遺産Ⅵ
「タバサ先生は俺が背負う」
アーネストのその言葉に、エフィは何か言いたげな顔をしてアーネストを見つめたが、何も言わずに一回うなずいた。
何を言いたかったのかはアーネストにもわかる。
認めたくなかったのだ。
タバサが死んだことを。
だが、この炎の中、ぐずぐずしていたら死人がさらに二人増える。
「エフィ、だったな。これを使え。そんな燃え易いひらひらの服よりましだ」
アーネストは、エフィに濡れたジャケットを渡すと、タバサを背負った。
そして、ドアを開けようとした時だった。
「あ……アーネストさん」
エフィに呼ばれ、振り返ると、エフィがハンカチを差し出していた。
煙を吸わないように気を使ってくれたのだ。
「ありがとう」
アーネストはそういって受け取ると、そのハンカチで口元を押さえた。
女の匂いがするな、と思ったがそれは敢えて口に出さなかった。
そんなこと言って変態扱いされるのは、トーレスだけで十分すぎる
アーネストが校長室のドアを開けると、廊下は煙で充満していた。
予想していた以上に火の回りが速い。
アーネストとエフィは煙を吸わないように身を低くして走り、階段を駆け下りた。
一階に降りたところで、アーネストは、
「エフィ、先に避難してきてくれ」
と言って、校舎の出口を指差した。
「え、でも……」
アーネストの申し出にエフィは戸惑いを見せた。
寄り道をしている場合ではない火勢だからだ。
ぐずぐずしていたらあっという間に煙にまかれ中毒死になりかねない。
「トーレス先生がこっちの方で動けなくなっている。それを拾ってから脱出する」
「なら、私も行きます。これでも腕力には自信があります」
アーネストはエフィの申し出を断りたかったが、その真剣な瞳を見て、それはあきらめた。
エフィの瞳には揺るがない強固な意志がはっきりと窺えたからだ。
それを否定して、論争などしている時間などない。
「わかった。こっちだ」
アーネストはエフィを先導するように先ほどトーレスがいた方向に走り出した。
先ほどまでは比較的火の回りが遅かったその通路も今は炎の光で朱に照らされている。
深夜にも関わらず、まるで夕日に照らされているかのような明るさだ。
そんな中で、壁に寄りかかるトーレスの姿を見つけるのは容易だった。
だが、近くまで寄ってみると、その姿にアーネストは言葉を失った。
先ほどまでの僅かな炎の光ではわからなかったことだが、朱の光でも覆いきれない禍々しい紅で全身が染まっていたのだ。
そして、かっと開かれたままの瞳は天を仰いだまま、まるで動きもしない。
アーネストはやりきれない思いをぶつけるかのようにぎりっと奥歯を噛んだ。
あの時、トーレスを外に運んで医者に見せていればあるいは助かったのかもしれない。
だが、トーレスはその選択肢を自分で握りつぶしたのだ。
タバサを気遣う故に。
「先生……」
立ちすくむアーネストに、エフィは、
「行きましょう。ここはもう危険です。残念ですが、トーレス先生は私たちでは運べませんし」
と言った。
アーネストがその言葉に振り返ると、エフィは今にも泣きだしそうな瞳で悔しそうに唇を噛んでいた。
彼女の冷静で沈着な言葉は彼女の本意ではないのだ。
冷静であれ。
そう自らを必死に言い聞かせているのだ。
泣きたいだろう。
叫びたいだろう。
だが、状況がそれを許さないと理解しているのだ。
「……わかった」
アーネストはそう言うと、トーレスの開いたままの目を手のひらでそっと閉じた。
そして、
「先生、申し訳ありません。墓前に最高のカルヴァドスを供えますんでそれで勘弁してください」
と言うと、立ち上がった。
「さあ、行こうか」
そう言って走ろうとするアーネストを、エフィが「まってください」と引き止めた。
「うん?」
アーネストが振り返ると、エフィが中央通路の向かいの第一校舎を指差した。
「あそこ、火勢が妙にないと思いませんか?」
「え?」
アーネストが来るとき通った通路だが、その時とあまり様子が変わったように見えない。
――うん? 様子が変わったように見えない?
それはおかしい。
第一校舎にも派手に炎が燃え移っているのに、ガラス越しに見える火勢がそこだけ弱いということは――。
「入り口の風除室、それと中央階段前の扉か」
「だと思います」
アーネストの言葉にエフィは同意した。
春先に吹く大風を防ぐために第一棟の正面は防風対策が施されているのだ。
気密を高いまま中が燃えていたとしたら?
「遠回りになるが、風上の東口から出て裏手の職員通用門から出よう」
アーネストの提案にエフィはこくりと頷いた。
そして、背中のタバサ校長を背負いなおして、東口目指して走り出してすぐのことだった。
どおん、と轟音を立て、突如第一棟の中央扉が吹き飛び、中央通路まで炎が噴き出すように猛烈な勢いで燃えだした。
後ろを振り返ってそれを見たアーネストは「やはり」と、呟いた。
「ええ、バックドラフトですね」
エフィも呟くように言った。
密閉され、酸素が少なくなって鎮火したように見えるところに急に酸素が流入すると、文字通り爆発的な炎上をする。
それが、バックドラフトだ。
もし中央通路を通り、中央扉に手をかけていたらその瞬間に二人は吹き飛んでいただろう。
エフィの慧眼だ。
二人は再び身を低くして走ると、東口から抜け出した。
ごうごうと唸る東風と、少なくとも4か所からの半鐘の音が響いている。
炎の勢いが比較的弱い学園の外壁際の通路を二人は走り抜けると、二人は職員通用門にたどり着いた。
その扉は古めかしい観音開きの金属製の扉で、小ぶりの南京錠がつけられていた。
「さがってろ」
アーネストはそう言うと、輪胴式拳銃をホルスターから抜いて、南京錠に向けて狙いを定めた。
銃弾一発。
それで、南京錠は破壊された。
観音開きの扉を開くと、裏道にも関わらず、人があわただしく走りまわっていた。
消火作業にあたっている男衆だ。
そのうちの一人が、アーネストを見るとぎょっとして立ち止まった。
「あんた! それ大丈夫か!」
「え?」
男の指差す先を見ると、白いシャツが血で染まっていた。トーレスの血だ。
「ああ、大丈夫だ」
「あっちの正門の方に医者が来ている。無理せず見てもらった方がいい。――うしろの嬢ちゃんも。顔色が悪い」
「ん、ああ、ありがとう」
「無理はするな」
男は顔の横に手を上げると、西の方へ走って行った。
アーネストはそれを見届けると、振り返ってエフィを見た。
「エフィ、今からタバサ校長の遺体を正門の医者か区の役人に渡して、すぐにこの街から離れるが、できるか?」
「え?」
エフィは驚きで目を見開いた。
「どさくさに紛れたい。細かいことを警察に説明しているだけで、足止めを喰らう可能性がある。下手をすれば月単位で」
アーネストのその言葉にエフィは言葉を詰まらせた。
確かにアーネストの言う通りに街が平静を取り戻したとき、どんな取り調べを受けるかは不明だが、簡単に済むとも思えない。
しかも、タバサの遺言のこともある。
ぐずぐずとはしていられない。
「わかりました。すぐ準備します」
「どこで待ち合わせる?」
アーネストは訊いた。
エフィは少し考えると、
「東区のラウカリア学園の前では?」
と言った。
「いや、あそこは多分西区からの避難してきた市民でごった返しているはずだ。となると、交通の規制がかかっているから車じゃ近寄れん」
「車……ですか、じゃあ、大通り沿いの……東区庁舎の前は?」
「大イチョウの木か」
「そうです」
エフィはうなずいた。
「一時間で来られるか?」
「三十分もあれば」
「わかったじゃあ三十分後に」
「では」
エフィは一言そう言うと、学園の北側にある寮に向かって走り出した。
「こっちも急ぐか」
アーネストはそうつぶやくように言うと、正門に向かって走り出した。