遺産Ⅲ
そして、トーレスの肩に手をかけて上半身を起こすと、衣服越しにぬるりとした触感を伴い手が湿るのを感じた。
「先生!」
炎の赤い光に照らされてもなおトーレスの顔は青白く見える。
相当の血が体内から失われている証拠だ。
だが、トーレスは震える手をアーネストの手に重ねると、
「俺は大丈夫だ。俺より、タバサ校長を助けてくれないか。わかっているだけで、賊が五人ほどいる」
と、気丈な態度を見せた。
その声はかすれ、かつてアーネストを怒鳴りつけていたころの迫力はない。
「そいつらがこの火を?」
アーネストの言葉にトーレスは首を横に振った。
「……いや、違う。だが賊の狙いはわかっている。タバサ校長だ。それに奴らはこの国の人間ではないらしい」
「それは?」
アーネストはその理由を訊いた。
「奴ら、一言だがアーレイというのが聞こえた」
「アーレイ?」
アーネストはその言葉を繰り返した。
この国の東方に位置するヴィンドライン国の言葉で急げの意味だ。
ヴィンドラインの人間が何故?
そう思ったが、アーネストは思索するのをやめた。
今はタバサ校長を救うのが先だ。
アーネストは、トーレスの手をぐっと握ると、
「必ずタバサ校長を救い出します。そして、ここに戻ってきますから」
と力強く言った。
だが、トーレスは、そのアーネストの意気込みを空かすかのように、
「この件が解決したら、この恩師様にマリティス館でもおごれよ」
と言ってにやりと笑った。
マリティス館とは、このあたりで最も高級な娼館だ。
「おごってくれるんじゃないんですか?」
「安月給の教師にたかる気か?」
トーレスのその言葉にアーネストは苦笑すると、「行きます」と言って走り出した。
そして、走りながらアーネストは内心「くそ」と毒づいた。
トーレスが命の危機に瀕してなお強がりでそんなことを言っていることと、それがわかってもすぐに救うできない己の無力さを呪うしかなかったのだ。
アーネストは二階へ上がる階段の踊り場まで駆け上がると、再びボルスターに手を伸ばして、輪胴式拳銃を取り出した。
この拳銃の弾の装填数は6、トーレスの言っていた賊の数は5以上。
一人一発で仕留めないといけない計算だ。
しかも、相手が銃を持っていた場合、一瞬で集中砲火の餌食になる可能性が大だ。
だが、今はそんなことを言っていられる状況ではない。
アーネストは銃を構えながらゆっくりと踊り場から二階に上ると、柱のかげからちらりと校長室の方向を窺った。
誰もいない。
――罠か?
そんな考えがアーネストの頭をよぎったが、その考えを振り切ってアーネストはゆっくりと足音を立てないように校長室に近づいた。
途中、燃えた木材が爆ぜて炎がパアンと音を立てたのにアーネストはびくりと体を震わせたが、炎の音と分かり、胸を撫で下ろした。
校長室の前について、アーネストは扉越しに音を窺うも、何も音は聞こえてこない。
――しかたない。
アーネストは覚悟を決めると、大きく深呼吸をして、ドアノブをつかんでゆっくりと回した。鍵はかかっていない。
そして、勢いよくドアを開け、半身を乗り出す形で校長室に入ると、あらんかぎりの大声で、
「動くな!」
と、叫んだ。
が、そこには校長を狙った賊はいなかった。
いや、正確にはいることはいた、
だが、賊と思しき人物は全員床に横たわってぴくりとも動かない。その体の周りには血だまりもある。
死んでいるのだ。
そして、タバサ校長も血の気を失った顔で来客用のソファに横たわっていた。その真っ白なドレスの胸元はバラのような鮮血で染まっている。
その前には一人の短い金色の髪の少女がしゃがんでいた。