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命の駆け引き

作者: 小松八千代


暦の上ではここ三日で春を迎えるという、九月半ばの肌寒い夜のことである。

ピストルで撃たれた若い女性が、アスンシオン市の某救急病院に運び込まれた。

病院に運び込まれて来た若い女性、マリアを見て医者は、これは助からないと思った。まだ息絶えてないのが、不思議なぐらいだった。

マリアは至近距離から胸を撃たれていて、弾が心臓の一部を破損して背中のほうへ貫通していた。  

一応輸血と感染症などの処置はとったものの、いずれ臨終を迎えるであろうマリアを個室の病室に移した。両親に最後を見届けてもらえるようにと、医者の計らいだった。

ひたすら助かることだけを願っている、両親にはただ個室があいてますからということで、もうだめだということは言わなかった。それに奇跡的に助かるということもある。

マリアの心拍音は、一時停止。もうだめかと思ったらまた動き出す。それを繰り返していた心電図は取り外されて、点滴だけがマリアの手に繋がっていた。

ベッドに横たわったマリアの、整った美しい顔が、時々苦しそうに歪む。

母親が「マリア、どうしたの?苦しいの」と覗き込んで、優しく頬をなでる。

マリアのカールした睫毛の瞼も閉じたままである。唇も閉じたままだが、母親には僅かに動いているようにも思われた。今にも「ママ」とあの愛くるしい笑顔で呼んでくれそうな気がした。母親はマリアの手を擦り、肩を撫でながら「マリア一人では消して遠いところへは行かせませんよ。いつもお母さんと一緒ですよ」と言って、マリアのそばから片時も離れない。手洗いに行く時は父親がマリアの手を握る。四六時中見張っていないと遠くへ行ってしまうような気がして耐えられないからだ。

父も母もマリアを一人おいて旅行に出かけてしまったことを深く後悔していた。知らせを聞いてサンパウロから、急遽飛行機で引返してきたものの、どうして一人にしてしまったのだろう。私達がいたらこんなことにはならなかったはず。と、それが悔やまれてしょうがなかった。

マリアは夢を見ているのだろうか?

鼓膜を打ち破るような、銃声音が頭の中に残っていた。自分が殺されたんだということは、マリアにもわかっていた。そうだあの時私は殺されたんだわ。私が殺されるなんて思っても見なかったわ。でも、まだ死んではいないはず。

三途の川は目の前にあった。

川の向こうは百花繚乱の如く花が咲き乱れ、白い布を纏った女神のような女達が微笑みながら、早くいらしゃいと手招きをする。

でもまだこの川を渡るわけには行かない。まだ死ぬわけにはいかないのよ。あの男に復讐するまでは。あの男、そう私を殺した男。

しかし、マリアの魂はもう川を渡りかけていた。そして果てしない死の世界へと誘っていく。

マリアの家はアスンシオン市の郊外の比較的静かな住宅街にあった。すでに他界した祖父が建てた家を、父が改造したもので、こぢんまりとした平屋の家だ。玄関前にスペイン風の庭があって、花の好きな母がいろいろな草花を植えて、いつも何かの花が咲いていた。すぐ前に大きな邸宅があって、中国人の家族が住んでいる。静かなたたずまいの環境のいいところだったのである。

マリアは一人娘で、晩婚の両親からかわいがられ、何不自由なく育てられた。特に父親は一人娘のマリアを目の中に入れても痛くないようだ。めったに一人だけ置いて旅行に出掛けるような事はなかったが、今日はサンパウロで開かれる蘭の展示会にどうしても行きたいと出掛けて行った。帰ってくるのは四日後である。最近定年退職した父は、蘭に凝っている。いろいろな蘭を買ってきては自慢している。

母が一人になるマリアのことを心配して、母方の叔父のところへ泊まりに行くように言う。が、叔父のところは勤め先から遠いし、どうも人の家というのは落ち着かない。マリアは

「大丈夫よ。怖くなったら、クリスチーナに泊まりに来てもらうから」と言って母を安心させた。クリスチーナは一つ年下で、マリアの家から三軒目の家の娘でマリアとは幼友達である。   

一日中勤めに出ているマリアは、なにもかも母にまかせっきりで、料理はおろか、めったに茶碗も洗ったことがない。

でもこの日は母がいないのでスーパーで買い物して帰ってきたところだった。一人なのに肉やら野菜やら、少し買いすぎたようである。めったに野菜など買ったことがないので、分量も判らなかった。こんなことならもう少しママにお手伝いしとけばよかった。などと今頃後悔しているのである。

食事は外ですませてもよかったのだが、この近くに手頃な食堂はないし、一人で外食に遠くまで出かけるのは億劫だった。スーパーでも出来合いのお惣菜は売ってはいるが、あまり好きではなかった。それに今夜は何故か料理をする気になっていた。

車を車庫に入れて、玄関の鍵を開けて中に入ろうとした時である。背中に人の気配を感じたかと思うと、いきなり強い力で背中を突き飛ばされた。マリアはドンと突き飛ばされて、開けたばかりの、玄関のドアから、たたらを踏んで、踊るように家の中に走りこんだ。背中を突かれたので、上半身のほうが先に行って重心を失い、うつぶせに床の上に倒れてしまった。左手に持っていたスーパーの袋が前に飛んだ。袋が避けて野菜が飛び出す。玉葱が一つコロコロと隅のほうへと転がっていく。マリアは一瞬それを目で追う。カレーライスになるはずだった玉葱。

何が起きているのか、これから何が起きるのか解らなかった。ただ怒涛のように押し寄せてくる恐怖に、逃げ出さなければいけないことは判った。

男は近くで待ち伏せていて、車庫の扉を開けた時、忍び込んで来たのだろう。車庫の扉は鉄柵になっていて、リモコンで開閉できるようになっている。扉を開けると自動照明が点いて、パッと明るくなるのだが、何の警戒心もないマリアは周りを見回すこともなく、レジ袋を提げて、少しモタつきながら玄関の鍵を開けたのだ。

男はゆっくりドアを閉めて、鍵をかけた。その隙に、マリアは起き上がって炊事場の方へと走った。こうゆう時は、神経は凍りついてしまっていても、身体の方は正確に行動するものだ。

食堂の椅子にぶつかった。椅子が大きな音を立てて横倒しになる。

ドアの隙間に月明かりなのか明かりが差していて、ドアの位置がすぐにわかった。飛びつくようにしてノブを掴むと、ドアを開けようと、ガチャガチャと上下に動かした。しかし鍵のかかったドアは開かない。父からいつも戸の鍵は戸につけないようにと言われているので、炊事場の戸棚の引き出しに仕舞ってある。それをとりに行く暇はない。

男は玄関の灯りをつけ、リビングを通ってゆっくりと炊事場へと近づいてくる。玄関の灯りで、薄明るくなった炊事場を見まわし、電気のスイッチを押した。

マリアは叫びそうになった。天井からぶら下がった、蛍光灯が炊事場の狭いスペースを鮮明に映し出した。

マリアには、住み慣れている我が家なので、暗い方が有利だったのだが。

背中に男の視線が射るように感じられる。恐怖で足がガクガク震え、唇のあたりがこわばってくるのがわかった。ほとんど正常心を失いかけていた。それでもなんとか正気を保ちながら、流しまで走ると、包丁立てに差してあった包丁を掴む。いちかばちかだった。包丁を両手で握り、くるりっと向き直った。

「あっ!」マリアは小さく叫んだ。そして「あんたはカルロ!?」

顔見知りの男だったので、少々余裕が出て来た。

カルロは中肉中背で年の頃は三十五、六だろう。浅黒い堀の深い顔立。狡猾そうな目が少し笑っている。マリアには自分をあざ笑っているように見えた。そんな包丁で俺が殺せると思ってるのか、と言っているようである。

カルロは太い眉を吊り上げるようにして、マリアの持っている包丁の刃先に目をやりながら

「そうだよ。お前に告げ口されて店を首になったカルロだ。仕返しに来たんだ」

「仕返しに来たって、あんたが悪いことをしたんじゃないの。店の品物をごまかして持ち出しておきながら、なによ!逆恨みじゃないの!」

もう、一月ほど前のことである。

マリアの勤めている店は、小間物の卸問屋で、品物の箱がいつも山積みにされている。

この日、伝票にない品物の箱を運転手のカルロが運び出すところを、マリアは見てしまった。すぐに支店長に報告した。カルロはこの店にきてまだ一カ月ぐらいしか立ってなかったこともあって、その場で即座に解雇された。店を出るとき、マリアの顔を睨みつけていったのを覚えている。入店して間もないのに、品物を盗むということは、方々で盗みを働いてきたのだろう。

ろくな奴じゃないわ。こんな虫けらみたいな男に殺されてたまるもんですか。  

それに私は、まだ若い二十三歳のピチピチした女の子よ。美人で頭がよくて、私が死んだら世界中の男が泣くわ。などとマリアは死の瀬戸際に立っても女のプライドだけは捨てられないのだ。

カルロはまだ殺すなどと言ってないのだが、マリアは殺される、と思っている。

両手で包丁を握り締めて、血走った目をカルロに向けた。炊事場に鏡がなかったからよかったようなものの、鏡を見たらマリア自信びっくりして腰を抜かすほどの形相だった。こんどはカルロの方が慌てた。思わず後退りして、腰のピストルに手をかける。そして広げた左手を突き出して

「お、おい、ちょっと待て!」と言ったのだが、マリアの高ぶった耳には入らなかった。

窮鼠ネコを噛むで、どうせ自分が死ぬならお前も死ねと、無我夢中でカルロ目掛けて突進していったのと、銃声がなったのとほぼ同時だった。 


カルロはスラム街の片隅に、馬のように顔の長い女と同棲していた。家のすぐ裏が幅一キロほどの大河で、雨季になって、増水してくると引っ越さなければいけないような所だ。ここら辺りは番外地で、トタンやポリ袋の屋根、空き箱の板切れやダンボール、ビニールなどで囲いをして、雨露を凌ぐだけの粗末なバラックが、ほとんど水際までひしめいている。

河辺は砂浜のように浅瀬になっていて、海のようである。

子供の泣き声。女の金切り声。裸足で走り回る子供達。その子供達とじゃれあう何匹かの犬。河辺の砂浜で子豚が三匹、鼻先を水につけてえさを漁っている。

夕方になると一段高い市内から、急な坂道を下って、仕事を終えて帰ってくる人達でいっそうにぎやかになる。

その下り坂のところで、もうすでに酔いの回った、白髪の爺さんが、酒瓶を振り回しながら、帰ってくる人達に、わけの分からない卑猥な罵声を浴びせかける。

その夕暮れの喧騒の中を一台の軽トラックが水溜りの泥水を跳ね上げながら、狭いスラムの道を下りてくる。カルロが運転する軽トラックである。家と家の間をやっと通れるぐらいだ。このスラムに軽トラックが入ってくるなどめったにない。さっきの酔っ払いの爺さんが、両手を広げて軽トラックを止めようとする。右手には酒瓶がぶら下がっている。

カルロは

「やいやい、爺さん。どかないと、跳ね飛ばすぞ」

ブレーキーを掛けながら爺さんの胸元まで、軽トラックの鼻先を突っ込んでいった。さすがの爺さんも後ろへよろけながら道の脇のほうへ寄った。すれすれに軽トラックは河のほうへと下っていく。

おりしも河に沈みかけた太陽が、一本の光の柱を水面に映し出していた。

黄金色の漣が揺れて光がはじける。

スラムにはこの美しい光景を称える者はいない。今日一日生きることが精一杯なのである。

カルロはこのスラムの一角に、馬のように面の長い馬面の女と同棲していた。

どうせまともに働いていないのだから、この馬面の女に食わしてもらっている、紐みたいな存在なのだろう。

もっとも、アスンシオンから三百キロほど離れた村から、先に来ていた馬面の女のところへ、カルロが転がり込んだのである。

女は病院の清掃員で朝早く出かけて行って夕方五時過ぎには帰ってくる。今日も他に用事がなければ帰ってきているはず。軽トラックは家の前に着いた。ほんとに家の前で軒下に車が横付けになっている。カルロは車から降りずに、クラックションを鳴らした。

軒の低い小さい家の戸口から、馬面の女が頭を下げるようにして出てきた。

「あら、あんたどうしたの?車なんか」

「こんどのパトロンは車まで貸してくれるんだ。どうだ、これでちょっと何処かへ行かないか?」

「何処かへって?なんか美味しい物でも奢ってくれるのかい?」

「ああ、今日はちょっと景気がいいんだ。奢ってやるよ」

ふん、どうせ売上でもごまかしたんだろうけど、まあ、いいやこんなことはめったにないので、

「嬉しいね。じゃあ、ちょっと待ってて」

馬面の女は精一杯のおしゃれをして、車に乗りこむ。

軽トラックはガタゴトと急なでこぼこの坂道を登っていく。車の車体の左右が上がったり下がったりして、女は慌てて頭の上にあるグリップ(取り手)をつかむ。

馬面の女が、

「それにしても車まで貸してくれるとは、いいパトロンだね」

「後ろの荷台にはもう品物が積んであるんだ。明日の朝早く持っていってくれって言うので、じゃ家に持っていって、家から真直ぐ行くって言ったら、それでいいって言うんだよ。俺のこと信用してんのかね?」

「だいたいあんたを雇うんだから、間抜けだよ」

「何だ!その言いかたは!」

「だってそうだろ。今まで何回仕事換えたんだい。ちょっと働いては盗みをやって追い出される。手癖の悪いのはなおらないね」

「生まれた時から手癖が悪く、だハハハ」

「まったくいいかげんな男だよ、あんたは」

「で、お前はどうなんだ?」

「私は真面目だよ。少なくとも、あんたよりはね」

「それはそうと、何処で食べようかな。何、食べたいんだ」

「何でもいいよ。焼肉にしよう。車あるんだし少し遠いところへ行けるじゃないか。どうせガソリンだってただなんだろ」

「そりゃそうだ。店の金でガソリンを入れたんだからな。じゃ少し郊外の涼しいところで焼肉でもいただくか」

いつの間にか車はアスンシオン市内の舗装道路に出ていた。市内の商店街はもうシャッターが閉まっていて通行人も少ない。最近物騒なので早々と店仕舞いをしてしまうのである。バスの停留所には何人かの人が固まってバスを待っている。

しばらく走ると複線の大通りに出た。真ん中にラパチョ並木の中央分離帯があって、街灯が煌々と明っている。交通量が多くなった。この大通りは郊外に抜ける幹線道路で、市内から車がどんどん流れ込んでくる。

カルロの運転する軽トラックも車の流れの中に入る。郊外へ向かって、車を飛ばした。

ちょうど交差点の信号待ちに着いたときである、カルロが素っ頓狂な声を上げた。

「ひえぇ~!?」

馬面の女は驚いて

「何だよ。びっくりするじゃないの、気色の悪い声だして。十三日の金曜日じゃあるまいし。ジェイソンでも出たのかい!?」

「で、でたんだよ!俺が殺した女が!このフロントガラスに映ったんだ!?」

「えっ!殺した女!?あんた人殺しまでやったのかい!?」

馬面の女は驚いて目を吊り上げた。

カルロは、

「いいや、まだ死んではいないそうだ。入院してるそうだ」

「死んだかも判らないんだろ。どうして殺したりしたんだい?」

「正当防衛だよ。あいつが包丁を持って飛びついてきたんだ」

「正当防衛?包丁?カルロ、その女の家にはいったんだろ?」

「ああ、俺が盗みをやったのを支店長に訴えた女だ。ちょっと懲らしめてやろうと思ったんだが、気の強い女で包丁持って俺に向かってきやがった」

「それでピストルで撃ったのかい?」

「そうだ。撃つつもりはなかったんだ。少し小遣いでも戴こうと思っただけなんだ。あの女が悪いんだよ。包丁なんか持って向かってくるから」

「悪いのはあんただろう。何が正当防衛だよ。人の家に入っておきながら。それでいつやったんだよ?」

カルロはちょっと考えるようにして

「え~と、金曜日の夜だったな」

「金曜日って、もう今日は月曜日だよ。どうしてすぐに逃げなかったんだい?」

「すぐに逃げたら、かえって怪しまれるじゃねえか。それに逃げるたって、金もいるし車もいるよ」

「そりゃあ、まあ走って逃げるわけにはいかないだろ」

「だろ。だからこの車借りてきたんだよ」

と、カルロは得意気に言う。

ろくな男ではないと思っていたが、人殺しまでやるとは、馬面の女は背中の辺りがぞぞっと寒気がしてきて、

「ちょっと、止めて」

「何するんだ!」

「何するんだって、降りるんだよ」

「降りる?」

馬面の女はしゃべらなくなった。女は逃げることだけを考えていた。早く逃げ出さないとこんな男と関わり合っていたら、いつ自分も殺されるかわからない。

カルロは、なぜ女が急に降りると言い出したのか深く考えなかった。それより車が多い。乗用車が軽トラックの前に割り込んできた。何だよ。何でこんなに車が多いんだ。そうか時間が悪かったな。時計を見ると七時をまわっていた。皆、ちょうど仕事を終えて帰る時間帯である。帰宅ラッシュである。ここは電車などないので、自家用車かバスなので道路が混雑してしまう。

そのうちまた信号待ちに来た。馬面の女は車が止まるとすぐにドアを開けて降りた。

「じゃ元気でね」

と、ちょっと手を振って。

カルロは慌てて止めようとしたが、もうどうにもならない。ハンドルを握ったまま、もごもごと腰を浮かして女が下りたほうを除き見る。後ろの車がクラックションを鳴らす。いつの間にか信号は青になっていた。

あの馬面、俺と五年も同棲してるというのに、こんなことで逃げ出すつもりか。カルロは殺人などと、とんでもない事を仕出かしておきながら、こんなこと、なのである。

まだ正確には殺人は成立していないのだが。

あの夜、胸から血を噴いて倒れたマリアを見て、さすがのカルロも仰天してすぐに家を飛び出した。ピストルで射撃はしたことはあるが、人を撃ったのは初めてだったのである。こんな男に何人も撃ち殺されたのではたまらないが、カルロは動転してしまって、前の玄関から出て、鍵のかかっている表門の扉を乗り越えて道へ飛び降りた。その際、物音を聞きつけて、やって来た隣の親子に見られてしまった。年寄りの婦人が物音を聞いて、息子を連れて見に来たのである。暗くて顔は見られなかったと思ったが、背格好などから割り出していって、マリアが勤めていた店に問い合わせてみて、一月ほど前にやめたカルロじゃないかということになった。採取した指紋と照らし合わせてみて、まず間違いないと言うことになって、もうすでに、指名手配になっていたのだが、カルロはそれを知らなかった。

くそあの女、いったん家に帰ってこっぴどく叩きまわしてやる。どこかここら辺からUターン出来るはずだ。ときょろきょろと薄暗い道路脇を見ながら車を走らせていた。

と、道路警察が車を止めて取り調べをやっているのが見えた。とっさにカルロはまずいと思った。引き返さなければと思ったが、後ろから車が詰まっていてバックも出来ない。どの車も止められて、後ろのトランクまで開けて調べられている。まさか俺のことを調べてるんじゃないだろうな。ちらっとマリアの家の表門の所に居た二人のことを思い出したが、いや、暗くて俺の顔は見えなかったはずだとすぐに否定した。俺のことはまだ判ってはいないはずだが。  

そろそろ警察の手が回ってくると思ってこの車を戴いてきたんだ。車を持っていけなどと言われたというのは嘘で、荷物を運ぶふりをして、そのまま家に帰ってきたのである。それで馬面の女と逃げるつもりだったのだが、人を撃った事は言ってなかったので、ついつい焼肉でもと言うことになってしまった。もっとも焼肉を食った後は女と二人でずらかるつもりだった。どこへ逃げるかまではまだ考えてなかった。

車は道路警察の調べで止まってしまって、なかなか進まなかった。カルロはいらいらしてきた。後ろでクラックションが鳴っている。いらいらしているのは、カルロだけではないらしい。

並木を隔てた対抗斜線は、車がスピードを上げて通り過ぎて行く。市内へ入るのは問題ないようだ。並木が植わっている高さ二十センチ幅一メートル程の中央分離帯を乗り越えて対抗斜線に出ることはまず不可能だった。無理に乗り越えられないこともないが、そんなことをしたらすぐに、道路警察が来るだろう。

もし指名手配になっていたら、どうやって逃げ出そう。調べの終わった車は逃げるように走っていくが、順番待ちの車は詰まってしまって、身動きできない状態である。自分の番が来たら思いっきり車をふっ飛ばして逃げるよりほかないな。

順番が回ってきた。窓越しに若い警察官が身分証明書を出せと言う。カルロはカバンから出すふりをして、思いっきりアクセルを踏んだ。

「うわぁ!」と、若い警察官が車に跳ねられそうになって、後ろへ飛び退った。

びっくりした他の警察官が拳銃を構えて走り出す。カルロの車に狙いを定めて、三発ほど撃ってきたが、どれもあたらなかった。

カルロは後ろには目もくれず、車を飛ばせるだけ飛ばして、逃げ切ったように思われたが、そのうちサイレンの音が近づいて来た。

「くそぅ」アクセルをいっぱいに踏みこむ。

と、少し左へカーブになったところにさしかかった。慌てて左へハンドルを切ろうとしたが、その時すでに遅く、中央分離帯に植わっている、並木に激突した。カルロの身体は安全ベルトを引っ張って前のめりになり、フロントガラスに頭を打ちつけて、そのまま動かなくなった。

カルロは三途の川の前にいた。この川をもう渡りかけていた。この川の向こうで、天国か地獄か裁判を受けるのだろうが、ここではいい訳もごまかしも通用しないだろう。

冗談じゃないぜ。俺はまだこの川は渡らないぜ。と、引き返そうとした。

すると、何処からかマリアの声が聞こえてきた。

「とうとう復讐することが出来たわ。これで思い残すことはないわ」

「なに!俺を殺したのはお前か?」

「そうよ、私よ。復讐よ」

「何処だ!何処にいるんだ?」

「あなたには私は見えないわ」

「お前には見えるのか?」

「見えるわ、私には世の中のすべてが見えるのよ」

「さっき、思い残すことはないって言ったな。それはどういうことだ?」

「私は今死の世界にいるのよ。死の世界に居たからこそ、復讐することが出来たのよ。私の望みがかなったってことよ。もう死の世界に思い残すことはないわ。こんどは生還して生を充分に満喫するのよ」

「そうか、お前はもう死んでるのか。死の世界から俺を呼んだのだな」

「そうよ。私が死んでるって、あなたが一番よく知ってるはずよ」

カルロは、そんなバカな。死んでる人間が復讐など出来るはずがない。しかし、現に俺は死の一歩手前にいる。やっぱりこの女に殺されたのか。いや俺は運転を誤って死んだんだ。いやまだ死んじゃあいない。

「なに!俺はまだ死じゃあいないぜ。このとおりだ!」

と、重量上げのように両腕を持ち上げて見せた。

「でも、あなたはもうすぐ死ぬのよ」

「何故だ!?」

「お医者さんが言ってたわ。もう手の施しようがないって。あなたは並木の大木にぶつかった時、頭が振り子のように前後に動いて、首の骨が折れてしまったのよ」

「何だと!」

カルロは首のほうに手をやる。そうか、俺は首の骨が折れて死んだのか。と、なおも首のほうを撫で回す。

それを見てマリアが笑いながら

「首と胴が離れてるとでも思ってるの。死の世界に病人や怪我人はいないわ。ここへ来るまでに皆修復されてしまうのよ」

そうか、そういうことか。生の世界では俺の首の骨が折れてるのか。もう駄目だ。と、カルロはガクっと肩を落とした。そして半ば諦めたように、

「そうか俺はもう駄目なのか?」

急に張り詰めていた生への執着が薄らいでいく。生きることを諦めたら、死しかない。

それに反してマリアは、これは駆け引きなのだ。死の世界から生還するための。ここで弱腰になってはいけないわ。力を抜いてはいけない。死の世界から魂を呼び戻さねばならない。現実の世界に魂を呼び戻すのはマリア自身なのである。

「私は死なないわよ。いえ、貴方の生命のエネルギーを吸収して、私は生きかえるのよ。貴方のような害虫は世の中のためにも、生かしてはおけないわ」

「なに!では俺はお前の代わりに死ぬのか!とんでもねえ。お前なんかにエネルギーを吸収されてたまるかってんだ」

「いくらあがいても無だよ。私には善と言う味方がいるわ。善は私を防禦してくれる。死の世界には悪はないのよ。貴方の味方はどこにもいないわ」

とんでもない女をやっちまったもんだ。とどのつまりは俺のほうが殺された。いや今殺される。カルロは、あの夜あんな気を起こさなければよかったんだ、とやたら後悔し始めた。

「判った。許してくれ。俺はあの日お前の両親が、旅行に出るのを偶然見てしまったんだ。それでマリア一人だと思って、つい変な気を起こして。でも殺すつもりなどなかった」

「じゃあ、どうするつもりだったの?」

「脅かして、少々金でも貰おうと思っただけだ」

「あなたは人の家に入ったのは、初めてではないでしょう」

「うっ」とカルロが口篭もっていると、

「もう調べはついているのよ。空巣は常習犯よ。あなたのしたことはみんな判っているのよ。あんたのような悪党は地獄に落ちるといいわ」

「そうか、全部調べられているのか。だが、せめて天国へ行かしてくれ」

カルロは観念したように言った。

「あなたは天国へ行く資格はないわ。地獄へ落ちるだけよ」

「俺のエネルギーでお前は生きかえるんだろ。俺が変わりに行く事になる」

「虫のいい話ね。さんざん悪いことをしておきながら、天国へ行きたいなんて」

「俺は五歳の時母と死に別れ、十歳の時父に捨てられた。ひもじい思いをして、盗んででも食べなければどうすることも出来なかったんだ。俺の人生其のものが地獄だった。死んでまた地獄へ行ったんじゃ、あんまり可哀想じゃねえか」

地獄には閻魔大王がいて、太いペンチで舌を抜かれたり、碾き臼で腹を碾かれたりするということを思い出した。カルロが悪戯すると、近所にいた伯父さんがそういって脅かしていたものである。カルロは地獄などあるものかと、そんなことは信じてなかった。しかし今は本当にあるような気がしてきた。実際に自分は地獄へ落ちようとしている。

マリアは

「そう、よくある話ね。でもあなたの行くところはもう地獄しかないのよ」

「でもお前は俺のエネルギーで生き返るんだろ」

「まあそういうことになるわね」

「じゃ、俺はお前の代わりに天国へ行くよ。マリアは天国へ行く資格があるんだろ」

「もちろんよ。私は何も悪いことはしてないわ」

「ではおれに其の資格をくれ。その代わり今、俺の持っているエネルギーのすべてをやる」

カルロは懇願するように言った。

「わかったわ、では天国へのパスポートあなたに譲るわ。私はパスポート貰うのは何年も先ね。天国へ行ったらあなたも神様だわ」

「俺のこと誰か拝んでくれるかな」

「拝んでくれるでしょう。どんな悪党でも魂は清らかなものよ。あなたが死んだら魂しか残らないのよ」

「おかあ、俺も天国へ行くよ。南無阿弥陀仏」とカルロ自ら手を合わせた。

マリアが撃たれてから五日目の朝が白々と明けようとしていた。

マリアの口元が動いた。母親が「マリア、マリア、気がついたのね」両肩を抱えるようにしてマリアの胸に頬を埋めた。

父親が、医者を呼びに行く。病室には救急のブザーがあるのだがそんなことには気がつかない。戸をあけて外へ飛び出していった。

知らせを聞き、病室へ飛び込んで来た医者が興奮を押さえきれないような表情で言った。

「マリアさん気が付かれたようです。驚きました。大した生命力ですよ」

マリアの父母は「マリア」と叫びながらベッドの横へひざまずいた。

母親が「マリア助かったのね」と泣きながら、薄っすらと目を開けたマリアの手を握り締め頬擦りする。父親も目を赤くして覗きこむ。

カーテン越しに朝の光が差し始めていた。父親がカーテンを開けると、マリアのベッドにも朝の柔らかい日差しが流れ込んできた。マリアは眩しそうに窓のほうを見る。庭の新緑が目に沁みるようである。雀が一羽巣作りをするのか、枯れ草を加えて飛び立っていった。いつの間にか春になっていたのである。

ドアがノックされて、厳つい顔の男が入ってきた。マリアの事情聴取に来ていた刑事だ。マリアが助かったことを聞いて駆けつけたのだろう。眼鏡の奥のするどい眼光が、今日は柔らかい。マリアが助かったことに、刑事も安堵しているのだろう。

「マリアさん助かったんですね。よかったですね。一生懸命看病されたおかげですよ」と、まずは両親に、マリアが助かったことへの喜びとねぎらいの言葉をかけた。

そして

「そうそう、お伝えしたいことがあります」と、さっき入ってきた戸のほうに目をやりながら

「さっきこの前の病室に事故で入院されていた患者さん亡くなりました」

「そうですか。お気の毒ですね」

父親があいづちをうった。

「それが、どうもマリアさんを撃った犯人のようです」

「本当ですかそれは…」

マリアの母も後ろを振り向く。

「頸部骨折でほとんど即死でした。まあ逮捕する手間が省けたのかもしれませんが。天罰が下ったと言うことでしょうかな」

と、刑事がマリアの方を見ながら訥訥と言った。

「そうですよ。天罰ですよ」

父親が力強く言う。

するとマリアの口が開いて

「でもカルロは天国へ行ったわ」

マリアが何かしゃべったわ。母親が嬉しそうにマリアの顔を覗きこんだ











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