第六節 西へ
「王を喪い都を奪われたイヴェール軍が、戦意を喪失して西方へ逃げたと思わせるなら今しかない」
壁の地図を背に、軍師エルネストは淡々と言った。
「敵の狙いが食料とイヴェール中枢の掌握であるのなら、ミュスカデルとヴェルト地方を占領した時点でスプリングは当面の目的を達成している。あちらとしてもミュスカデルの戦後処理に集中したい時期……こちらに継戦の意思がないと見れば、たとえ一時的でも追撃の動きは鈍くなる。ならばその間に、然るべき場所へ移り反撃の準備を整えればいい。あの火魔法への対策も含めてだ」
「対策というのは?」
「いくつか案はある。だがこの場で明かせると思うか?」
誰かが問うのに、エルネストは先程反発した兵士を――すっかり大人しくなって俯いていたが――一瞥して言った。
知らないものは、洩らしようがない。敵の切り札に対抗しうる手段となれば、秘匿するのは当然だ。勿論それが、士気を維持するためのハッタリでないとは、誰にも言い切れないのだが。
地図上に円で示されたアマンドは、海辺の要塞のようだ。ならば少なくとも、敵に背後を取られる心配はない。それはイヴェール側に取っても退路がないということに他ならないが、もっと言えば、後ろに守るものの心配をせずに徹底抗戦ができるということでもある。
上手くいけば反転攻勢に出られるが、失敗すれば袋小路の岬で叩き潰される――転戦は諸刃の剣と見えたが、ここに留まり続けるのはそれ以上に不毛ということか。
思考は堂々巡りに陥っていた。それが最善と頭で理解しても、敵に背を向けるのには抵抗がある。それは何もリュヌ一人に限った話ではないようで、フォルテュナ、コレットは勿論、ジルやバティスタも複雑そうな表情を浮かべていた。ベルナールだけが顔色を変えず、壇上の軍師を見詰めていた。
「……家族を残してきた者も、仲間を殺された者もあるだろう。敵を目前にして背を向けることに、抵抗があるのは理解している」
進行を軍師に任せていたセレスタンが、口を開いた。
「それは君達が、何よりもミュスカデルとイヴェールを想ってくれていることの証だ。けれど、これはもう、がむしゃらに立ち向かうだけで勝てる戦いじゃない。だから――」
「セレス、もう結構ですわ」
凛とした声が、セレスタンの演説を遮った。護衛の手を払ってつかつかと進み出たのは、皇女ベアトリスだ。思わぬ展開に、リュヌは目を見開いた。
「わたくしから、お願いいたします」
皇女はセレスタンの隣に並ぶと、演壇に身を乗り出した。誰もが少なからぬ驚きを持って、その行動を受け止めていた。何故なら在りし日のミュスカデルに見た彼女は、進んでこの場に首を突っ込むような人間ではなかったからだ。
リュヌ一人が、妙に納得した気分で壇上の少女を見詰めていた。曇りのない青の瞳には、皇女としての確固たる意思が燃えている。
「父は……皇王ファブリスは、あの夜、わたくしの眼の前で首を刎ねられました」
思い出して気分が悪くなったのだろう、ベアトリスは掻き毟るように、花色の衣の胸を掴んだ。それでも、演説を止めようとはしなかった。
「わたくしは愚かでした。あなた方の痛みも知らず、のうのうとしていた。そんなわたくしが――今更何をと思われることでしょうが――」
そこまで言って、ベアトリスは首を垂れた。悔恨と自責の中に、続く言葉を探しているかのようだった。しかしやはり、止めようとはしなかった。
「喪ったものは大きく、わたくしとてこれ以上は喪いたくありません。けれどいつか取り戻すためには、決断を下さねばならないこともあります。再びミュスカデルに戻る日のために必要ならば、寄り道も回り道も敢えていたしましょう」
不安と動揺にざわついていた室内は、いつの間にか静まり返っていた。彼女の一言一言に、誰もが一心に身を傾けていた。その空気を肌に感じるのか、ベアトリスは一つ大きく深呼吸し、そして続けた。
「西の果てに希望があるというのなら、わたくしは信じます。あなた方と同じ場所に立って、抗います。ですからどうか、一緒に信じては下さいませんか?」
たとえそれが、ゼロを一にするだけの微かな光でも。
半ば叫ぶように訴えて、皇女は演壇に爪を立てる。白い肩は緊張に震えていたが、その双眸は真っ直ぐに臣下達を見据えていた。
どこからともなく、手を叩く音がする。
それは息をする間に広がって、割れるような拍手の中である者は跪き、ある者は祈りを捧げた。安堵の余り瞳を潤ませて、皇女は高らかに告げた。
「ありがとう――この先何があったとしても、わたくしは、あなた方と共に戦い抜くことを誓いますわ!」
演壇の後方で、フレデリックはずれた眼鏡を直すのも忘れ、皇女の演説に聞き入っていた。半ば驚き、半ば素直に感心して、ほとんど無意識に呟く。
「姫様に演説の才能がおありだったとは、意外ですね」
「いや、普段が普段な分よく聞こえるだけだ」
辛辣な言葉を吐いて、エルネストは底の深い深緑の瞳を聴衆に向けた。だが経緯はどうあれ、流れとしては悪くない――離反者に対し厳しい態度で臨むことは必要だが、人間というものは何事も強いられれば反発する生き物だ。ベアトリスという御旗の下、兵達が自発的に団結できるのならそれに越したことはない。
「フレデリック」
「はい?」
「この戦い、勝ちに行くぞ」
短く告げて、軍師はコートの裾を翻した。後は任せるとだけ言い残して、悠々と広間を後にする。
本当に人使いの荒いと一人託ちつつも、フレデリックは自然と頬が緩むのを感じていた。あの人がそう言うのなら、勝利への道は開かれているに違いないのだ――後はその道をいかに進むか、それだけに過ぎない。
「では、この後の動きについて説明します」
続く説明を聞きながら、リュヌは奇妙な高揚感を覚えていた。
決して楽な道のりでないことは、分かっている――しかし今度は、敵に追われて逃げるのではない。イヴェールは自らの意思で、新しい一歩を踏み出すのだ。