仕官の裏事情と桶狭間の戦い
永禄三年(1560年)二月、越後、糸魚川青海にて
海野蕎麦蔵
村上義清に仕えることになった。
「面倒な事になりました」
九郎左衛門を上座に移動させてから言葉を発した。
「何がだ」
相変わらず鋭い眼光で睨む九郎左衛門。
「俺は武家ではないですよ。武芸は一切できませんし、足軽になって戦えと言われても逃げ回るのが関の山です。村上様の役に立てるとは思えませんけど」
「当たり前だ。宇佐美様も村上様もお前にそのような事は期待しておらん」
「ですよね。では何故に村上様に仕えることになったのでしょうか」
教えて下さい。理由が分かれば改めて断りを入れますんで。
「海野屋は皆が認めるぐらい大きくなった。だが金が有る所には欲の皮が張った人間が寄ってくる。それこそ蜜に群がる虫のようにだ。魑魅魍魎の蟲どもが海野屋の蜜に寄ってくるのだ。蜜を味わえれば益々寄ってくるし、味わえない蟲どもは噂を流す」
「聞いています。海野は村上様に対敵した家、銭を貯めるのは事を起こす企みに決まっていると。口さがない噂です」
近江屋の件があって以来、直接的な行動にでる者は少なくなった。しかし、それで収まらない者たちが影口を叩くようになったのだ。
「だが捨て置けん。妬んでいる者たちが腹いせに武家を巻き込み海野屋が困ればと思うておるのだろう」
「それで村上様に企て、ですか」
「そうだ。だから儂は村上様に相談した。それに蔵田屋と勘定方の大熊様から宇佐美様に同じ話があったそうだ」
蔵田屋と勘定方の大熊は海野屋に付いた方が利益になると踏んでいるのだろう。今の所は味方と思って良いのか。
宇佐美定満と村上義清も繋がっている。二人は一体、海野屋に何を求めるのか。無論、無料ではないだろう。
「良くわかりません」
「お前は如何するつもりだったのだ」
何を? ああ、噂の件か。
「勿論、追い払います。手を出す者には殺られる前に殺れです。躊躇しませんよ」
「馬鹿者、もっと頭を使わぬか。商人同士ならばいざ知らず、武家が相手なのだぞ。それでは戦になろうが」
「戦うのが駄目なら逃げれば」
「越後から離れ逃げるか、お前を慕って青海に集まった者どもを如何する。見捨てるか、蕎麦蔵」
船はある。歌に杏、福一家、杏の村衆、船頭船員たち、塩事業で雇った人たち。大丈夫、たぶん全員乗せて逃げられる。
「馬鹿者、お前は逃げ回る気か。お前の事だ、どこに行っても商売で稼ぎおるだろう。だが、また儲ければ蟲が湧くぞ。湧いたらまた逃げるか。皆を逃げ回るのに付き合わせる気なのか」
ああ、なんて面倒な。
逃げるのが駄目なら月さんに頼んでレーザーの乱れ打ちとか、小惑星落下とかで何とかなるだろ。
「こら、そのような顔をするでない」
おっと、冗談です。
「分かりました。村上様に仕官したことにして、変な蟲が寄ってこないよう庇護を頼むと言う事ですね」
「それに御屋形様のこともある。お前と杏の件だ」
「と言いますと」
「お前が御屋形様に言ったと聞いておる。越後は今の倍の倍ぐらいは豊かになると。倍の倍とは百六十万石ほどになろうが、笑い話にもならん。宇佐美様が心配されておられた、御屋形様がお前に感化されておると」
今の越後の石高は四十万石程度と言われている。だから倍の倍は百六十万石となる。
越後の石高四十万石とは簡単に置き換えて言うと、越後に四十万人が暮らしているとなる。それが百六十万人まで増えることが可能だと長尾景虎に言ったのだ。越後は伸び代があるのだと。
廃藩置県が進み現在の都道府県の形となった頃の明治時代始め、新潟県の人口は百六十万人で全国一位だった。まだ、信濃川の分水もできてない時代でこれだけの人口なのだ。もし戦国時代に分水路が作られ、広大な新潟平野の治水に成功したならば、一国で二百万石を越え日本一の米所となって栄えていたことだろう。
ちなみに、尾張と三河、今の愛知県の明治時代始めの人口はと言うと百四十万人ほどだ。戦国時代の尾張と三河を足した石高は八十万石ほどなので、越後の伸び代がいかに凄いか窺えよう。
そんな知識を持っていたので、早速越後が繁栄するために行動を始めていた。鉄製農機具の普及だ。
大型の南蛮船はまだ一隻しかないが、越後の米や塩を出羽や蝦夷地に運び、北海の海産物と交換。それを若狭経由で京へと運び売る。得た金で堺などから鉄砲、火薬など一式を仕入れ山陰に運んで銀や鉄と交換して越後に持ち帰る。そして越後で鉄製農機具を作ると言うわけだ。
わらしべ長者ではないが大儲けだ。笑いが止まらない。ふふふふ。
貿易は弱っている相手とやるのが鉄則だ。足元を見て安く買い叩けるからだ。それに少し色を付ければ簡単に恩も売れる。ふははは。
堺は弱ってきている。
海外の取引先が少なくなったからだ。
明は海禁政策のお陰でもともと数の少ない密貿易だ。その上、南蛮商人が来なくなったからだ。取引先が来なければ儲けなくなるのは必定。はははは。
山陰の尼子氏も弱ってきている。
毛利氏の謀略によりかつての勢いはない。そのため鉄や銀を売り武器や兵糧を買い集めている。山陰が毛利領になると儲からなくなるので尼子には頑張って貰いたい。我が海野屋の大儲けのために。わははは。
「こら、そのような顔をするでない。それに杏のこともある」
「杏ですか?」
「そうだ。御屋形様が側近に女子でも話の合う者がいるのだなと洩らしたそうだ。多分、杏の事であろう」
「ははは、そうですね」
「笑い事ではない。その話で重臣の間で御屋形様が誰かを見初めたと言う話になり、相手を詮索しようとしたらしい。だが宇佐美様が止めたそうだ。詮索することが御屋形様に知れ、また出家騒ぎになったら如何すると脅してな」
「宇佐美様、流石です。ですが既に宇佐美様は知っていると言うことですね」
九郎左衛門は頷く。
「そこでお前が村上様に仕えて、村上様や宇佐美様が海野屋に集まるようになれば、御屋形様が訪ねて来てもおかしくあるまい」
げっ、あの爺たちが海野屋に来るようになるのか。はっきり言って嫌だ。
「馬鹿者、顔に出すな。修行が足らん」
「名主様、そんな修行はしたことがありません」
「何を言う、宇佐美様と村上様の前ではできていたではないか。しっかりせぬか」
緊張しないと駄目かも知れない。気を許している相手の前では地が出てしまう。
「はい、頑張ります。ところで話は変わりますが今日の問答は如何なる訳があったのでしょうか」
「あれはお前を試したのだ。今後、宇佐美様や村上様と共に企みを進めることができるか、否か」
「で、合格したと」
「そうだ。まずは村上様に含む所があるか、否か」
「全然ありませんけど」
「当たり前だ。しかし、お前は信濃の海野と縁ある家の出と言っておる。聞いた者が信じるかは捨て置き、いつも頭に入れて置くが良い。良いな」
「はい、分かりました。では御屋形様の件はどのような試しだったのでしょうか」
「あれは、口が軽くないかだ。そして、最後は嘘を付くかだ。あの問いには答えたくなければ、答えずとも良かった。だが、嘘はいかん」
「ですが全てを話した訳でもありませんが、それでも良かったのですか」
九郎左衛門は返事でなく首を縦に振った。
「嘘は付いて人を騙すのはいかん。しかし、言葉が足らず相手が勝手に思い違いをするのは仕方ない」
「騙すのは駄目で、思い違いしてしまうのは良いと。両方同じ結果になるような気がします。難しいです」
「他国ならいざ知らず越後では騙すことを嫌う。騙すことを良しと思わぬ者が多いのだ。この事も頭に入れて置くが良い」
「分かりました」
大きく頷いて理解したことを示して続ける。
「海野屋を守るため村上様に仕える事は分かりました。仕方ないです。ですが、俺は何をやったら良いのでしょうか。海野屋は何が求められるのでしょうか」
「お前が御屋形様に話したと言う企みが定かなのかを見極め、そして進める。宇佐美様と村上様といっしょにな、それがふたりの望みだ」
企みか、どの企みだろう。
「その他のことは望んではおらん」
「銭を出せとかではないのですね」
「馬鹿者、侮るでない。宇佐美様が出てきたと言うことは御屋形様がそのように采配したと言う事だ」
「して企みとは」
俺がそう聞くと九郎左衛門はジロリと睨む。お前は一体どれだけの企みがあるのだと言う目だ。
そして、九郎左衛門は疲れたように長い息をひとつ吐いてから言った。
「星降りの事だ」
永禄三年(1560年)五月、尾張、桶狭間にて
ある馬廻役
汗が頬を伝う。具足も付けていない手の甲で汗を拭った。そして濡れた手を胴丸に擦り付けた。
いつかは俺も殿のような立派な鎧が着てみたいものだ。それにしても暑い。五月にしては暑すぎる。
ガチャガチャと具足を鳴らし小走りで東海道を進む。いくつもの隊に分けた矢尻隊形だ。
よくぞ中島砦まで今川勢の目を欺けたものだ。今川勢は我ら織田勢が小走りで移動するのを見ているだけだった。
今川勢は見合ったのだ。今川勢は大軍、味方は多い。しかし織田勢は少数、いかようにもなると。
今川勢は奪った砦や城を守れば良い。織田勢がどの砦に戦いを仕掛けるか分かってから攻めても遅くないのだ。それに雨が降れば織田勢は引き下がるとでも思っているのだろう。西である背後から雲が沸き上がっていた。
我ら織田勢の狙いは桶狭間山。そこに今川の本陣がある。
走る。桶狭間山に近づくに従い駆けるように皆走る。気が高ぶるのだ。
もう少し進むと右手に桶狭間山が見える。山と言っても東海道沿いにある低い丘だ。東海道から南の丘に登る道があり中腹に小さな社がある。そこが今川本陣。
ピカッ
ドドーン
雷が近くに落ちた。
正午を過ぎた頃から、瞬く間に西の空に雲ができた。そしてゴロゴロと雷が鳴り出した。今にも雨が降りだしそうだ。次第に周囲も暗くなってきた。
見えた。
桶狭間山だ。
木々の間に今川の旗が風になびいている。
あそこに敵の総大将、今川義元がいる。殿は義元の首さえ取れば織田の勝ちだと言った。その通りだ。
体が震える。寒い。
武者震いか。戦でこれほど震えた事なぞないのに。今川には勝てぬと体は言っておるのか。
確かに味方の数は少ない。勝てる道理はない。だが、雨が降れば。雨が降れば戦場は混乱する。
雨は織田の味方ぞ、と自分を鼓舞する。
ポツリと雨が顔に当たった。突如、強い風が吹き上がる。
雨が降る。これは天啓だ。天は織田の殿に勝てと言うておる。
丘近くの東海道にいる今川の兵が我らに気がつき押し寄せてくる。
戦いだ。
槍を前に突き出して走る。
隊列は崩れ、皆ばらばらに走る。
皆、奇声を上げて走る。
走る。
声を上げる。
バチッ、バチッ、バチッ
大粒の雨が降ってきた。
風が唸る。
一気に暗くなる。
遅れた。遅れを取った。
既に先頭を走っていた集団は今川勢と刃を交え始めた。雨で視界が悪い。足が取られる。
ガッ、ガッ、ガッ
痛い、痛い、痛い。
何だ。今川勢の礫か。
雨の中であろう、なぜ、礫が届く。
いや、違う、これは違う。
礫ではない。雹だ。
雹が降ってきた。大粒の雹が降ってきた。
ガガッ、ガガッ、ガガッ
痛い、痛い、戦いどころではない。
たまらず立木の側まで逃げた。次々と木にへばり付くように味方が集まってくる。暗くてよくわからないが周りの立木にも同じよう集まっている。
冷える。今まで暑かったのが嘘のように冷える。
寒い。
ガガガガガガガッ
大雨どころではない。赤子の握り拳のような大きい雹が降ってきた。
目の前にあるはずの桶狭間山は見えない。ただ暗くて、白いだけだ。そして雹が地に落ちる音に覆われて他に何も聞こえない。
戦いはどうなった。味方は、敵は。見えない。
ガッ、ガッ、ガッ
雹の降りが弱くなった。
長い時だったのか、一瞬だったのか。
「今ぞ、かかれ」
甲高い声が響いた。
そうだ、戦いだ。
雹が徐々に静まり東にのろのろと動いていく。西の空の雲が切れ、日が射す。
「今ぞ、かかれ」
再び、甲高い声が上がると周りの武将も「かかれ、かかれ」と叫んだ。
槍を構え走り出した。
奇声を上げて走る。
雹と雨を追いかけて走る。
足が取られる。
雨で濡れた着物が重い。
何だ、ここは何だ。
地獄か、ここは地獄なのか。
先ほどまで刃を交えていた者たちはいない。皆、倒れ伏している。味方の尾張勢も敵の今川勢も倒れて動かない。大きな雹に打ちのめされたのだ。
走れ、走れ。
よろよろと寄ってくる今川の兵を槍で叩く。
雑兵は去れ。狙うは鎧武者のみ。
桶狭間山から降りてくる一団が見えた。皆、鎧武者だ。守る者は少ない。雹を逃れて降りて来たのだ。鎧武者たちの動きは鈍い。雨で濡れて重くなり、雹に打ち付けられ弱っているせいだ。
雹は止み、小雨になった。
我ら織田勢は鎧武者の一団に襲いかかった。
鎧武者のひとりに槍を突く。
槍は胴丸に当たり滑った。
武者が刀を振る。
後方に下がる。
足が滑り後ろに倒れ込んだ。
武者が刀を振り上げ、再度振り落とす。
槍を離し転がるように横に逃げる。
ガサッと地を打ち据える音。
勢い余って覆い被さる武者。
更に横に逃れ、両手で相手を押しやる。
相手から離れ立ち上がり槍を拾おうと屈む。
武者が立ち上がり、刀を横に払った。
槍を諦め下がる。
武者の体が泳ぐのを見逃さず体当たり。
二人で地に転げた。
咄嗟に武者の兜を掴み引き下ろした。
そして武者がもがく間に立ち上がった。
手には槍。
寝ている武者が兜をずらしたまま俺を探す。
目が合った。
武者の顔が歪んだ。
槍に力を込めて突き入れた。
はっ、はっ、息が切れる。
討ち取った。敵の武者を討ち取った。
「討ち取ったり」
槍を振り上げ雄叫びを上げた。
その時、近くでも同じ馬廻役のよく知る声が叫んだ。
「今川義元が首、この毛利新介が討ち取った」
次回、世界改変と子守り
織田信長、持っている男。
何を?
持っていても殺されちゃ駄目だろ。