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長尾景虎と正義

 永禄二年(1559年)十月、越後、糸魚川青海にて

 海野蕎麦蔵


 今、春日山も府中も直江津も大騒ぎになっていることだろう。


 上洛した長尾景虎は将軍足利義輝に拝謁し上杉氏を継ぐことを公的に認められた。合わせて関東管領も長尾景虎が継ぐことが決定したのだ。

 そんな嬉しい知らせと共に長尾景虎率いる越後勢が京より戻って来た後、その本人たる長尾景虎がいなくなったのだ。それも誰にも告げずに煙のように消えたのだ。

 今頃、また出家かと慌てふためく家臣たちの捜索が密かに始まっているはずだ。他国に漏れぬよう細心の注意を払いながらの捜索が。


 なぜ、青海の海野屋から遠く離れた春日山の事が分かるのかと言うと、その長尾景虎本人が供もつけずに一人で海野屋を尋ねて来たのだ。

 供がついていないと言うことは絶対黙って抜け出して来たに決まっている。

 本当に迷惑な話だ。一体、俺に何を話しろと言うのだ。帰れと言いたいぐらいだ。しかもすでに日は傾いている。まさか泊まっていく気ではないだろうな。


「あなたが海野うんの蕎麦蔵ですね。蔵田五郎左衛門から報告は受けています」


 客間の上座に腰を下ろした景虎が優しげな眼差しを俺に向ける。戦国最強の名をほしいままにしている人物にしては、言葉が丁寧であり物腰も柔らかい。まるで、海野屋で働く子供たちに字を教えてくれる近くの寺の和尚のようだ。


「いえ、私の名はうんのではなく、うみのです。私は海野蕎麦蔵と言います」

「なるほど、うんのではなく、うみのですね。分かりました、蕎麦蔵と呼びましょう」


「おいっ」と思わず言いそうになったのを無理矢理呑み込む。景虎の目が笑っている。


 やりにくい。


 この人は俺の知らない長尾景虎だ。

 長尾景虎と言えば猛禽類の目付きに大酒呑み、幾度も少数で勝つという戦国最強武将のイメージなのだ。上杉謙信にレベルアップしたら変わるのだろうか。


「蕎麦蔵は幾つですか」

「十三になります」

「十三、私が元服した歳と同じですね。信濃の海野うんのの出と聞いたのですが違いましたか」

「いえ、そうです」

「しかし、うみのと言うと」

「信濃より越後に逃れる際にうみのと名乗りを変えたと聞いています」

「ほう、海野平の戦いの後でしょうか」


「さあ、わかりません」と首を傾げる。

 これ以上尋ねないでくれ。その手の話しには答えられないから。そもそも嘘の出自なんだよ。


「まあ、良いでしょう。今日は礼を言いに訪ねて来ました」


 はて?


「分かりませんか」

「はい、分かりません。礼を言われるようなことはしていないと思います」


 そうだ、咎めを受けることは思いつくが、長尾景虎に礼を言われることをやった覚えはない。まさか、直江津の近江屋を嵌めた事の礼でもあるまい。


 って、礼と言うのは落とし前の事か?


 ちょっと待ってくれ。近江屋の件は違う。先に手を出したのは向こうだ。海野屋の周りを嗅ぎ回るだけならば未しも、敷地内に入ってきては女房衆や子供たちを拐かそうとしたんだ。まあ、月さんに処分してもらったけど。

 その騒動を糸魚川の越中屋の番頭に愚痴ったら、いつの間にか直江津の蔵田屋に伝わり、気がついたら勘定方の大熊って人も参加して近江屋を嵌めていただけだ。

 俺が黒幕じゃない。あの二人が大悪党なんだ。


 くっ、蔵田屋め。俺を嵌めやがったな。


「蕎麦蔵は面白いな。次々と顔色が変わって、実に面白い」

 長尾景虎が声を出して笑う。


「……」

「蕎麦蔵、如何しましたか? 驚いたような顔をして」

「いえ、もっと怖い方かと思っていました。す、すみません」

「いえ、構いませんよ。そうですか、私を怖いと思っていましたか。私の事を知っていたのですか」

「勿論です。越後に住んでいて知らぬ者はないと思います」

「この顔もですか」

 景虎が自分を指差す。


「はい、上洛の際に遠目で拝見させていただきました。でも、顔は知らなくとも越後の国主長尾景虎様の名を知らぬ者はありません。越後の国には誰も攻め込めません。それは国主様がいるからです。国主様は越後の守り神なのです」

「ははは、これはかたじけない。では越後の国主から礼を言いましょう。今年は例年以上の干ばつとなり、信濃、甲斐、それに関東は酷い状況です。しかし、越後は違います。海野屋が米を集め、越後の国中に米を安く売ってくれたお陰で、越後は飢えを避けることができます。助かりました」

 長尾景虎が微笑んだ。


「礼などは不要ですよ」

 違いますとは言えなかった。

 月さんの長期天気予報で大干ばつになることは分かっていた。だから米を買い集めた。大干ばつになれば米の値は上がる。ぼろ儲けできる事は事前に分かっていたのだ。

 だが、さすがに越後の米を買い集めることもできず周辺の敵国から買い集めた。越後で買って越後で売って大儲けしても恨みを買うだけだ。

 それに安く売るつもりもなかった。今、損を出してまで売っているのにも理由がある。


 日照りが続いた夏、米の値が天井知らずで上がっているのを知って大笑いしていた。あまりの儲けの大きさに海野屋の経営会議で得意気に皆に話して大笑いしたのがいけなかった。九郎左衛門がいなかったのも調子に乗った原因だ。

 大笑いする俺の横で不作と年貢に苦しむ農民に買えるような値ではない事を憂いた歌と福が哀しそうな顔をしていた。だが、二人とも海野屋の主人という立場の俺に遠慮したのか何も言わない。


 そんな中、最初に裏切ったのは佐吉だ。

 野郎、俺といっしょに高笑いしていたくせに、突如「なんとか農民を助けてやれないか」と言い出したのだ。絶対、福の手前格好をつけただけなのだ。


 そして、それに便乗したのが杏と平次。

 こいつら二人も大儲けに大笑いしていた口だ。杏は面白い雰囲気になりそうだから態度を急に変化させ「蕎麦蔵、あんたは農民の苦しむ顔がそんなに見たいのかい」と言い始め、そんな杏に同調する平次も「姉さんの言う通りでさ」と続ける。


 お前ら、ふざけるな。


 哀しげな目で黙って俺を見つめる歌と福。

「なんとかしようぜ」と良い人ぶる佐吉。

「この薄情者」と、にやつきながらののしる杏。

「姉さんの言う通り」と主体のない平次。

 妙な雰囲気に呑まれたのか、泣きそうな秋助。


 泣くな秋助、俺は悪い人じゃないぞ、良い人だぞ。


 仕方なく安く売ることになった。まったくの大損になるが、秋助も泣かなかったし、歌と福がいつもの笑顔に戻ったので良しとした。




「お武家様にはお武家様の、商家には商家の生業と言うものがあります。米を買い集め、米を売り儲ける。それは商家の生業です。ただ、それだけです。確かにこの度の商いでは多少損はでますが、海野屋に何ら問題はありません」

「高値で売れば儲けが出たのでは。今年の大干ばつでは、皆、高値になることを覚悟していたでしょう」

「人の不幸を見てまで儲けたいとは思いません。少しでも越後の国主様の、そして越後の民の力に成れればと。これが海野屋の商売です」


 ぶっ


 襖の向こうから吹き出す音が聞こえた。

「誰だ、出て来い」


 誰かは分かっているがな。


「殊勝な事を言いでないか、蕎麦蔵」

 どんっと襖が開き現れた杏が偉そうに腕を組んで俺を見下す。


 誰だと言う視線の景虎に「姉です」と答えた。


「お武家様があんたを尋ねて来たって聞いて、助けてやろうと駆けつけてみれば、薄情者の蕎麦蔵は如何にも越後の民のために頑張りました、みたいな話をしているじゃないか。てんで可笑し過ぎて笑っちまったよ。蕎麦蔵、あんた、高く売りつけて大儲けできると高笑いしていたじゃないか」


 本当かと言う視線の景虎に「嘘です」とは答えられなかった。さすがにそこまで厚顔ではない。


 どうやら杏が駆けつけて来て、襖の反対側に隠れて聞き耳を立て始めたのは、俺の得意気な台詞かららしい。そして、面白そうだと隠れて話を聞いているつもりが俺の台詞に吹き出してしまった。隠れていたことを咎められない様に話しをすり替え、俺を悪者にして逃れる気なのだ。


 全く、杏らしい。


 だが、目の前にいるのが越後国主長尾景虎とは思っていないようだ。どうせ金の無心にやって来た武家ぐらいに考えているのだろう。


「名は何と言いますか」

「俺かい、杏と言うのさ。あんたは誰だい」

「こらっ、杏、こちらの方は」

「良いのです、蕎麦蔵。杏、私は寅と言います。寅年のとらです」

「ふーん、寅ねえ。良い歳して商家に無心とは情けないねえ。武家なら武家らしく戦で儲けなよ」

「杏、失礼だぞ。それに無心に来たのではない」

「そうなのかい、寅さんとやら。そりゃ悪かったね」

「杏、丁寧に謝れ」


「蕎麦蔵、良いのです。形に囚われる必要はありません。それに杏の言う通り、戦いで己の正義を示すのが武家です。儲けはしませんがね」

「駄目だねえ」

「駄目ですか」

「ああ、全く駄目だ。何も分かっちゃいない」

「杏、座りませんか。そして何が駄目なのか、何が分かっていないのかを教えてくれませんか」


 杏はもう一度「駄目だねえ」と言って俺の横に座った。蕎麦蔵、お前も分かっていないんだろと見る。


 分かるか!


「いいかい、寅さん。武家は儲けなきゃいけない」

「武家は戦うが本分、儲けるは商家の本分ではないのですか」

「だから駄目だ、分かってないと言うのさ。武家も商家のように商売をして儲けろって言っている訳じゃないさ。周りの国と戦をするよりも、俺たちが腹一杯食べられるような国にしてくれって言っているのさ。分かるかい」

「分かります。武家は国を治めているのだから戦いをするだけではなく国の民が儲ける事を、即ち国の民が富む事をせよと言うのですね」

「なんだい、分かっているじゃないか。民が儲ければ、それを知った人が集まり国の民が増えていくだろ。そしたら戦にだって大勢を連れていけて、武家様の本分の戦にも簡単に勝てるだろう」

「確かにそうかも知れませんね」

「そうだろう」


「ですが正義はどうなるのでしょうか。国が儲けてから戦をせよと言うのは分かります。が、その間の不義には目を潰れと」

「そんな事は言ってないさ。不義を正せば良いじゃないのさ」

「武家が相手の不義を正すと言うことは戦をすると言うことです。戦とは即ち、多くの人と金と食糧を注ぎ込むと言うことになります。当然、その分、国を富ませることは遅れることになります」

「そんなの本末転倒じゃないか。武家が戦ばかりしているから、いつまで経っても俺らが満足に飯も食えないんだろ。不義ぐらいちょっと目を潰って、国が富んで強くなってから正せば良いじゃないのさ」


「それは、できません」

「はあ、こんな蕎麦蔵でさえ数年でこれだけ大きな商売をしているんだ。武家様が戦いを少し間でも止めたら、もっともっと大きな事ができるだろ」


 おいっ、杏、こんな蕎麦蔵言うな。


「それでも不義を見逃すことはできません」

「頭の硬いお人だね。国の中ならいざ知らず他国の事なんかどうでも良いじゃないのさ」

「遠く離れた他国ならば仕方ありません。ですが隣国での不義は見逃すことはできないのです。不義を見逃す、即ち不義を正す力がないと見下されます。力なき武家からは人が去り不義を行う武家に潰されてしまうでしょう」

「それは武家の都合だろ。勝手に正義だ不義だって言い合って戦をしているのは武家だ。俺たち民には誰が国を治めようと関係ないさ。誰が治めても年貢を取られるだけなんだから」


「……」

「何さ、言いたい事があるなら言いなよ」

「いや、杏の言う通りだと思います。全ては武家の勝手なのです。正義も、不義も」

「情けないねえ、しっかりしなよ。俺みたいな武家様のことは何にも知らない者にちょっと言われたぐらいでさ」


 長尾景虎が杏を見つめる。


「あんたは越後の武家様だろ。俺もそうだし村の皆もそうだけど、越後の国は越後の武家様に治めて欲しいって思っているさ。当たり前じゃないか、ここは越後なんだよ」

「……」

「だから、あんたは大手を振って不義を正すまで戦うって言えばいいのさ。越後を守るって言えばいいのさ。分かったかい」


「はい」

「でも困ったね。不義との戦いは止められない。でも戦いを続けていては満足に食べていけない。じゃあ、どうしたら良いのかね」

「杏の言う通りこのままでは良くはありません。だからこそ私はここに来たのです。ここに来たら何か良い案があるのではないか。損を出してまで商いをする人に会えば何かが変えられるのではないかと」


 長尾景虎、いや寅さんと杏が俺を見る。


「蕎麦蔵、何とかしな」

「無理」

「歌にばらすよ」

「考える」


 とは言ったものの無理なものは無理だ。

 この戦国時代は脆弱な足利政権と小氷河期による飢饉が重なったのが原因だ。この後の江戸時代を見ろ、政権がしっかりしていれば小氷河期による飢饉だけに押さえる事ができる。戦乱と飢饉のダブルパンチよりはましだろう。


 であれば方法はただひとつ、早期の天下統一。


 だが、その前に。

「もう夕方です。日が落ちたら外は危険なので今日は我が屋敷に泊まってください。この蕎麦蔵に精一杯のもてなしをさせてください」


 長尾景虎がくすりと笑った。


次回、家督譲りと仕官



上杉謙信は女性だった。などと言う説がありますが、それはそれで夢のある話しだと思います。

一日二話をアップできるのは今回まで


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