にも問題ない。取られても奪い返せば良いだけの話よ」


「流石、村上様でございます。抜かりなく用意周到ですね」

「お前の様な戦も知らぬ者に言われても嬉しくとも何ともないわ。お前でなければ儂を馬鹿にしているのかと疑う処だ」

「でも、これほど用意周到な村上様でも武田信玄には敵わなかったと」

「儂は武田との戦に敗けたのではない。武田の調略に敗けたのだ」


「それでは織田信長にも気をつけねばなりませんね。信長は表裏がありはかりごとが得意と聞きます。村上様の気がつかぬ内に謀に填まっているかも知れません」

「ふん、分かっておるわ。そのような話は良いからさっさと皆を呼んでこぬか」

「はっ」


 大きく怒られる前に村上様から逃げるように駆け出した。他の者にとっては怖い軍団長かも知れないが、俺にとっては田舎にいた強面だった親戚の爺さんに重なって見える。


 故郷を追われて老いても尚、上杉謙信に従い戦さに赴く、その折れない心に感心するし尊敬さえする。

 そんな村上様が信長に填められない様に気をつけて欲しい。

 織田信長は表裏があるし根に持つ奴だ。気にくわない者を根絶やしにするくらいの気性もある。

 殺られる前に殺らねば、と言う気概で対処しないといけない。






 岩村城下での上杉勢五千と織田勢六千の戦いは一刻ほどで片が付いた。


 村上様は兵五百を岩村城の備えとし、兵三千五百で織田勢と対峙。兵千を迂回させた。


 序盤、織田勢が見たこともない長さの長槍を降り下ろしながら前進すると言う陣形で越後勢を押した。

 徐々に後退する越後勢。

 兵数だけ見れば織田勢は越後勢の倍の数で、敗ける要素が見当たらない。

「かかれ、かかれ」と織田の武将が気勢を上げる。


 ところが、迂回した越後兵千が織田勢の後方に現れて形勢が逆転。

 織田勢の長槍が仇となり現れた越後勢に対処できずに陣形が崩壊、蜘蛛の子を散らしたように潰走。


 越後勢は追撃した。


 織田勢は殿の部隊もおらず次々と討ち取られたが、それは名もない兵ばかり。

 織田勢の武将の逃げ足は早かった。

 陣形が崩壊したと同時に武将たちが一団となって逃げ始めたからだ。

 越後勢は織田勢を追い回し尾張の国境まで追撃したが、遂に武将格を討ち取ることはできなかった。地理に明るくない越後勢では限界があった。

 翌日、岩村城下に再集結した越後勢は城に降伏の使者を送った。


「弱い。尾張の兵は弱過ぎる。手応えがなさ過ぎるわ」

 村上様が不満を漏らす。

 岩村城下の寺の本陣で東美濃を抽象化した地図を見ていた俺は顔を上げた。


「確かに」


 尾張の兵が弱いとは俺も聞いたことがある。しかし、それは武田や上杉の兵と比べてだ。

 尾張近辺の国の兵とは互角に戦っている。

 上杉勢の兵と比べてはいけない。

 尾張も越後も、兵は農民と言うのは同じだが中身が違う。


 尾張の兵は陣触れが出て合戦し解散するまで五日程度だ。戦場とて清洲から遠くて一泊二日程度。

 だから尾張の兵は根本的に徴収される農民の兵なのだ。

 ところが、越後の兵は状況が異なる。陣触れが出て春日山に集結するまで四、五日。戦場までこれまた同じぐらい。また戦場でも、これだけの日数をかけて何もせずに帰る訳にもいかないので合戦をしようと自ずと対陣も長くなる。

 御屋形様に率いられて関東にいる兵などは足掛け二年ほど戦場にいる。

 越後の兵は根本的に傭兵なのだ。


 当然、農民と傭兵では練度や士気に違いがある。

 上杉勢と織田勢が戦って上杉勢が勝つのは当然だ。

 それに武将の軍略も違い過ぎる。

 美濃方面軍の大将たる村上義清は、信濃で武田信玄と互角に戦い、信玄に何度も土をつけた男なのだ。

 織田勢の長槍と兵数に頼んで押すだけの軍略では村上義清には勝てない。

 これまた、上杉勢が勝って当然だ。


 ところがだ。


「ですが村上様。織田信長と言う男を侮ってはなりません」

「うむ、何を侮るなと言うのだ。言うてみよ」

「織田勢の使っていた長槍は、上杉や武田の物より半間ほど長いようです」

「それがどうした」

「織田信長が元来あった槍を長くするよう指示したとの話」

「幸稜、お前の話は良く分からぬ。分かるように話せ」


「長槍を更に長くするよう指示を出す武将が、この日の本に何人いるでしょうか。おそらく数人程度。他の武将たちは長槍の長さに疑問にさえ思わないかも知れません」

「うむ、続けよ」

「尾張の兵は弱いです。それは兵が農民だからです。であれば、どうしたら勝てるか。長槍を更に長くしたら良い。上杉や武田のように年間通して戦う兵を作ればよい。兵の数を相手の倍、三倍と集めれば良い。長槍ではなく更に遠くまで届く鉄砲を揃えれば良い。と、そのように考える男なのです」

「お前も考えておるではないか」


 俺は歴史を知っているだけだ。考えついた訳ではない。


 それを実践したのは織田信長だ。

 さすが尾張の人間。合理的だ。改善を良く分かっている。

 そして、その改善案を推し進める事ができる実力者なのだ。


 他国では利害関係者の調整が困難で頓挫する事でも、織田信長と言う人間は妨害する者を排除して実践してしまう。


 これほど恐ろしい者はいない。


 織田勢は弱いが一度敗ければ前回より強くなる。改善と言う能力で織田勢は成長する。いずれ何処の国よりも強くなるほどに。その事が恐ろしいのだ。


 織田信長に力を持たせてはいけない。

 あっという間に化け物へと成長してしまうのが目に見えている。


「某は南蛮や唐の書物で学んだだけです。少しは思いつくかも知れませんが、御屋形様が治める国中にその事を実践する、させるだけの力はありません。しかし、織田信長は尾張の国を治める者、新たな事を実践できるのです」


「うむ」

「それも他国では武将たちと長々評定している時間など無用とばかりに即決して進めます。次に戦う時は強くなっているかと思います」


 村上様が俺を睨む。

 俺は目を反らさない。


「幸稜、儂はお前の方が侮れんと思うた。たかが、長槍一つでそのように人を計る者などおるまい」


「尾張を調べた処、いろいろと面白い事が分かりました。織田信長と言う男は、己の野望に得か損かだけで人を見ます。守護の斯波義銀を助け清洲織田氏を討ち倒し、岩倉織田氏の親子の隙間を突いて二人共尾張から追い出しました。そして遂には不要となった守護の斯波義銀まで追い出したようです」

「その様だのう。儂もそう聞いておる」


「織田信長は何が得で、何が損なのかだけで判断しているかと思います。そこに武家の矜持など関係ありません。得と思えば、そこに人と金と物を注ぎ込む。損と思えば潔く全て引き上げる」


「得か損かか」

「はい、今回の戦いもそのように見えました。踏ん張ってまで戦わねばならない戦でもなかったのでしょう」


「武家の矜持など役に立たぬと思うておるのか」

「いいえ、武家の矜持で戦に勝てるのであれば武家の矜持に価値を感じるでしょう。ですが、戦の勝敗に矜持が関係なければ、米一粒も価値を感じぬのが織田信長と言う男です」


「なるほど、お前は織田信長をそう見るのだな。そう言えば義父である美濃の斎藤道三が息子の義龍と戦になった折は、義父に援軍を送ったが間に合わなかったと聞いたのう。その事はどうだ」

「果たして間に合わせる気があったのか。義父に援軍を出したと言う事実だけが欲しかったのか。美濃を喰うために」


「真に、そうのような男であれば気をつけねばなるまい。武田信玄と同じような謀を仕掛けてくるに違いない」

「気をつけてください。村上様は戦には強くとも、謀に敗けたのですから」


「幸稜、儂を馬鹿にするでない。よう、分かっておるわ」

 村上様の声は怒っているが目もとはそうでもない。


「して、お前には考えがあるのであろう。聞かせよ」

「はい、それでは」


 俺に妙案があるわけではない。

 ただ、織田信長を快く思わない連中と組んでタコ殴りにするだけだ。

次回、斎藤龍興と粽



中津川の泉質は、炭酸水素塩泉。

恵那の渓谷は、単純弱放射能泉、ラジウム温泉との事です。

行ってみたいです。


織田信長、改革者。一番好きです。




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