沈黙の司書Ⅶ
「どうしたんですか? 急に」
第2応接室に戻ると、アンナが心配げに聞いてきた。
だが、エフィは「ええ、ちょっと確認事項が」と言うと、アンナの目の前のソファに座った。
続いて、アーネストも元いたところに座る。
それを確認したエフィは、
「さっそくですけどいいですか?」
と、アンナを見つめた。
「え? ええ」
先ほどまでの疲弊しきった様子から一変したエフィを見て、戸惑いつつ返事をした。
「少し主題からは外れる質問なんですがいいですか?」
「主題からは外れる……と言いますと?」
アンナは不思議そうな顔をする。
「アンナさんはジョージ・ロックフォードのヲンダリーガ村での虐殺について、それがあったと認識していますか?」
その問いに、アンナの表情が固まる。
「それは……」
「申し訳ありませんが、それはお答えできません」
表情をこわばらせたブライアンが強い口調で、割って入った。
「すいません。そういうことなので」
そう言ってアンナは口の端をひくつかせて笑った。
だが、エフィはそんな拒絶にあってなお、にこやかな表情で続けた。
「なるほど、ヲンダリーガ村での虐殺や略奪その他ジョージ・ロックフォードの蛮行は無いと認識しているわけですね。だから、さっき、ジョージ・ロックフォードの遺産を『ただの誤った風説』と断じることができた。略奪行為がないなら、それが元になった財など存在しようがありませんからね」
エフィの言葉に、アンナの顔色がみるみる蒼くなる。
それを見たブライアンは、更に語気を強めて、
「ですから、そのようなことについて話すことはできません」
と言って、エフィを見た。いや、睨んだと言ったほうが正確か。
それでも、エフィは涼しい顔をして続けた。
「ただ、そうだとしたら、妙なんですよね。アンナさん、あなたはシェリルさんの正当な後継者ですよね?」
その問いにアンナは横目で、ブライアンがうなずくの見て、
「そうです」
と答えた。
「しかし、あなたには姉に及ばない部分がありますね? 禁書も欠損がある」
エフィがそう言った瞬間、
「ありません!」
と、アンナは叫ぶように言った。
アーネストはそのやり取りを見て、
――姉という言葉を選んでコンプレックスを刺激してわざと怒らせたな。
と、思いながら顎をゆびでさすった。
事実、アンナの怒りにエフィの目がきらりと光る。
「失礼しました。――しかし、だとするとおかしいんですよね。ヴィンドラインの賊はシェリルさんの情報を元に、ジョージ・ロックフォードの遺産を目指し、タバサ先生にたどりついた。明らかにシェリルさんの情報にはアンナさんが把握していない情報があるわけなんですね。
そう――独自の研究成果とでも言いましょうか」
その言葉に、ほんの一瞬アンナとブライアンの表情が固まる。
だが、次の瞬間には、平静を取り戻したブライアンが、
「研究などというものは存在しません。もう一度言いますが、質問はお話しできる形のことをお願いします」
と、慇懃無礼な態度で言った。
エフィは、
「失礼」
と一言言うと、ちらりと横目でアーネストを見た。
予定通り。
そう言わんばかりだ。
アーネストはそれに小さくこくりと頷いて応じた。
この時、アーネストは平静を装っていたが、内心、なんてものを暴いたんだ! と、驚いていた。
特級司書は、あくまで司書であり、研究者ではない。
つまり、いうなれば、禁書の門番であり、それに特定の意思を以って触れることは許される立場にはない。
しかし、実際は何らかの理由で、禁書の研究は極秘裡に行われている。
そして、その研究は個人レベルではなく、大規模な組織的なものであるのは、ブライアンの反応から明らかだ。
さらに、この情報の流出によるトラブルから連なるタバサの死が、国により情報統制されたことをかんがみると、その研究の指示はこの国の最上層部から出ていることになる。
――まったく、大げさなことになってきたな。よりによってこの国そのものが障害か。
あきれたように笑うアーネストの頬に汗が伝う。
だが、一方のエフィは動じた様子もない。
本番はこれからだといわんばかりの表情で、アンナを見つめると、
「ところで、アンナさんは『貧困の相続』という概念をご存知でしょうか?」
と、エフィが訊いた。
「差別的な環境に置かれた人間の子供は、やはり差別を受け続け、子子孫孫の代まで抜け出せないような負の連鎖を被ること――ですよね」
と、アンナはその問いに戸惑いながら答えた。
「その通りです。私たちの恩師であるタバサ先生は、その『貧困の相続』を受けた子供たちをその負の連鎖から解き放つために腐心した方でした。
私もその恩恵を受けた一人で、もし聖アンドレアリアス学園が存在しなかったら、今習得しているような高等教育を受けることなど、夢のまた夢の話でした」
エフィはそう言うと、さびしげに視線を落とした。
その理想を追い求めた学び舎はもうない。
「その旨、聞き及んでおります。私の姉もその一人です。姉の援助を受け特級司書になった私も、間接的に恩恵を受けていると言えます」
アンナはそう言うと、小さくうなずいた。
「……」
ブライアンは無言のまま神妙な顔つきでアンナを見た。
エフィは、その二人をちらりと見ると続けた。
「私が住んでいたのは貧民街で、小さいころ、仲のいい友達がいました。私はいつも彼女のことを『ルー』と呼んでいましたが、本名では決して呼びませんでした。その理由は、彼女の本名には、『貧困の相続』が刻まれていたからです」
「名前に?」
アンナが首を傾げて訊いた。
「彼女の本名は『ルース』でした。L,O,S,Eでルース。意味はもちろん敗北です」
「何故そんな名前を……」
アンナは眉をひそめた。
エフィは小さく頭を横に振ると、続けた。
「わかりません。けど、ルーはいつだって笑って胸を張っていました。この名前は母親からもらった唯一無二の大事な名前だと。
けど、ほとんどの人は彼女の名前を見ると、途端に彼女に対する態度を変えました。親に学がなく、悪い出自を持つということがばれたからです。
彼女が如何に優秀な成績を取ろうと、それは変わらず、むしろ、生意気ということで迫害を受けた位です」
「差別……ですか」
アンナはそう言って眉をひそめた。
そして、エフィは視線を下に落としたまま、続けた。
「そして、遂には彼女は身に覚えのない盗みの濡れ衣を着せられ、『誅罰』という名の暴力と暴行を受け、死にました。
濡れ衣が晴れた後も、ルーを殺した少年たちは逮捕されることはありませんでした。
理由は、その程度のことで、警察は関わっていられないということでした。
表沙汰にはそう言いませんでしたけどね」
エフィはそう言うと、嘲るような笑いを浮かべた。
「…………」
「…………」
「…………」
その場にいた三人は言葉を継げなかった。
その苛烈な差別の現実は、目を背けたくなるも、まぎれもない真実だからだ。
「アンナさん」
無言の空間に突如、エフィの声が響く。
「は、はいっ?」
アンナはびくりと体を震わせて、答えた。
「タバサ先生はかつて改名をしたことがあります。おそらく、理由は、『貧困の相続』です。学園の代表として、世間と相対する時に、不都合だったのでしょうね。
アンナさんには、少々手間になりますが、その改名前の名前を検索して頂きたいのです」
と、エフィはアンナの瞳を見つめていった。
しかし、アンナは戸惑った。
「つまり、女性の名前を片っ端から検索せよ……と?」
「いえ、違います」
「違う?」
アンナは眉をひそめた。
「私たちにはヒントがあります。改名後の『タバサ』という名前です」
「……?」
「アンナさん、タバサとは、有色系に多い名前で、教育水準も高いとはいえない人に多い名前です。タバサ先生はそんな名前に敢えて変えたのです。
そこには明確な意思の存在を感じませんか?」
「確かに……でも、ある名前を特定するには至らないと思いますが」
アンナが言う。
しかし、エフィはその言葉を予想していたかのようにうなずくと、
「その通りです。しかし、これがタバサ先生の意思であるのなら、学園で長い間共に過ごしてきた私たちにはわからねばならないんです。タバサ先生が『タバサ』である理由は、私たちに注がれた愛そのものなんですから」
と、一気に言い放った。
そして、アーネストもエフィに向かってうなずくと、言った。
「そうだな。タバサ先生なら、いかに困っても、親のくれた名前を、その絆を、無下にはしないだろうな。そう考えると、答えは、一つしかない。改名前の名前は――」
「「タバサ」」
アーネストとエフィの視線と声が重なる。
「え? それは、どういうことです?」
アンナはきょとんとして、アーネストとエフィを交互に見つめた。
エフィは迷いない瞳でアンナを見つめると、
「スペルミス、です。タバサとは、ミトナ教の聖人由来の名前ですので、その正しいスペルはtabithaとtabathaです。
しかし、先生の母親は間違ったスペルで『タバサ』とつけてしまったのでしょう。
アンナさんには、それ以外の間違ったタバサと読める人名を検索してほしいのです。
さっき少々手間になると言ったのはそう言う理由です」
と言った。
「なるほど……わかりました。やってみます」
そう言うと、アンナは静かに目を閉じた。
長い沈黙の時間が流れる。
検索条件の複雑さゆえだろう。
エフィはその沈黙に、膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。
それはまるで、「ないはずがない!」という無言の叫びだ。
続く沈黙に、長いな、とアーネストが考え始めた時、アンナはゆっくりとまぶたを開けた。
そして、
「それはお答えできません」
と、言った。
それを聞いた瞬間、エフィは思わずもう一度ぐっと拳を握って天を仰いだ。
アーネストは顔をほころばせ、
「つながった」
と呟いた。
タバサのスペルの違いは、そのまま、内容の違いも指し示す。
シェリルが注釈書を作った際、スペルミスをされたタバサという少女と、改名後のタバサ校長の存在をつなげたのだ。
つながったのは、それだけではない。
アーネストとエフィの中にあったタバサの記憶と現実のタバサの人生が繋がったのだ。
私たちは間違いなくその教え子であった。
学園の存在が断絶した今、タバサとの絆が再確認できた感動は如何ばかりか。
そして、このことを以って、一つの事実が示されたことになる。
タバサとジョージ・ロックフォード、そして、ロナルド・ミラーの人生が交わる点に「遺産」の鍵があるということだ。
その鍵に辿りつくための道は既にある。
アーネストとエフィの胸の中に。
学園でタバサと過ごした日々と共に。
その記憶こそが道しるべだ。
後は、タバサ、ジョージ・ロックフォード、ロナルド・ミラーの経歴を重ね合わせ、最後にミトナ教のトマスという名の神父の教区で絞り込めばいい。
トマスという名は珍しくはない名前だが、おそらくは一点の場所に絞り込めるはずだ。
その一点こそが、目的の地だ。
幾多のトレジャーハンターが探し求め、未だ見つからぬジョージ・ロックフォードの遺産の在り処だ。