プロローグ ある武将の日記
永禄四年(1561年)
八月五日
続々と諸将たちが兵を引き連れ春日山に集まってきた。その数、既に一万三千。
まだまだ集まるという。
この一戦にかける御屋形様の覚悟が知れる。
八月十一日
一番遅れていた上野衆が到着した。
明日、信濃に出陣との命があった。
この度の武田征伐には上野衆二千、越中衆五百と他国の者たちも参陣した。
心強い。
それに越後の分水衆という者どもが一千五百も集まった。
その者どもは不揃いな鎧に、これまた不揃いな長さの槍を持っている。率いている者も合戦には馴れておらぬようで隊列がなっていない。
御屋形様は如何なる使いどころを考えておいでなのだろうか。
他国の者たちを合わせて越後勢は二万二千もの大軍となった。
如何なる敵にも負ける気がしない。必ずや武田方を打ち倒すことができるだろう。
体が震える。
八月十五日
善光寺に着陣した。
ここに荷駄隊と護衛一千を置き、本隊は更に先に進むという。
さては、海津城を落とすつもりだろう。
護衛一千とは少ないと思ったが、仔細を聞いて納得した。
護衛一千の他に上野衆、越中衆、分水衆を合わせた五千を直江実綱様が護衛部隊として指揮されるとのことだったのだ。
さすが御屋形様だ。抜かりはない。
決戦は越後勢で行うようだ。
手柄を立てねば。
八月十六日
犀川、千曲川と渡り妻女山に登り布陣した。
海津城攻めではなかった。
海津城ごとき一万七千もの兵があれば簡単に落とせたものを。御屋形様には何か考えがおありなのだ。
この妻女山からは八幡原や海津城が良く見える。しかし、この妻女山は死地。
なぜ、このような場所に布陣したのだろうと兵たちが噂をしていると、宇佐美様が現れて言った。
武田方も妻女山は死地と思うであろう。だからこそ、必ずや戦いを仕掛けてくると。
確かに前回の征伐では対陣すること五ヶ月。戦にはならなかった。
武田方は戦から逃げている。だから、死地と言う餌で釣るということなのだ。
さすが、知恵者の宇佐美様だ。
八月二十日
武田方が進軍してくると知らせがあった。その数、二万六千。
さすが武田だ。兵を集めてきた。
宇佐美様が兵たちの間を労いに回っておられた。その時にいっしょにいた若い小姓が宇佐美様に武田方の数が予想通りだと言うのが聞こえた。
御屋形様や重臣たちは武田方の動きを予想して動いている。
勝てる。そのような気がする。
八月二十四日
武田方の軍勢二万六千が現れ北西にある茶臼山に布陣した。
妻女山と茶臼山の間には千曲川と八幡原が横たわっている。
すぐに戦いとはなるまい。
武田方は海津城に入城するかと思っていたが、さすが大将武田信玄は一筋縄ではいかないようだ。
ただ、御屋形様や重臣には慌てた様子はない。これも読んでいるのか。
戦いの最中ではあるが、まるで碁を打っているようだと感心する。
八月二十九日
武田方が八幡原を横切り海津城に入城した。
素早い動きで我らも妻女山を降りる暇がないほどだった。
前回と同じく睨み合いが続くのだろうか。
九月三日
動きがない。
こちらも動かなければあちらも動かない。
妻女山の東斜面と西斜面を行ったり来たりしているだけだ。
日があるうちは妻女山の東斜面で武田方の海津城を睨み、飯時と寝る時は西斜面に移動する。一日に何度も東斜面と西斜面を往復する。
最初の頃は武田方も我らが妻女山の東斜面に現れたり消えたりすることに怪しんで反応していたが、慣れた今となっては動きも少ない。
毎日、毎日の繰り返しだからだ。
これも御屋形様の策なのか。
動かないよりはましだが気が抜ける。
この度も対陣だけとなってしまうのだろうか。
九月五日
今日も動きがない。
東斜面と西斜面を移動するだけだ。
九月七日
恐ろしいことが起きた。混乱している。
後日、綴ることにする。
九月八日
今夜は上杉勢一万七千で、深志城を取り囲んでいる。
降伏の使者を出したが、明日まで返答を待って貰いたいと言われ引き上げてきたようだ。
御屋形様は明日九千の兵を率いて諏訪に進むとし、残りの兵八千は村上義清様に預けこのまま城攻めするよう命じた。
城もまだ落ちぬのに御屋形様は諏訪に進むのだ。
いや、最早我らに抵抗ができる武田勢はおるまい。兵八千でも簡単に落とせることであろう。
未だに頭が混乱している。道中、頭の中を整理して綴ることにする。
九月九日
諏訪に布陣した。
諏訪氏は降伏した。
武田勢がどのようになったか分からぬと言うに、諸手を上げて喜ぶように降伏したとのことだ。
諏訪と武田の遺恨の深さが伺い知れる。
さて、多少とも頭が冷えた。一昨日の夜から今日までの出来事を綴ることにする。
七日の夜半に小用を足しに起きた。
武田方も夜は攻めて来ないであろうと大半の者が寝入っており、起きているのは夜番の者たちだけだ。
妻女山の東斜面まで行って小用を足す。
夜空には半分に輝く月があり、眼下に拡がる暗闇には武田方の海津城であろう篝火だけがぽつりぽつりと灯っていた。
用を終え西斜面に戻ろうとしたところを、聞き覚えのある声に誰何された。
宇佐美定満様であった。
さらに驚いたことに、宇佐美様の他に御屋形様と宇佐美様の小姓がいた。三人は暗闇の中、武田方の海津城を見ていたのだ。
一体、何を見ていたのであろうか。
慌てて膝を着け、東斜面にいる仔細を答えた。
夜間に東斜面に立ち入ることは、策を有効にするためと禁止されていたからだ。
咎めを覚悟して頭を垂れた時、小姓がそろそろだと御屋形様に囁き、二人は急いだ様子で西斜面へと向かった。
咎めさえ受けることもできぬのかと悔しい思いでいると、宇佐美様に肩を叩かれ、咎めはなしだと言われた。さらに、急いでついてこいと言われ、宇佐美様と共に御屋形様たちを追いかけた。
突然、星の一つが明るくなった。
それを見た小姓が、何かを叫んで、皆で言われた通りにした。
次の瞬間、昼間の様に明るくなり轟音がして地が揺れた。
そして、衝撃が来て再び真っ暗になり、程なく小石と砂が降ってきた。
得体の分からない出来事に怖くなり、頭を抱えて近くの木の根元にうずくまった。
暫くして、砂降りが弱まると御屋形様の身が心配になり立ち上がって探した。
御屋形様たちは既に集まり話をしていた。
「さあ、始めることに致しましょう」と言った、小姓の声だけが聞こえた。
御屋形様たちは何を始めるつもりなのだ。
宇佐美様が某を呼び、兵を起こし朝餉を取るよう触れ回れと命じた。
急ぎ兵たちの所へと戻り、大声を張り上げた。
東の山の空が、白みかけた頃には朝餉も終わり、下山できる準備が整った。
そして、御屋形様の命のもと妻女山の東斜面から海津城を見るように下った。
朝靄に包まれてはっきりとは見えなかったが、海津城はなくなっていた。
そこには、大皿を遥かに大きくしたような土山があるだけだった。
妻女山を下り千曲川を渡って八幡原に出ると、既に直江実綱様率いる五千の兵と荷駄隊が待っていた。
皆の顔が青い。何が起こったのか、何が起ころうとしているのか、誰も知らないのだ。
御屋形様が、集まった将兵に、武田は天意によって滅んだと宣言した。
さらに、これより信濃と甲斐は上杉が治めると言った。
その言葉を聞いた、兵たちの顔には赤みと気合いが戻ってきた。
この後、直江実綱様が諸将に御屋形様の命を大声で告げた。
上野衆と越中衆には帰国が命じられた。
特に、上野衆には早々に上野に戻り、北上する北条方に備えるように指示があった。
宇佐美定満様には、直江実綱様と交代し兵千と分水衆を合わせた二千五百で北信濃を固めるよう指示があった。
攻めても良し、調略しても良し、兎に角上杉に従わせろと言うことだ。
そして、御屋形様は残った上杉勢一万七千を引き連れ、深志城を攻めると進軍を開始したのだ。
この後の深志城の事、諏訪の事は先に記した通りだ。
九月十一日
抵抗の無いまま甲斐の国に入り、武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館も御屋形様の前には、赤子の手を捻るように瞬く間に落ちた。
武田方の家人の多くは館にいるところを捕らえられ、今川や北条を頼って逃げ延びようとした少数の者たちも国境を越える前に捕えられた。
まさか、武田勢二万六千もの大軍が敗け、敗残兵よりも早く上杉勢の大軍がここまで攻め込んでくるとは思っていなかったのだ。
捕らえられた者たちは唖然とし、館に押し込められ静かにしている。武田の家人たちも我らと同じで事態についていけないのだ。
御屋形様は館の広間で軍議を開き、長尾政景様に兵三千を預け甲斐を治めるように命じた。
そして、御屋形様は躑躅ヶ崎館で一日休み、その後兵六千を率いて関東に出ると告げた。
軍議に集まった武将たちにどよめきが起きた。
武将たちは、甲斐を落として征伐は終わりと思い込んでいたのだ。
だが、直江様に、御屋形様は関東管領であろうと言われ、皆が納得した。
諸将たちは皆、高揚していた。
もし御屋形様が越後、信濃、甲斐、そして関東を治めれば自分たちに大きな恩賞があるのではと思ったのだ。
しかし、某は気がついた。
某も他の武将たちも皆、まだ何も手柄など立てていないことに。
九月十五日
甲斐府中を出立し峠を越えて東進。
今日、武蔵の国に入った。
そして、御屋形様より攻める城の名を告げられた。
次回、川中島からの撤退と出会い
次回はプロローグより四年前に遡ります。
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人物名については、基本的に名(諱)を使用致します。
また、人物の会話の中に江戸時代以後の言葉も使用致します。
物語の内容を分り易くするために行います。どうぞご理解をお願い致します。
2018/06/16
台詞は一つだけ残し、修正いたしました。
台詞は本編の後書きに残します。




