沈黙の司書
「アーネストさん、聞いておきたいことがあるんですが」
エフィはそう言うと、ミートローフを一切れ口に運んだ。
「うん、何だ?」
「このミートローフ実に柔らかいですね。もっとぎゅっと詰まった固いものを想像していたんですが、チカオウェノはさすがに本場。全然違いますね」
と、エフィは目を輝かせた。
「いや、これはチカオウェノの技法じゃないな。極東のものだ。あっちはナイフとフォークじゃなく二本の木の棒を使って食事をするから、それでも食べやすいように柔らかく成形してパンで焼いたんだな。シェフが昔料理修行の旅に出た時に学んだそうだ」
「なるほど、独自進化というものですね」
エフィはふむふむとうなずいた。
「聞きたいことってこれか?」
「え?」
エフィは一瞬固まると、顔を真っ赤にしてフォークとナイフを皿に置いた。
「す、すいませんっ! ミートローフの話じゃなくて……あの、その」
あわてふためくエフィを見て、アーネストは苦笑した。それほどまでにミートローフに心を奪われるとは、だ。
「ミートローフの製法ではなく……そ、その、向かう先です。パドスライを目指しているようですが、その目的をそろそろ教えていただけないかと」
エフィは、そう言うと、心を落ち着けるように、水をこくこくと飲んだ。
アーネストはそんなエフィを見て、苦笑した。
「向かう先は中央図書館だ」
「中央図書館?」
エフィはおうむ返しに訊きかえした。
そこに何があるのかと問うているのだ。
「レッドテープ・ブックってわかるよな」
「もちろん」
禁帯出図書だ。
本の背に赤いテープが張ってあるためレッドテープと呼ばれるのだ。
「それにレベルがあるのは?」
「もちろん。資料的重要度のレベル区分でしょう?」
レベル1が、図書館禁帯出図書。
レベル2が、所蔵庫禁帯出図書。
レベル3が非公開図書とされている。
このうち、レベル3は中央図書にしかなく、ほとんどが重要文化財、または、国宝指定がされている。
「もう一つのレベル区分は知っているか?」
「もう一つ?」
アーネストの言葉にエフィは眉をひそめた。
「要注意思想図書区分」
「! それは……」
エフィの眼光が鋭くなる。
「そう、その区分は法で禁止されている。しかし、裏区分ってやつが存在する」
「けど、図書は原則公開じゃないですか。レベル3の国宝ですら、複写を見ることはできます。けど、要注意思想図書というのは内容が公開されること自体を規制することが必要(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)じゃないですか。図書館が所蔵しながら内容公開を拒否することは、それ自体が違法行為ですよ」
「しかし、実はこの区分、半ば公然と行われているんだ」
「え!?」
エフィは目を丸くしてアーネストを見つめた。
図書館は蔵書から何からガラス張りの管理体制になっているのに、それは不可能だ。
ただ――
アーネストは微笑むと、
「特級司書の資格認定試験内容を知っているか?」
と、エフィに語りかけた。
「特級司書?」
司書は全部で四つの級がある。
まず三級からキャリアを始めた司書は、五年勤続すると、二級への試験資格が与えられる。そして、二級司書を十年務めると、一級司書への試験資格が与えられるのだ。
だが、特級司書はこのキャリアステップアップからはなることができない。
一人の人間が人生の内でわずかに二度、その挑戦が許される試験を突破したもののみなることができる。
世の秀才天才とよばれる人間のみが挑むにもかかわらず、その試験の合格率、わずかに0・03%。三千人に一人の割合でしか合格者がでない。
その試験内容は、学問的には一級官僚登用試験と大差ない難度であるのだが、特級司書がここまでの最難関たる理由は、人の種の極限まで記憶力が試されるためである。
「記憶力……」
エフィはそうつぶやくと、ある考えに思い至った。
普通ではありえない、まともじゃない結論。
「まさか、特級司書は……」
エフィは、そう言うと、ごくりとつばをのみこんだ。
「そう、特級司書はその存在そのものが蔵書なんだよ。その頭脳の中に数十から数百の本正確にを記憶している『生きている蔵書』それが特級司書だ」
アーネストの口から語られる衝撃の事実にエフィは言葉を失った。
ただ本でなければよい。
その単純にして大胆な規制に。
「まさか、禁書扱いされ、焚書されたために現存しないといわれた図書は……全て?」
「ああ、特級司書の頭の中にある。そして、それは口伝によって受け継がれている。あの大災厄をもたらすといわれる禁書ですら例外ではない」
「大災厄……禁書……まさか、あのイヴォニク聖典も……存在するのですか?」
「ああ、ある」
エフィはそれを聞いて、背筋が寒くなるのを感じた。
イヴォニク聖典とは、その解釈をめぐって、ウェルティス教諸派が激しく争い、聖なる衣から赤き滴が零れ落ちるほどと表現された残虐な殺戮を生んだ一冊の書物である。
一説には、一行の記述で千人が死んだといわれる程の禁忌中の禁忌である。
そのあまりの争いの凄まじさにウェルティス教諸派のグールー(指導者)が協議し、封印されたのち、その十年後に所蔵庫の火事で焼失した――ことになっている。
その内容が外に漏れたなら、世界規模の宗教戦争が再発することは必至だ。
イヴォニク聖典の存在自体がもはや災厄そのものであるといっても過言ではない。
「なぜそんなものを」
固まるエフィにアーネストは諭すように語りだした。
「叡智とは次の世代に伝わらなければ意味がないものだ。だが、今よいとされているものが、十年後、二十年後よいとされるかは別問題だ。逆もそうだ。今は批判の対象になっているものも将来は再評価されるかもしれない。時が経って評価が変わるものなどいくらだってある。だから、まとめてそのまま未来に託すのさ」
「たとえそれがいかなる毒を含もうとも……ですか?」
エフィは自らの言葉にぞくりと震えた。
「そうだ。人の叡智とは実にグロテスクなものでな」
そう言うと、アーネストは微笑んだ。
その笑みはどこかサディスティックだ。
エフィはその微笑みに肌が粟立つのを感じた。
人の叡智とは恐ろしく、
それを護ることもまたグロテスク。
それを理解したのに、なぜだろうか?
エフィは自らの体の中に炎のように熱く揺らめく何かを感じていた。
「楽しいだろう?」
アーネストは含み笑いを見せながら、エフィに言った。
「え?」
訝しがるエフィにアーネストは、鏡張りの柱を指差した。
エフィはそれをみて驚いた。
そこに映る自らの顔に、だ。
まるで、欲情に駆られたかのような下卑た歓喜の微笑みが映っていたからだ。
「エフィ、やはりお前もこっち側の人間だよ。物事の真理に触れることがなにより楽しくてしょうがない。そういう人間だ」
そのアーネストの言葉に、エフィは気づかされた。
「……そうですね。その通りです。今、気が付きました」
母のため、生活のため、と必死に学問に打ち込んできたのは、本当の理由ではなかったことに。
本当は、好きだっただけなのだ。
自らの未知が既知に置き換わるその快感にひたることが。
――私はなんて薄情な人間なんだろう。
エフィはそう思ったが、不思議と絶望や悲しみは浮かんでこなかった。
それどころか、まるで、真っ暗な道に光を照らされたかのような安堵に包まれていた。
いままで見えてなかった、いや、敢えて見ないようにしてきた本当の自分の姿が見えたことに喜びさえ感じていた。
エフィは救いを得たのだ。
この時、人生で初めての「未来」を垣間見ることが出来て。
エフィはグラスの水を、喉を鳴らして一気に飲み干すと、かんとテーブルに音を立ててグラスを置いた。
そして、アーネストの瞳を見つめると、
「前置きはわかりました。それで、いるのですね、特級司書に。ジョージ・ロックフォードにまつわる蔵書を記憶している方が」
と言った。
「その通りだ。今、公開されている情報でジョージ・ロックフォードの遺産が見つからないとなると、そこに辿りつくための情報は封印されていると考えた方が自然だ」
「しかし、特級司書は厳重に警備されていて接触すら困難なのでは? それに、不用意に内容を暴露することは職務規定違反では?」
と、エフィは眉をひそめた。
しかし、アーネストは不安などないかのように笑った。
「なに、旧友と飯を食うだけだ。その時に、つもる思い出話をすることまで禁止されているわけではないさ」
「知り合いなんですか?」
「かつての同級だ。もっとも、出来は天と地だったが」
「同級……ということは……」
かつて、聖アンドレアリアス学園にいたということだ。
そうであるならば、規則を度外視して、タバサの遺言のために力を貸してくれるに違いない――はずだ。
エフィは学園生の証である胸のペンダントを握りしめると、
「行きましょう、すぐに!」
と、力強く言って立ち上がった。
だが、アーネストは、
「落ち着け。それを食ってからでも遅くはないだろう?」
と言って、一口食べられただけのエフィのミートローフを指差した。
エフィは一瞬何か言いたげな表情をして、アーネストの顔を見つめた後、ちらっとミートローフを見ると、仕方ないといった様子で再び椅子に座った。
そして、エフィがミートローフにナイフを入れた時だった。
エフィのグラスが空だと気が付いたウェイトレスが水差しを持ってきて一礼をすると、エフィのグラスに水を注ぎだした。
が、ウェイトレスの手が震えて水差しとグラスが当たってがちがちと音を立てる。
「あの?」
と、不審に思ったエフィが声をかけると、
ウェイトレスは青い顔をして小さく「ひぃ」と悲鳴を上げた。
しかし、そのあと、すぐに我に返って、「し……失礼しました」と言うと、逃げるように去って行った。
「?」
「見たことなかったんだろうさ、許してやれ」
アーネストにそう言われて、エフィはようやく気が付いた。
「もしかして、目が?」
「ああ、眼鏡越しでもすごいことになっているな」
エフィの目はまるで瞳そのものが発光してるかのように、ぎらぎらと蒼光を放っている。
「どうしようもないんですよね。昂ると」
エフィは頬を赤らめて苦笑した。