第一幕 第七章 『終幕』
フィクション云々以下略
「んむぅ……お兄ちゃん遅いね……?」
「そうですねー、コンビニに行くだけにしては時間がかかっていらっしゃるようです。」
目を擦りながら眠気と戦うリンを傍目に、希理子はまったくワザとらしく見えない笑顔を浮かべる。
リンは彼が、今頃戦っているであろう事を知らない。
リンにそれを言えばきっと彼に付いて行こうとするだろう、という彼の思案の結果だ。
だがリンなりに何か違和感を感じているのだろう。
昨日なら既に熟睡していた時間帯で有るにも関わらずリンは睡魔に抗い続けている。
「リンちゃん、大分眠そうですが大丈夫ですか?」
「うーん……眠い……けど、もうちょっと……待ってるぅ……ふわぁぁぁ……。」
大きく欠伸をかいて目尻に涙を浮かべるリンの頭を希理子は優しく撫でた。
「……早く帰って来るといいですね。」
紡いだ言葉はリンに向けられて放たれたにしてはそれに相応する大きさを伴って居なかった。
つまる所それは自らに向けられた言葉であり、そこには希理子が抱くはずのない(・・・・・・・)不安という感情が確かに含まれている事には、希理子自信気付く事は出来なかった。
そこにあるはずの無い物というのは、案外見つけられない物なのだ。
そしてその事を違った形で実感している三人が居る事など、彼女には知るよしも無かった。
「おいおい……、冗談だろう……?」
そう呟いたのは陣型における先行偵察を担うトロイだ。
その発言は眼前にぽっかりと空いた草むらで巧妙に隠された穴の中でカラカラと音を立てて回る二本の円柱形のローラーの様な物を指している。
ただのローラーではない、その表面からは鋭く削られた木片が所々突き出している。
「ベトナム戦争で使われたブービートラップの一種だな。引っ掛かっていたら足がボロ雑巾みたいになってた所だ、比喩とかじゃなくな。」
そう呟くジニーの顔は笑っている様だが、微かに引き攣っている。
穴の端を踏んだ事で穴を塞いでいた枝が折れ、上に被さった木の葉や土砂が崩れたのは幸運だったと言う他無いだろう。
トロイも気を抜いたつもりは無かったが、穴の隠蔽の仕方が素人のそれとは思えない物だったために視覚ではとても判別できなかったのだ。
「少なくとも法律を守るとかそんなチャチな心構えじゃ無いってことか。」
ちなみにこういった殺傷を目的としたブービートラップを仕掛ける事はまごう事無き犯罪行為だ。
この前の学校でのトラップは電気を利用した物が主であり、その目的は殺傷というより対象の無力化に重点が置かれていたが、今回はどうやら殺傷を目的としている節がある。
「……刺の尖端が若干湿ってやがる。何か塗ってあるみてーだな。」
「うむ、殺しに掛かってきてると見て良いかもしれんな。」
アンジェが独白し、ジニーは息を飲みつつ呟く。
「ストップだ。」
再び進み始めて十秒もしない内にトロイが声を発する。
同時に歩みを止める残り二人に説明もせずに手ぶりで後ろに下がる様指示を出す。
二人が下がったのを確認し、トロイは少し後ろに下がると同時に、転がっていた小枝をその先の草むらに投げる。
宙を舞う小枝が、低い位置に張られた釣り糸に触れた瞬間、僅かな振動を敏感に感じ取り仕掛けが作動する。
草むらと木陰に隠された位置、一端は地面に刺さりもう一端が撓ったまま地面すれすれに固定された半分に割られた竹。
それが糸の僅かな振動で解き放たれ、一端が風切り音と同時に飛来し空を切った。
仕掛けが張られていた地点、丁度大人の背丈での胸部の辺りを通過する。
作動後、地面から生え揺れるその先端を見れば、例の如く鋭く尖った竹の棘がブラシの様に何本も突き出ている。
「次はスパイクボールもどきか。これも何か塗られている様だな。」
もはや驚きはしない、ただ今まで以上に警戒を強めるだけだ。
じりじりと、だが着実に前へ進んでいく。
それほど距離が無かったはずの草むらを十分程掛けて抜ける。
結局落とし穴とワイヤートラップの二つ以外にトラップは仕掛けられていなかったのだが、精神的にはやはり三人とも必要以上に疲弊していた。
草むらを抜けた先には廃工場であるはずの大型の建物に電気が灯っていた。
「まだ電力系統が死んでいないみたいだな。」
「掛かってこいって所か。」
「上等じゃねぇか……所詮ガキの浅知恵だ。」
戸口は既に開かれていた。
トラップを仕掛けるのに戸口程効率のいい場所は無いのだが、それが既に開けられていると言うのは此方を歓迎するという証なのか、それとも更に何かトラップを重ねているのか。
どちらにしろ常に警戒が解かれる事はなく、慎重にその歩みを進める。
中に入るとそこにはただ広い空間が広がっていた。
機材等は既に運び出されているのだろう。
奥に伸びる長方形の空間、両サイドの階段から二階通路に上がれる造りになっているが、階段や通路自体も所々が崩れ落ちているために人が通るには少々困難な状態となっている。
広いスペースには不自然に大きな水たまりが広がっておりそのスペースの八割程度が浸食されている。
あとは残り一割ずつ程の細いスペースをその両端に残しているのみだ。
「分かりやすいトラップしかけやがって、おちょくってんのか……。」
そう呟いたアンジェの視界には水溜りを越えた向こう側、壁から伸びる途中で断裂した太い銅線が水溜りに浸かっているのが映っている。
「水溜りにつっこんだらバリバリーってか。水が白く濁ってやがる、ご丁寧に混ぜ物までしてあるぜ。」
水には電気抵抗を減らす為に何かを溶かしてあるようだった。
「くだらねーな。」
そう言って水溜りの無い空間の端に足を向けたトロイはその細い道を見て足を止めた。
「おいおいおい……こりゃ悪い冗談だろ…。」
それもそのはずだ、そんな物騒な物が現代の日本という国に存在していいはずがなかった。
道全てを覆う様に張り巡らされたワイヤー。
そのワイヤーを辿ってみればそれは扇状の飯盒の様な形をしたブリキ缶に繋がっていた。
そのブリキ缶から更にワイヤーが伸び、高い壁伝いに三つ程の同じ様な扇状のブリキ缶に繋がっている。
それが、本物ならその射程距離は恐らく水溜りよりこちら側の空間を全て覆う程度の物になるだろう。
「旧式のクレイモヤ地雷か……?」
「仕掛け方はお粗末だが、恐らくそうだな。一体どうやって手に入れたんだか……。」
クレイモヤ地雷とは、簡単に言えば指向性散弾地雷だ。
有効射角約六十度、有効射程約五〇メートル、最大射程は約二五〇メートル。
一発一発が強力な空気銃程度の威力を持つ数百個の鉄球を。
このタイプはワイヤーが引かれる事で信管が炸薬を起爆させる物だ。
しかも一つが起爆すればその衝撃で同時に四つが作動するように改造してある。
これまでの物とは違い、この仕掛け方は確実に殺害することを目的としている事が窺える。
「解除するから三分待ってくれ。ただ万一のために外でな。」
本来トロイは戦闘関係よりこう言った工作作業を得意とした要員である。
そのトロイが解除できると言うのであれば間違い無いだろう。
「「ウィルク。」」
静かにアンジェはジニーと共に元来た入口を出た。
お互いに声を掛ける事も無く、そのまま凡そ一分間が過ぎた時、中から現状最も聞きたくない音が聞こえた。
バシュッっという音に続く複数の連続する火薬の破裂音だ。
同時に先程まで付いていた工場内の電気が一つ残らず消えた。
アンジェは全身から嫌な汗が噴き出るのを感じた。
ペンライトを付けお互いの姿を確認する。
ジニーと目を合わせ、言葉も無く扉を開き、細い小道ではなく水溜りの中に倒れ痙攣を起こしているトロイを目にする。
先を照らしてみると小道に何かが落ちているのが分かる。
そして先程の音を思い出し、落ちているそれをもう一度見て理解する。
ひとまずトロイを水から引き上げる。
グローブは絶縁性の物を使って居るので感電の心配はない。
その際にトラップワイヤーに引っ掛かるが当然そんな事は気にしない。
クレイモヤトラップは『ダミー』だったのだ。
ブリキ缶の立脚に結び付けられた細い釣り糸が薄く積もった土の中から飛び出している。
そしてその細い糸は巧妙に隠されて天上、つまり二階の床下まで伸び、その真下には爆発したと思われる何かと、着火した爆竹の残骸が煙を上げていた。
シナリオは恐らくこう。
ダミートラップを解除しようとしたトロイはトラップ解除をしようとした人間を目的とした二重のトラップを起動させてしまった。
そして恐らくあの残骸、先ほど聞いた最初の音からするにフラッシュグレネード。
それもこの間使われた物よりもサイズも大きい。
ただでさえ命を掛けたトラップの解除には桁外れの集中力を要する。
トロイは恐らくその解除トラップを発動させた事で己の死すら予見した事だろう。
そして待っていたのはフラッシュグレネードにより視界を遮られた状態で連続する銃声に似た破裂音。
最大限の緊張状態でそんな事が起きれば誰でも錯乱状態に陥ってもおかしくはない。
そしてすぐ隣にある水溜りに足を踏み込み今に至るという所だろう。
「……人間の心理的な動きを上手く予測してる。」
重苦しく呟いたジニーは気を失っているトロイを見る。
早めに引き上げたお陰か息はしているようだが、当分は目覚める事も無いだろう。
そんな時、不意に声が聞こえる。
「ふむ、美女と野獣で残り二人か。この間よりはやはり警戒してるみたいだな。」
声のする方をライトで照らすと水溜りの向こう側で唯一の扉から体を出して此方を見る契の姿があった。
「やぁ、どうだね、たった一人のガキの手の平の上で踊らされる気分は。」
「……こんのっ、糞ペド野郎!今すぐ掛かって来い!ハラワタ引き摺り出して蝶々結びにしてからあのチビ餓鬼の頭押し込んでやる!!」
激昂するアンジェの瞳を冷ややかに見据える契は、もう一人、ジニーの方へも視線を送るが、帰って来たのは沈黙のみだった。
「ふむ、まぁそう焦らずともこの先で待っているさ。気が向いたら来ると良い。」
そう言って契はその鉄の扉の向うに幽鬼の如く消えて行った。
「アンジェ、敵に感情を見せるのはお前の悪い癖だ。下に見られるぜ。」
「ヤってる最中に下に見られたってかまやしねーよ、相手が逝く瞬間は何時だってアタシが上さ。」
立ち上がりながら言うジニーに、ペンライトを持っていない左手で腰から逆手にアーミーナイフを抜きつつアンジェが答える。
それに対してジニーは渋い顔で返す。
「見つけてもまだ殺すなよ。あのガキにはチビガキの居場所を吐いて貰わなきゃいけないんだからな。」
「脳味噌と舌さえ無事なら喋れるさ。それ以上アタシは保障出来ないね。」
だめたこりゃと軽く芝居がかった様子で首を捻ったジニーは、電力系統が落ちているとは思われたが一応水溜りを避けて小道を進む。
後に続くアンジェの瞳はこれ以上ない程にぎらついている。
契が消えて行った鉄扉の前に辿り着く。
ペンライトで扉を照らすと一枚の張り紙が貼ってある事に気づく。
内容は、ここから先に進むなら命の保証は出来ないといった物だ。
アンジェが勢い余って貼り紙を破りそうになるが無言のままジニーがその手を掴み止める。
そしてペンライトの光を貼り紙の右下隅まで持って行くと細く光を反射する物が見える。
それは細い糸で大きく周り道を描いて真上まで続いている。
ライトで上を照らすと何か液体の入ったガラスの瓶が釣るされているのが見える。
「ったく、お前の行動パターンをお前自身よりも理解してそうだぜあのガキは。」
「けっ……。」
言葉を交わしながらお互い一歩下がり、アンジェが敢えてナイフでその糸を切断すると液体入りのガラス瓶が扉の前で破砕音と共にその中身をぶちまけた。
当然、貼り紙を破り捨てようとしようものなら液体を頭から被る事になっていただろう。
明らかに化学変化が起きている風な音を立てながら白い煙を立てている所を見る限り頭から被って幸せに慣れるような類の薬品ではない。
貼り紙の内容もあながち嘘という訳ではなさそうだった。
さて、と独白しアンジェに手振りで扉から離れる様に指示するジニー。
しぶしぶという様子でアンジェがナイフを仕舞いながら退くのを確認後、扉をあけると同時に自らも扉を盾にする様に脇にそれる。
すると当然の如く風を切る音と同時にしなった竹の先端に付いたスパイクボールが扉の向う側から飛び出した。
アンジェなら顔面か頭部、ジニーならば胸元から喉にかけてがある場所辺りを通過する。
反動で揺れ続けるその刺の塊を見て肩をすくめるジニーと、視線を微動だにしないアンジェはお互いに目を合わせ、また視線を扉の奥に戻した。
そこでまた目を丸くする事になる。
扉の向こうには姿見が設置してあった。
一見無駄な配置に見えるが、もしそのまま扉を開いていた場合、電力系統が落ちている今ペンライトの光が反射され一時的に視界を塞がれていたはず。
そうでなくとも目前に現れた自分自身の像を反射的に確認してしまっていた事だろう。
その一瞬を必要とする動作には反射的な回避運動を阻害する効果がある。
「ったく手の込んだ真似しやがって……」
そろそろお決まりパターンとなりつつあるトラップに辟易しつつジニーを先頭に扉を跨いだ。
その瞬間だった。
一瞬の擦過音と風切り音。
と同時に鋭い何かが肉に突き刺さる音がした。
アンジェの視界はジニーの体で塞がれており前方で何が起きたのかはわからない。
「おいジニーっ、何が―――」
ジニーの肩に手を置いて気付いた。
彼の体には力が全く入っていない。
そのまま倒れ伏すジニーの胸には細い鉄パイプを加工した矢が突き刺さっていた。
ライトを照らすと鏡の下部に小さな穴があいている。
先程見た時はそんな穴空いていなかったはずだ。
だが改めて下を見ると穴を丁度塞ぐサイズのアルミ箔が落ちている。
本当に殺す気で来ている。
あの命の保証はしないという表示は虚勢や出まかせの類では無かった。
そして気になるのは矢を放ったトラップの起動要因。
今まではワイヤートラップがメインに使われていたがこちら側を見る限り鏡の裏から糸が伸びている続いている様には見えない。
部屋全体を軽く照らしどうやらここは工場の事務室だと判断する。
埃が薄らと積もった書類用ロッカーやホワイトボード、業務用デスクや中央には大きな机が位置している。
静まり返った室内に人が居る気配は無い。
だが間違いなく今先程まで奴が居たはずだ。
矢は手動で発射されたと考えるのが自然。
恐らくは二回目の扉を開く音を合図に。
トラップだけに警戒していると足元を掬われる。
普通に考えるのならば心が折れて引き返している所だろう。
ただでさえ致死性を持つブービートラップが人に与える精神的負担は並はずれた物ではない。
この時世に死と隣り合わせの時間を経た事のある人間がどれほど居るだろうか。
アンジェでも修羅場を潜った回数など数えるほどだ。
それですら命を危険に晒す程の物では無かった。
だが、それでもアンジェの頭の中に引き返すと言う選択肢が現れる事は無い。
それは幸か不幸か、彼女が契約により無くした感情、そして残した感情による副産物で有ると言える。
彼女が身体能力を得るために支払った代償は、怒り以外の感情。
故に彼女は迷わない。
彼女を突き動かすのはただ純然たる怒りのみなのだ。
そして怒りという感情はこの時ばかりは彼女から冷静さを奪う事はなかった。
むしろ怒りにより血が上った状態が続いた事を要因とする怒りという感情に対しての慣れ。
それが今彼女に冷静さを与えている。
入口でこれ以上のトラップが発動する事は無い。
それなら入口からまずクリアリングを済ませる。
視界が届く場所という場所全てにライトを当て安全を確認して行く。
すると当然の事ながら見つかった。
これまた信じがたい物が瓶に詰められた状態で天上付近の換気扇にセットされていた。
「Mk-2手榴弾……パイナップルか。アントルメかフルュイって意味じゃ確かに洒落が聞いてやがる。」
アントレかロティーが先程のダミークレイモヤって所だとするならジニーはサラダで食中りって所か。
アントルメ、フルュイ、アントレ、ロティー、サラダ、いずれも西洋フルコースメニューの呼び方だ。
若干下らない事を考えつつ、随分と凝ったサラダを出す店だと冷めた視線でヘタの抜かれた瓶詰パイナップルからご丁寧に伸びるワイヤーを目で辿る。
手榴弾は基本的に安全ピンが抜かれレバーが外れてから数秒で炸薬に火が付き鉄破片を撒き散らす割とポピュラーな殺傷兵器だ。
加害範囲は半径一五メートル程だと言われている。
この部屋で言うなら中央で爆発されると逃げ場が物陰以外無くなる程度の範囲だ。
そんな物騒なデザートが部屋の隅に位置する換気扇に挟まっていると言うのは余り気分のいい物ではない。
ちなみにワイヤーは壁伝いを通って少し先の床に張られていた。
これも根元から追って行かなければ気付けないような巧妙な隠し方をしている。
だが糞物騒だと思う反面、アンジェの頭にはもう一つの可能性が浮かぶ。
先程のクレイモヤトラップに関してはダミーだった。
恐らくはただ外装を似せただけのブリキ缶だろう。
そうなると奴の使用したトラップには共通して、火薬が使用されて居ない。
簡単なフラッシュグレネードは使用しているがそれは別格だ。
あの手榴弾もダミーである可能性が無いとは言い切れない。
先程と同じく、解除の際に連動して発動するトラップが仕掛けられている可能性もある。
まぁ長く考えてしまったがどちらのパターンにせよ、不用意に触らず起動トラップにも掛からなければ問題は無い。
そう思い、足元に気を付けつつ部屋を進んでいく。
部屋の中央まで進んだ所で大机の上に一枚のメッセージカードが置かれているのに気づく。
明らかに罠の香りがする。
だがその表には、男が書いたにしては几帳面な整った文字で、for pursuerと書いてある。
紙の周りを見るが糸が付いている様子もない。
「回りくどい真似しやがって……。」
そのメッセージカードを手に取った瞬間、二つの事に気づいた。
一つはそのメッセージカードの裏面に書かれた文字。
『This is the last trap. If it survives here, next,I will dance with you.』
日本人特有の丁寧過ぎる英語。
何のために英語にしたかなんてだいたい予想はつく。
此方の判断を一時でも遅らせるためだ。
内容からもわかる。
それはこのメッセージカードがやはり罠である事を示している。
そして気付いた二つ目、手に取った際に明らかにメッセージカードの重さを越える重力と、同時にその重力からの解放を感じた。
メッセージカードが置かれていた机には細くだが、錐か何かで穴が開けられており、メッセージカードの裏にはテープでワイヤーを張り付けていた後があった。
同時に机の下からガラス瓶が落ちる音と重苦しい鉄の塊が転がる音が聞こえる。
微かに鉄同士がぶつかる様な音も聞こえたがそれは間違いなく安全レバーが外れる音だった。
体中から嫌な汗が噴き出す。
これがダミーであるはずがない。
奴が意味の無い仕掛けをしていた事は一度も無い。
考える前に体が反応し机の端に飛び乗る。
机の隅に落下運動で多少増加された人一人分の重さが一気に掛かり、飛び乗ったのとは反対側の足が少し浮き上がる。
同時に机の両端を掴みそのまま勢いを利用してこちら側に強引に引き上げる。
かなりの大きさの机だが、強化されたアンジェの力で机は部屋の中央で立ち上がり盾の役割を果たす。
それから一秒も立たず机を抑え込んだアンジェの体に強い衝撃が走り、ゼロコンマゼロ数秒遅れて指を耳栓にして両耳を塞いでいて尚、耳を劈く様な爆発音が響き渡った。
当然ながら爆発は一秒も立たずその猛威をふるい終える。
衝撃に備え閉じていた瞳を開くと対面に見える壁が綺麗に長方形を残して鉄片で抉られている。
立ち上がり部屋全体を眺めると上下左右至る所が見る影もなく破壊されている。
換気扇にセットされていたほうはやはりダミーだったようでレバーが外れた状態で粉々になった瓶の破片と共に台所に転がっている。
体を確認するが外傷はない。
若干耳鳴りが残っているがさほど気にする程の物でもない。
どうやら契が言うところの最後のトラップとやらを潜りぬけたらしい。
クレイモヤトラップは前菜、オードブルに過ぎなかったといった所だろうか。
何故換気扇にダミーを使用したのか。
それだけが若干心残り、というよりは疑問だった。
両方とも本物を使って居れば同じ様に机を盾にしたとしてもその方向次第、五十パーセントの確率で鉄片によりミンチにされていたはずだ。
まぁ過去の仮定などした所でどうにもならあない。
今は自分が生き残っているという結果を居るかどうかも怪しい神様とやらに祈るべきだろう。
あとは、扉の先に待つあのいけすかないロリコンを八つ裂きにしたら、おっと勿論それはチビ餓鬼の場所を吐かせてからに話だが、仕事は終わりだ。
下の階で寝ているトロイを引き摺って、生きているかどうかは知らないが扉の外に引きずり出しておいたジニーも回収して、家に帰って熱いシャワーを浴びればあとは寝るだけだ。
三度目は無い。
正面から遣り合えばあの糞に遅れを取る様な事は無い。
有る筈がない。
この前は完全に甘く見ていた結果、相手の手中にハマってしまったが、近接戦闘に於いては自分に並ぶ者など少なくとも組織の中にも今まで出会った人間の中にも居なかった。
次は会話をして時間を稼がせるつもりもない。
姿を見せたら即取り押さえれば良い。
部屋に入ってからの流れを想定しつつ、アンジェは最後の扉を憂いなく開いた。
最後の最後にトラップが仕掛けて有る、等という無粋な真似はしなかった様だ。
何の問題も無く開いた扉の向こう。
長細いロッカールームからロッカーを取り除いた様な構造の真っ直ぐ一本の部屋。
出口は今アンジェが入って来た扉と、部屋の奥、パイプ椅子に坐して沈黙する彼の背後にあるたった一つの窓だけだ。
大きく開かれた窓から流れ込む冷たい夜風が頬を撫でるのが激しい動きを終えて火照った体には気持ち良い。
「……生きていたか。」
「……。」
呟きつつ顔を上げた契にアンジェは無言でもって返答する。
そして徐に一本、投擲用のナイフを投げる。
だがそのナイフは彼の頭上を掠めていくだけだった。
勿論外してしまった訳ではない。
敢えて外したのだ。
そしてそのアクションに対する契のリアクションを見て確信する。
彼は全くと言って良いほどその動作に反応しなかったのだ。
出来なかったのではない。
しなかった。
この間の戦闘でこいつは私のナイフを確かに避けた。
今までに投げた相手に一度として(・・・・・)、一度としてだ、避けられた事が無かった。
それどころか反応を示せた人間すら皆無だったそのナイフを避けたのだ。
それも予め飛んでくる場所が分かっているかのような最小限の動作で。
「まさかとは思ったけど、アンタ人の思考が読めるのか?」
「だったらどうする?」
その返答は実につまらなさそうな物だった。
余りに感情の無い呟きにアンジェの神経を逆撫でする程だ。
だが逆にソレをもって確信する。
「アンタも、契約者だね。」
今までに出会った事は無かった。
だからと言って自分だけが特別な存在だと思いこむ程アンジェは子供では無かった。
必ず居るはずだと考えていた。
そう、自分と同じ、感情を代償に支払って力を手に入れた人間が。
「……お前もあの淫魔に誘惑されたのか。その年齢と体格の女にしては馬鹿力が過ぎる訳だ。」
予測が確信になる。
「言葉はもう必要ない。アンタが心を読むならそれでいい。ただアタシはアンタの思考が追いつかないレベルで、動けば良いだけだから。」
言葉と同時にアンジェの体がぶれた。
その寸前に見えたのは彼女の右手が腰の後ろに伸びる動作。
動作の開始点からトップスピードまでの加速時間を極端に短くする事で、視覚は物体を見失う、はずだった。
だが契は正確にアンジェの姿を捉えている。
その動きは人間の出来る限界を軽く超えていた。
開始と同時に左に体をスライドさせ直後に跳躍、壁を足場としてさらにもう一段の跳躍。
その程度の動きでアンジェの体は天上付近まで上がっていた。
そして飛び上がると同時に体の重心を反転させ、天上に足を付け、その体に掛かる力のベクトルが上昇方向から下降方向へ転換する前に天上でもう一段跳躍する。
「忍者じゃあるまいし……。」
無感情に呟いた契はは確かにアンジェの瞳を捉えた。
その光は明確に此方を捉えている。
この前はハイエナと評価した瞳だがそれは間違いだったかもしれない。
あれはハイエナなんてもんじゃない、ヒョウかピューマかソレ以上か。
獅子はやはりアンジェの方だったのかも知れない。
そんな事を考えつつ、飛来する物体から回避動作を取るため、立ち上がると同時にパイプ椅子を端へ蹴り飛ばし、そのままバックステップでアンジェの落下予測地点から離れる。
契が跳躍すると同時に、天上を跳ねたアンジェの体が鋭く飛来する。
右手に握られた刃渡り三〇センチメートルはあろうかというアーミナイフを体を捻り着地に備えながら構え、落下と同時に振り下ろす。
正確に肩の付け根を狙ったそのナイフが空を切る。
だがそれはアンジェの踊る舞踏の序曲に過ぎなかった。
着地と同時に振り下ろされたナイフがその落下運動の制御に必用な力のベクトルを感じさせない様なバネの用な動きで急速に跳ね上がる。
きっと普通の人間がやれば今の動作だけで間接が外れて居てもおかしくは無い様な動作だ。
跳ね上がったナイフはバックステップした契の体を追いかけるが、ステップの着地に一瞬間に合わず、契が体を横に逸らした事で再度空白を突いた。
彼女の攻撃はまだ続く。
空に突き出されたナイフを伸びきった腕を全く使わず小手先の動きだけで逆手に持ちかえ、サイドに体をずらした契の体を更に追いかける、さらにその一撃を躱されると今度は伸びきった腕に引っ張られた体をそのまま一歩のステップで加速させ、体を回転させると同時に右で大振りの蹴りを放つ。
その足を左腕に右手を添えて受け止めると全力で鉄パイプの一撃を受けるような衝撃が左腕に響く。
激痛は神経系を通り脳に届くがその痛みの情報から左腕の骨がイったであろう事だけを取り出して冷静に判断し、攻撃を受け止める事を諦める。
アンジェは大きく振り出した右足により増した回転運動に身を任せ、体を捻って左足での後ろ回し蹴りを更に浴びせる。
契はそれが不可避で有る事を悟り、既に使い物にならないであろう左腕をクッションにその一撃を凌ぐと同時に次の一撃から回避するべく更に後ろへ距離を取った。
左腕を盾にした際確実に骨折したと思える生々しい音が鳴り響く。
一方まるでゲームの様な空中コンボを決め終えたアンジェは一度着地して姿勢を正す。
その姿には一点のブレもない。
息が乱れている様子すら皆無だ。
しかしその表情には先程よりも更に明確に浮立った怒りが見てとれる。
全ての動きが常人なら目で追うのすら困難なはずなのだ。
捌ききれるはずがない。
思考を読む程度では不可能なはずなのだ。
それも自分と同じ様な年齢で、恐らくは数える程も実戦を潜りぬけた経験を持たないド素人がだ。
「何を隠してやがる……」
思わず呟いたアンジェを、左腕の激痛がまるで無い物かのような無表情で冷ややかに見る契は質問には答えず返事を返す。
「所詮お前はその程度という事だ。」
「ふ、ふふふっ、あっははははっ、最高だよアンタ!!」
怒りとは突き詰めれば感情の高ぶりだ。
怒りと喜び、過程は違えどそれが限界に達した時、人はこのようになるのだろう。
狂気染みた瞳で笑うそれを、外気よりも幾分か冷めた瞳で見つめる契に、アンジェは言葉を続ける。
「左腕はぐしゃぐしゃで痛み以外の感覚なんて感じないだろう!その上アタシは無傷!それどころか反撃一発繰り出す暇無いじゃないか!」
その言葉はまるで、自分自身に言い聞かせる様な独白染みた響きに満ちていた。
いや、むしろ契にはそう聞えていた。
「ふむ、現実から目を逸らすな、と言っても無駄なのだろうな、では先に言っておいてやろう。」
上着を脱ぎ捨てた契の胸元には赤い点滅を繰り返す卵程の大きさを持つ機械が張り付いていた。
「まず一つ、お前が俺を殺した場合、もしくはこの装置が俺から無理矢理に剥がされた場合、この建物が吹き飛ぶ。この心臓の装置が心音を感知しなくなると同時に倉庫の基礎を支える各柱に設置した爆薬が爆発する仕組みになっている。そして二つ、お前らの目的で有る所のリンは知り合いに託してある。俺からの連絡が一日以上途絶えた場合、一年間は幽閉するように言い含めてある。三つ、俺はまだ本気を出していない。とまぁ、以上がお前がその程度の物であると俺がお前に対して評価を下した理由だ。」
そう言って一息付き、アンジェの返答を待たずに言葉を続ける。
「つまりお前は、俺を殺さず、気を失わせ組織か何かに連れ帰って拷問にでも掛けて無理矢理俺に口を割らせるか、精神的に敗北を認めさせるしか無いという事だ、果たして怒りにまかせたお前のその動きでソレを実現しうるのか、まぁ当然否だ。むしろ敢えて言おう、それ以前にこれからお前は俺に一発も攻撃を当てる事も出来ずに負ける。」
そこまで言ってしゃがみ込んだ契は隅に転がった鞄から一本の警棒を取り出す。
長さは三〇センチ程度と言った所だろうか。
ソレを右手に持ち、右半身を正面に構え俯くアンジェを見据えた。
そして気づく、アンジェの様子がおかしい事に。
先程まで溢れだしていた怒気が感じられない。
だがその分、異様に増している何かが肌をひり付かせる。
「―――言いたい事はそれだけ……?私はもう死んでもいい……貴方を殺したいの……ただ、それだけ……。どうせ任務を失敗して組織に戻れば待ってるのは死だもの……、それなら私は私がしたい様にして死ぬわ。」
それは今までのアンジェでは無い、明らかに別の人格。
「多重人格、という訳ではなさそうだな。敢えて予測するならそう、元人格といった所か。」
契約により感情に偏重をきたした人間は総じてそれまでの人格とは全く違う人格を有する様になる。
それは自分自身で何となく理解していた。
だがもし一つの感情の残滓を限界まで膨らませた場合にそのような現象が起こるというのならばそれには驚きを示さざるを得ない。
一体どういう原理でそのような事が起きているのかはわからない。
感情を器として定義するのならば、一つの器が溢れだす事で別の感情を誘起すると言うのは良く聞く話だ。
怒りが余って泣きだしてしまう。
怒りが余って笑いだしてしまう。
逆も又しかり、別も又しかりだ。
だがそれが感情をすっぽりと奪われた人間に適応される理論であるのかはわからない。
例えば奪われたのが感情の器自体であった場合、溢れだした感情が貯まるのは一体どこなのか。
それは考え始めれば切りのない、それこそ宇宙創成について考える様なものだ。
だから俺は思考を中断し、ただ目の前の少女を見据えた。
「聞けるうちに聞いておくよ……貴方の名前は……?」
問われた契は一拍考えた後、その問いには答えを返す事にした。
「―――夜永 契。」
それは気まぐれでしかない。
彼にとっては名前などどうでもいい物だ。
では相対するこの少女にとって名前とは何か特別な意味を持つ物なのだろうか。
「―――契、ふふ面白い名前。でもね、私には名前なんて無いの。だって私はアンジェだもの、それは名前じゃない。私を示す記号。悪魔の枝に実った一つの果実の名前に過ぎないの。花粉を運んでくれた虫さんは私が殺しちゃったしお花はとっくにかれちゃった。だから私はアンジェ。それ以上でも以下でもない。」
さっきまでとは別人の様な年相応の笑顔を浮かべ、右手のナイフを握りしめるアンジェを見つめる契は考える。
彼女もまた被害者なのだろうか。
だが被害者が可愛そうだと言うのはただの一面的答えに過ぎない。
そう、日本語に答えが複数存在するように、全ての存在には複数の答えが存在する。
いや、答えなど存在しないと言うべきだろうか。
被害者にも突き詰めれば何か責任が存在する。
総合的に見てどちらが悪いかなど他者が勝手に定めた基準でしかない。
それにしても今日は本当に下らない思慮に耽る事が多い日だ。
結局の所、人は自分が信じ、想う道に進むしかないのだ。
それが例え、自分にとって益に働く物であろうと、不利益に働く物であろうと。
結論は最後にしか出ないから面白い。
また最後に出るとも限らないから面白い。
それが契が生きる上で『答え』という言葉に関して抱く想いの全てだ。
そして契は言い放った。
「では楽しもう。答えの出ない戦いを。」
と。
言葉と同時に初動を取ったのは契だ。
右半身を前方に向けた構えのまま、右足の膝を折り始めると同時に左足で地を蹴り初動のスピードを稼ぐ。
そして重心が完全に右足に移ったのを感じると次に右足で地を蹴る。
一時的に体を浮かした状態からの二段加速による突進。
同時に振りかぶった警棒を上段に構えて真っ直ぐに振り下ろす。
対してアンジェはその一撃をナイフの腹で受ける、ように見せて体全体を右にずらした。
狙いは重い警棒の一撃を直接受け止めず、左斜めに受け流してからの反撃。
だが其の狙いを読み切った様に、振り下ろされる警棒は軌道を変えた。
狙い澄ましたかの様にアンジェが体をずらした方向への軌道変化。
「ふふっ、いいわっ、そう、この感じよ!」
本心から楽しそうに声を上げ警棒をそのまま右手のナイフで受け止め、瞬間左手で腰元の投擲用ナイフを契の顔面へ向けて投擲する。
ほぼ0距離からの投擲。
避けられるはずの無いそれは人間の最も堅い部分により止められた。
アンジェは金属同士がぶつかる様な音聞くと共に信じられない物を見た。
歯で止めたのだ。
驚きと同時に左の脇腹に対して鈍く重い衝撃が響く。
アンジェの軽い体は吹き飛び壁に叩きつけられる。
警棒を振り下ろした後タイムラグを惜しむ様に右足での横薙ぎの蹴りを繰り出した後、ペッっと咥えた刃を吐き捨てて、
「真剣白歯取り、というらしいぞ。どこかの漫画に書いてあった。」
などと飄々と語る契は相手が少女で有る事など忘れ去ったかのように壁に打ち付けられたアンジェの頭部に目がけて警棒を振り下ろした。
だがその警棒は壁を叩く事になる。
寸前に素早くしゃがみ込んだアンジェは立ち上がる際の脚のバネを利用して契の喉元に目がけて白刃を伸ばした。
しかしその刃が契に届く事は無い。
体を全く無駄の無い動作で背後に逸らした事により、鼻の先を掠める刃。
その刃が軌道を修正して再び襲い来る前に警棒で握った腕ごと叩き落とす。
と同時に、右膝がアンジェの右手首を狙い跳ね上がる。
例えるなら鋏。
梃子の原理が導く結果はアンジェの手からナイフが離れるか、もしくは手首が砕けるか。
しかしどちらも願い下げだったのか。
アンジェは一度ナイフを手放し、右手を自由にすると同時に、警棒で弾かれた高速で回転しながら落下するナイフを器用に掴み取る。
下手をすれば左手の指が無くなっていてもおかしくは無い、無茶をする物だと冷静に観察する。
アンジェはフリーになった右手で此方が不用意に上げた右膝を取ろうとするが、その手を振り下ろした警棒を跳ねあげ払いのける。
小指に当たった際微かな手ごたえを感じるがアンジェの嬉々とした顔色が変わる様子は無い。
痛覚を感情で塗りつぶしているのか。
勝負を決めるには相手の意識を一撃で刈り取るしかない。
次で決める。
そう決意し、一度距離を取った契に対してアンジェはそうはさせるかと距離を詰めて来た。
攻守の入れ替わりを感じ取った契は、ただその一撃を待った。
左手に持たれたナイフによる素早い突きの連続を躱し、いなし、受け止め続ける。
小ぶりの攻撃の連続に反撃の隙は見つからない。
防戦一方の硬直状態が続く中、契はチャンスを待ち続けた。
そして、そのチャンスがやって来る。
これまでで一番際どいコースを狙った突きをギリギリの所で受け止めた直後、その突きは引かれる事無く契の警棒を押した。
大の大人の力と比べても遜色の無い力で押され、契が体全体の筋肉に力を入れた瞬間だ。
人は力を入れる際に体が一瞬硬直する。
その硬直を狙った、目で追い切れない程のスピードを持った足払いが来る。
契はその足払いに掬われてバランスを崩した―――かに見えた。
それは恐らくアンジェから見れば絶好の隙だっただろう。
だが、不意に足を掬われるのと、覚悟した上で足を掬われるのではその意味合いや効果は全く違ってくる。
それに気づかずアンジェは逆手に持ちかえた必殺の白刃を完全に不可避なコースで契の心臓に振り下ろした。
だが、次の瞬間その嬉々としたアンジェの顔は二度目の驚きに染まる。
体勢を崩した人間に対しての完全な不意打ちとして振り下ろされた刃は、倒れる最中、警棒を投げ捨てた契の二本の指に受け止められたのだ。
刃を完全に挟み取ったまま背中からコンクリートに倒れた契は刃を離さない。
元より足払い後の無理な体勢で振り下ろされた刃にはスピードは有っても重さは無かったのだ。
ナイフを掴んでいた指を素早くアンジェの右手に持ち替えそのまま腕を引く。
腕を引かれたアンジェは正面から契に引っ張られる形になる。
体の重心が根元から持って行かれる感覚。
柔道技で言うところの巴投げの形だ。
だが此処は広い畳の上ではない。
距離を取った際、契は壁際まで移動し、自分はそれを追いかけた。
必然的に迫る目の前の壁に、死を予見する。
頭からこの勢いでコンクリートに叩き付けられれば死に至ってもおかしくはないダメージを受けるだろう。
だが恐怖は感じない。
それは感情を奪われたからとか、そういう物では恐らく無い。
なぜなら今の自分には怒りという感情すらも存在していなかったからだ。
ただ存在するのは、開放感だった。
生きている、なんてあの日から実感した事なんて無かった。
先程までは。
そして先程久々に感じた。
私は生きているのだという感覚。
それは先程既に自分が死を無意識に受け入れていたからかもしれない。
光が闇の存在により初めて自分の存在を実感できるように。
―――これでもう、楽になっていいのかな。
解放感に抱かれたアンジェは迫りくる死に期待すら抱いていた。
だが、契の右足で鳩尾を支えられ、投げ飛ばされる形、その寸前。
契の砕けたはずの左腕が伸び、アンジェの襟を掴む。
そのまま投げられ、必然的に頭ではなく、倒立した状態で背中からコンクリートに強く打ちつけられ、更に続く鳩尾への重い衝撃。
それは巴投げの姿勢のまま後転した契の爪先だったのだが、そんな事は知る由も無い。
そうしてようやく、アンジェは意識を手放したのだった。