三つの海野と嫁
永禄四年(1561年)五月、越後、糸魚川青海にて
海野幸稜
「幸稜が良かろう」
上座にいる九郎左衛門が名を書いた半紙を掲げた。
「幸は信濃の海野氏の通字と聞いていますが、俺が使って良いのでしょうか」
「問題ないであろう。源氏だ平氏だと騙る者たちに比べたら可愛いものだ、気にせず使え。寧ろ、お前を担ごうとする者が現れたら気をつけよ」
「はい、分かりました。因みに稜とは如何なる意味でしょうか」
「稜とは物の角が尖っている様を表しておるそうだ。また、稜はそばとも言うて、食べる蕎麦の語源とも聞く。蕎麦の実は三角でかどが立っているからそばと呼んだらしい。だから蕎麦とは稜の事だ。お前の幼名から取ったのだ。蕎麦を気に入っていたのであろう」
「なるほど」
「蕎麦蔵、お前は少し変わった子供だ。だが悪くない。大人に成っても蕎麦の実のようになれ」
「蕎麦の実ですか」
「そうだ、蕎麦の実は黒く尖っておる。黒は他の色には染まらぬ。それに実は尖っており丸くはならぬ。お前は、お前の考えのままで良い」
「ありがとうございます、名主様。一時はどのような名となるかと心配していました。さすが名主様です。幸稜、うん、良い名です。ありがたく頂戴いたします」
俺が頭を下げると「うむ」と九郎左衛門が頷いた。
「幸稜かい。大層な名じゃないか。蕎麦蔵じゃ名前負けだね」
「そうかな、蕎麦繋がりなんでしょう。蕎麦蔵らしい良い名だと思うけど」
杏が茶化すと福が誉めてくれる。二人は自分の娘を揺りかごに入れゆっくりと前後に揺らしている。
福は杏より早く女の子を産んだ。あの佐吉が泣いて喜んでいたのが印象的だった。余程嬉しかったのだろう。
「蕎麦蔵は偉くなったな。商売でたんまりと稼いでいる上に今や武家様だ。初めて会ったときは頭が足りない変な小僧だと思っていたのになあ」
「そうか、ちょっと変わった小僧だったけど普通だっただろ。まあ、悪い奴には見えなかったけどな」
「そうだったかなあ」と久しぶりに会った茂平が懐かしがる。
「だが、本当は相当の悪党なんだぞ」と佐吉が声を潜める。
おいっ、佐吉、聞こえているぞ。
そんな俺たちを見てクスクスと笑う菊さん。茂平が待望していた息子を産んでも相変わらず笑うと笑窪ができて可愛い菊さんだ。茂平にはもったいない嫁さんだ。
その菊さんも息子を揺りかごに入れて揺らしている。
そんな三つの揺りかごを覗いては次、覗いては次と渡り歩いているは秋助だ。
結構、やんちゃで何でも興味を持つ年頃になって、佐吉と福の手を煩わせているらしい。
俺がたまに子守りするときは素直なんだけど。
「織ちゃん、この大福って美味しいでしょう。これはね、粉にした糯米に水を入れて火にかけて練るの。餅のようになったら出来上がり。中にはね、砂糖で煮詰めた小豆が入っているんだよ。美味しいよね」
「これ、美味しいです」
歌の隣では見たことのない娘が海野屋特製の大福を小動物のように啄んでいる。
俺以外の皆は娘に面識があるようで誰も気にした様子がない。
年の頃は十歳ぐらいの娘で綺麗な服を着ており、農家の娘というよりは武家の姫様といった風体だ。
誰だろう。九郎左衛門の身内かな。
「蕎麦蔵の元服と諱の件はこれで良いな」
九郎左衛門の確認に合わせて「はい、ありがとうございます」と礼を言い、頭を下げる。
「では、儂からの話だ。皆に集まって貰ったのは他でもない、儂の遺言を聞いて貰いたい」
「なっ、何をいきなり。まだまだ名主様は元気ではないですか。それに、これからも海野屋の重石として俺たちを見て貰いたいです」
「馬鹿者、人はいずれ死ぬものだ。だから耄碌せんうちに伝えるのだ」
俺だけが慌てている。ここに集まっている皆は慌てた様子がないのが不思議だ。
この時代の人はこのように想いを伝えていくのだろうか。
そう言えば、いつの頃からか九郎左衛門が一回り小さくなったように感じる事があった。
俺の背が伸びたからと思っていたが、九郎左衛門が老いて体も気も小さくなっていたのかも知れない。
人は老いれば死ぬ。
そう思うと悲しくなる。
寂しくなる。
まだまだ、俺を助けて欲しい。
知恵を貸して欲しい。
いや、そうじゃない。
そうじゃなくて、遺言などと言わず長生きして貰いたい。
「馬鹿者、何を泣いておるか。儂は死んでおらんぞ。遺言だと言っておろうが」
「ずみまぜん。なんだか込み上げて来ちゃって。俺に構わず話してください」
「蕎麦蔵はまだまだ子供だねえ。元服しようとしているくせに何も泣くことはないだろ」
「俺は涙もろいんだよ」
「悪巧みが大好きな癖に」
「それとこれは別腹だ」
杏と佐吉が呆れたという顔をする。
二人の横から歌が大福を差し出し「食べる?」と言ってくれた。
菊さんが子供の頃のように頭を撫でてくれた。
歌と菊さんの優しさで、更に涙が溢れる。止めようと思っても目が壊れたかのように次々と涙が溢れてくる。
情けなくてうつ向くと「馬鹿者」と九郎左衛門の困った声が聞こえた。
「仕方ない、蕎麦蔵はそのまま聞け。まずは青海村の名主の事だ。名主は茂平に任せる。良いな、茂平」
「俺は良いですが、織が婿をもらって家を継ぐ方が良いのではないですか」
茂平が座ったまま一つ前に出る。
「茂平、お前は根津家と血は繋がっておらぬが織の叔父だ。それに織はまだ子供で村を纏める事はできぬ。織は嫁に出す。お前が名主を継げ」
「ですが……」
茂平と九郎左衛門の話は続く。
越後にいる根津家は九郎左衛門と孫娘の織の二人だけ。九郎左衛門は血縁を頼って信濃から人を迎える事はしたくないと言った。また、越後の根津家は閉じても良いと。
孫娘の織が寂しそうな顔をしている。それに気づいた歌が織の手を握り励ます。
「分かりました。名主を継がせて貰います」
茂平が頭を下げた。
「茂平、お前は少々真面目なきらいがある。それは良い事でもあり、悪い事でもある」
「真面目な事は悪いことですか」
「うむ、悪い事だ」
「真面目なのが悪い事だとは思いませんでした」
「人とは自分の視線で相手を計るものだ」
「視線……」
「視線とは物差しよ。しかし、相手も己の物差しを持っておる。その物差し同士が合わぬから争いになる。茂平、名主は二つ物差しを持たねばならぬ。でなければ村は割れ、争いが絶えないであろう。名主は己の物差しと相手の物差しの二つで物事を計るのだ」
「はい、名主様。……俺に二つ物差しが持てるでしょうか」
「安ずるな。お前は既に二つの物差しを持っておろう」
「既に持っている?」
「そうだ。お前には己という物差しと菊という物差しがある。物事を決める時は、菊と良く相談して決めるが良かろう。菊、茂平は少々頼りないがお前がいれば安心だ。頼んだぞ」
「そうか、菊さんか。俺には菊さんがいる。名主様、俺は菊さんに全部相談しています。大丈夫、任せてください」
どんと自分の胸を叩く茂平の隣で、笑窪を作っていた菊さんが「はい」と言って九郎左衛門に頷いた。
「良し、次は海野屋の一員として言わせてもらう」
やっと涙が止まった顔を上げて九郎左衛門に頷いた。
「蕎麦蔵、いや、幸稜よ。海野の今後は武家として生きていくことになろう。海野屋は如何するつもりだ」
「はい、それについては俺も考えておりました。名主様にもここにいる皆にも俺の考えを聞いて欲しいです」
「うむ、話せ」
「海野の家を分けようと思います。一つは武家としての海野、もう一つは商家としての海野屋です。そして、海野屋は更に二つに分けます」
「おいっ、蕎麦蔵、海野屋を分けるってどういう事だよ。俺は聞いてないぞ」
「佐吉、話してなくて悪かった。まだ、俺も思案中だったんだ。これから話すから良い考えがあったら言ってくれ」
「お、おう」
「海野屋はこれから日の本で商売する内海屋と日の本の外、すなわち異国と商売する外海屋に分けようと思う」
「異国かい、想像もできないね」
「そうか? 杏も好きな大福の中の餡には砂糖が使われているが、それは異国から買ってきているんだ。そんな異国と商売をするだけさ。琉球、明、シャム、天竺、南蛮、まだ見たことも聞いたこともない異国とだ」
「駄目だ。俺も想像できねえ」
「佐吉もかよ。仕方がないが続けるぞ。そして、外海屋は日の本を抜いて商売する」
「蕎麦蔵、余計訳が分からねえぞ」
「外海屋は異国で仕入れて異国に売るという事さ。ただ、内海屋とは商売はする」
「分からねえな、海野屋が全部やったら良いんじゃないか」
俺に疑問をぶつけるのは佐吉だけだ。
九郎左衛門は目を閉じて耳を傾け、杏は呆れた顔をしている。他の者たちは話についていけない顔をしている。
「佐吉、前も言ったが一番儲けるのは異国との商売だ。その商売は俺が続ける。だけど日の本での商売は武家になった俺が続けていては聞こえが悪い。そこで日の本での商売は海野屋を内海屋と名前を替えて続ける。そして、内海屋は秋助に譲る」
「えっ、蕎麦蔵、それは駄目よ。海野屋は蕎麦蔵が作って大きくした店じゃない。秋助に譲るって言われても貰う訳にはいかないわ」
「福、いいんだ。俺は内海屋の主人にはなれない。だったらこの中の誰かに内海屋の主人をやって貰うしかない」
俺は一同の顔を見回し最後に福を見た。
「秋助しかいないんだ。それに、秋助は俺の甥っ子だ。店を譲っても可笑しくないだろ。勿論、秋助が一人前になるまでは佐吉と福で内海屋を仕切って欲しい」
「蕎麦蔵、いいの?」
「いいんだ。福だって俺の姉ちゃんなんだからさ」
「蕎麦蔵」
「泣くなよ。別れて会えなくなるわけじゃないんだし。ほら、福、笑ってくれ、秋助が、俺が福を泣かしていると睨んでいるからさ」
「蕎麦蔵」
「佐吉もいいな。秋助と福と内海屋を頼むぞ」
「ああ、勿論だ。秋助は大事な息子で、福は大事な嫁だから頼まれなくても大事にする。それと内海屋は任せてくれ、今以上に大きくしてみせるさ」
「蕎麦蔵、ありがとう」
「礼は早いぞ、福。今から三年を目処に外海屋を別にする。それに塩造りも止める」
「おいっ、それは聞いてないぞ」
「佐吉、娘のためにも頑張れ」
「当たり前だ。蕎麦蔵、後できっちり話をつけるぞ。逃げるなよ」
福は、福を俺から守ろうと仁王立ちする秋助を捕まえて抱き寄せた。そして「良かったね、秋助」と秋助に頬を寄せて笑う。秋助の怒った顔が擽ったそうな笑顔に変わった。
「残るは武家の海野だけれど、まず武家の海野のために新しい屋敷を作る。場所はまだ決めてない。そして」
俺は杏を見た。
「何だい」
杏が少し仰け反る。
「当主は俺がなる。そして杏と前は武家の海野だ」
「そんなに睨まなくても別に反対しないさ。言わなくても分かっているよ。武家の方が安心だって言うんだろう。俺だってそれくらい分かるさ」
「分かっていれば良いよ。本当に気をつけてくれよ」
「ああ」
前が上杉政虎の娘だと知る者は重臣の数名しかいないが、この状態がずっと続くという保証はない。この秘密を知った者が杏たちを利用しようとするならば海野が武家であった方が対抗し易い。
初めて冬を俺といっしょに過ごしてくれた姉たちと甥っ子。いろいろなリスクを回避するよう将来設計を考えた。
秋助と福は商家の内海屋、杏は武家の海野。さて、……。
「歌はどっちが良い?」
「ん、何の話?」
歌が不思議そうに俺を見て首を傾げる。
やがて話を理解したのか「むっ」と唸り眉を寄せた。
「何で怒るんだよ。ん、杏、何か用か、げっ」
俺が歌に話しかけ始めると立ち上がり、杏が俺の隣に立つ。見上げると杏の顔が鉄仮面のように表情がない。
じっと上から俺を見下ろす杏の視線が怖い。
「何、何だよ、杏」
怖いよ、そんな目で見るなよ。何なんだよ、一体。
助けてくれ、福。
あれ、福、どうしたの。俺をそんな悲しそうに見ないでくれ。
「あいた!」
杏に頭を殴られた。
「これは俺の分だ。そして、これは福の分」
「痛い、痛いって」
手を上げて頭を庇うが、杏はその隙間から拳を振り下ろす。
「そして最後に歌の分だ」
ゴンッ
最後の貰った拳骨が一番痛い。思わず本気を出して杏に食って掛かろうとしたほどに。しかし、杏の言葉が先に俺の頭を冷やした。
「蕎麦蔵、お前、歌を身請けしたんだろ、面倒見ないでどうするんだい」
「いや、俺は」
「元服する男が、四の五のってのは見苦しいんだよ」
「杏の言う通りよ、蕎麦蔵は歌に責任を取らないと」
待て待て、俺がいつ歌を身請けしたんだよ。確かに金を出したのは俺だけど、あれは名主様と菊さんの指示があったはず。
ねえ、名主様。
う、名主様は目を閉じたままだ。
そうだと言って、菊さん。
う、駄目だ、口元を隠しているが、あれは笑ってる。あの笑った目は助ける気がない目だ。
「茂平さん?」
「蕎麦蔵、俺は何があろうと菊さんの味方だ」
佐吉?
佐吉は首を振った。
「蕎麦蔵、歌も武家の海野だ。お前が面倒みるんだよ、分かったね。ほら、分かったと言いな」
歌を見るとぷいっと顔を背けた。
「う、歌も海野で?」
「情けないねえ。筋を通しなよ、男だろ」
杏、待て。何の話だ。
皆の視線が集まる。歌も胸の前で手を合わせ、俺をちらりちらりと盗み見る。
「分かったよ。歌も武家の海野だ」
「情けないねえ」
何でだよ。
菊さんがもう堪えられないとばかり、ケラケラと笑いだした。それに釣られ皆も笑いだす。
「名主様、俺の考えはこれで全てです」
皆に笑われて面白くないので名主様に話を振ることにした。
「うむ、お前の考えは分かった。まあ、良かろう」
九郎左衛門が目を開けて答えた。
「はい、ありがとうございます。では今の話で進めます」
「うむ。ところで蕎麦蔵、お前に折り入って頼みがある」
「はい、何でしょうか」
「儂も歳だ。先に話の通り名主は茂平に任せるが心残りが一つある。聞いてはくれぬか」
「まだまだ名主様には元気でいてもらわねば困ります。それに、これまでお世話になってばかりの俺です。良ければ遠慮せずに何なりと言ってください。恩返しさせてください」
「うむ、それでは頼もう」
「はい」
「心残りとは孫娘の織の事だ。織、ここに来なさい」
九郎左衛門が手招きして隣に織を座らせた。
「孫娘の織だ。今年で十になる」
数え歳で十と言うことは満で九つ。織は俺に頭を垂れて「織です」と挨拶をした。
「儂がいなくなると根津の家は織一人になる。親戚が村にいるとはいえ織独りになるのはあまりに不憫だ。そこで少し早いが嫁に出す事にした。無論、それで根津の家が無くなることも構わない。織も納得済みの話だ」
あのう、名主様。この話の流れって。あれですよね。待ってください。やっと歌の件がうやむやになったのに。これじゃあ。
九郎左衛門の話を聞いている内に、額に汗が滲みたらりと流れた。
「蕎麦蔵、お前が織を娶ってくれぬか」
「……」
皆の視線が俺に集まるのを感じる。
皆、何も言わない。
俺が何を言うのか皆待っている。
また、たらりと汗が流れた。
「蕎麦蔵様は私がお嫌いですか」
織が小さな声で俺に聞いた。
勇気を振り絞って俺に聞いたのだろう。可哀想に着物の端を握った手が震えている。なかなか返事しない俺より立派だ。
「いえ、そのような事はありません」
好きも嫌いも今日会ったばかりで分からない。
「情けないねえ、蕎麦蔵。男ならはっきりと返事しないかい。女に言わせるんじゃないよ」
そんな事言ってもさ。歌はいいのか?
歌と視線が合うと「知らない」とでも言うように横を見る。
歌と織
選らぶのか
歌は姉で、妹で、もう気心も分かっていて
織は恩人の孫娘で、独りぼっちになるかも知れなくて
どちらかを決めないと
決めないと
助けて……
福
俺は……
菊さん
どうしたら……
佐吉
いいんだ……
茂平
うっ、気持ち悪くなってきた。
「どうした蕎麦蔵。具合でも悪いか。そう難しく考えることもあるまい。お前はこれから海野という武家の主となるのだ。何を遠慮することがあろう。織も歌も側にしたら良かろう」
えっ、名主様、なんて言いました?
「良かったな、蕎麦蔵。歌も織も可愛くて。まさか嫌だなんて言わないよな」
いいのか、杏、俺は選らばなくて。
「蕎麦蔵、顔が青いわよ。大丈夫?」
福、もう駄目だ、体の震えが止まらない。頭の混乱も戻らない。
「おいっ、蕎麦蔵、蕎麦蔵」
佐吉、あまり揺らすな。
「……」
もう駄目だ。何も聞こえない。
気がつくと床に寝た俺を皆が上から見下ろしていた。ほんの一瞬、貧血のように意識が飛んだようだ。
「ねえ、蕎麦蔵、そんなに嫌なら俺は内海屋に行くけど」
「私もお祖父様に頼んでこの話は無かったことに」
歌と織が心配そうに俺に尋ねる。
「違うな、二人とも。蕎麦蔵は嬉しくて、嬉しすぎて気が持たなかったのさ。歌と織と、可愛い嫁さんを一度に二人も貰ったらそりゃ気も遠くなるってものさ。なあ、蕎麦蔵」
「杏の言う通りよ、歌ちゃん、織ちゃん、良かったね。蕎麦蔵、歌ちゃんも織ちゃんも蕎麦蔵の事を大好きなのよ。大切にしなきゃね」
「蕎麦蔵、歌と織様に声をかけないと男が廃るぞ。ほら、立て」
佐吉が俺の上半身を立ち上げてくれた。
「早く、歌と織に俺の嫁になれって言いな」
杏が俺に囁く。
まだ思考は混乱中だったが二人に返事をしないことは良くないと思った。
それに、先の事など誰にも分からない。進め、俺。
「織様、歌、こんな俺だが、宜しく頼む」
俺は二人に頭を下げた。
「名主様、情けない俺ですが二人とも幸せにしたいです」
振り返って九郎左衛門にも頭を下げる。
「うむ」とだけ九郎左衛門は頷いた。
「良し、蕎麦蔵、これでお前も嫁取りだ。おめでとう」
茂平が俺の肩を叩き、ケラケラと菊さんが笑窪を作って笑ってくれる。
歌と織が手を取り合って喜ぶ。
俺だけ残されたように皆喜んでいる。
皆、笑顔だ。だから、これは良い事だ。
「蕎麦蔵、貸し一つだからな。忘れるなよ」
杏が耳打ちした。
後で佐吉から聞いた話だが、海野屋の女たち、九郎左衛門、織、菊の間でこの話は既についており、知らぬは俺を含めた男たちだけだったようだ。
通りで歌と織はまるで姉妹のように仲が良かったことも頷ける。
果たして一度に嫁を二人も貰うのが良いことなのか、俺には分からない。
ただ、周りの人間は気にしていないように見えた。うん、考えるのはよそう。
数日後、どこからか歌と俺の事を嗅ぎ付けた蔵田五郎左衛門が、歌を蔵田屋の養女にしましょうと言ってきた。その後で俺に嫁がせるのはどうかと提案してきたのだ。
黒い笑みが怖かったが、蔵田屋の話に乗った。
歌に縁が増えるし、俺を買ってくれているのだと思うことにした。
出陣までは宴会の日々が続いた。
元服の儀式を行えば宴会。
歌が蔵田屋の養女となって宴会。
歌と祝言を上げて宴会。
茂平が名主を継いで宴会。
織と祝言を上げて宴会。
新しい海野の屋敷を着工しては宴会。
宴会はその日だけでなく前後数日間続けて行うから大変だ。あっという間に二ヶ月過ぎた。そして、いよいよ信濃遠征となり俺は村上様に付いて従軍する時が来た。
「俺、この戦いから戻ったら彼女たちと祝言をするんだ」
「祝言しただろうが、とっとと行け」
皆に挨拶し、杏に怒られ、俺は村上様がいる根知に旅立った。
次回、星降りと侵攻
蕎麦蔵、名前が幸稜になって嫁もらう。一度に二人も。
そして、信濃に行くことになりました。
勿論、戦場は川中島。
星が降るのを見届けに。
(お知らせ)
しばらく旅に出ます。
次回投稿は6月4日(月)予定で準備中です。