第一幕 第六章 『開戦』
以下略
契が希理子に助けられた日から数えて二日後。
三日月の朧気な光が薄らとした雲間から蒼光を零す中、街灯に照らされた一軒の家を見張る一台の車が車道脇に止められていた。
中に坐して待つのは三人。
運転席で不機嫌そうに煙草に火をつけるジニー。
助手席で腕を組み、目を瞑って沈黙を貫いているトロイ。
そして不機嫌さを隠す様子も無く頻繁に舌打ちを鳴らし、バックシートで足を投げ出して横になっているアンジェだ。
ここで張り込み始めて二日、ターゲットは依然として姿を現していない。
ただでさえ前回の失敗で同僚から散々な皮肉を言われている。
皮肉をのたまう同僚を片っ端から殴り倒そうとしてジニーに止められ、結局ジニーを殴り倒してその場の怒りを鎮めたのだが、その直後に自分を拾った直属の上司であり恩人である彼女にも言われたのでは怒りの矛先を他にぶつける訳にもいかなかった。
お陰で今朝までアンジェの手は包帯でぐるぐる巻きになっていた。
哀れ、自己に怒りをぶつけるために犠牲となったアンジェの部屋の冷蔵庫は今頃粗大ゴミとしてゴミ処理場に打ち捨てられている頃だろう。
アンジェの頭の中ではその時彼女に言われたセリフがぐるぐると渦巻いている。
それは普通なら不安を煽る物であるはずなのだが、アンジェの中ではそれは怒りに転換され渦巻く。
―――次は無いと思え。
「クソッ……。」
常に脳内を占有する怒りの矛先を車の防弾ガラスに定めて何度も蹴りつける。
「ガキを虐められないからって車を虐めるんじゃねぇよアンジェ。一応俺の車だぞ。」
「っせーんだよタコハゲ。そのための防弾ガラスだろうが。」
これについては敢えて言うまでもないだろう。
「にしてもあの糞ガキとロリコンナイトはまだ出てこねーのかよ!クソッ!このまんまじゃアタシのケツがシートとくっついちまう。」
「っはっは、そりゃ高く売れるだろうな。見た目に騙されて買った奴には同情するが。」
「クソッ……おいトロイ!目瞑ってケツに根張ってるくらいなら外回って探してこいよ!」
「おいおい、それが今まで半日ぶっつづけで見張りしてた奴にかける言葉か?」
「うちの御姫様はマリーアントワネットなんて比べ物にならないくれぇ傲慢だからな。」
そう言って笑ったジニーは視線の先に人影を見据えて居住いを正す。
そして先程までの軽口を叩いてたものとは違う、仕事の空気を纏った声で呟く。
「そんな必要も無くなったようだがな。」
それに対する返事はない。
ただアンジェは体を起こし、トロイは目を見開く。
車内の空気が張り詰める。
そしてアンジェは本来の重苦しい口調で開始の合図を告げた。
―――兎狩りの始まりだ。
「やっと気付いたか……本気で捕まえる気が有るのやら。」
それはたった今、車からぞろぞろと姿を現した三人の表情を見れば問うまでもない事だろう。
たっぷり二日間焦らされただけあって視線が随分と殺気立っている。
「怖い怖い。」
俺は無表情に心にもない事を呟く。
メンツを見た限りはこの前と同じ。
禿頭の大男。
中肉中背の男。
そして相変わらずのハイエナ女。
あの内二人は一度は俺の即席トラップに掛かったまぬけだ。
ブービートラップ。
簡単に直訳すればまぬけのかかる罠といった所だが、その効果は局地防衛戦、逃亡戦に置いてまぬけとは言い難い脅威性を有する。
相手の心理の隙をついたトラップは敵に常に警戒心を解く暇を与えない。
実際に短い戦闘で有っても、その心理的負担は体感的戦闘時間を長期化させる。
精神的疲労は肉体的疲労に連動し、敵の体力を奪うものだ。
さて、要するに一度トラップに掛かった人間はトラップに対して普通以上に警戒を抱く。
これはトラップに相手が掛かる可能性を著しく下げる、と思われるがその実、敵の心理把握を容易にし、行動パターンを制限し、そのパターンに従ってトラップを仕掛ける事も出来るし、何よりトラップがあるとわかって進む相手はより精神的に消耗する事になる。
以上の事から、前回とメンバーを変更してきた場合、多少とはいえ計算に誤差が生じる事にも為りかねなかったと考えればこれは幸運と言うべきだろうか。
唯一の不運、というには必然性に過ぎた事項ではあるが、あの女がやはり再度姿を見せたと言う事だろうか。
一度ため息をつく。
ちなみにリンや希理子には待機を命じてある。
わざわざ釣り針に餌を二つ付けてやるほどサービス精神旺盛ではない。
それに万一の場合、自分の命を保障する保険にもなる。
奴らの目的は言うまでもなくリンなのだから。
今俺が位置するのは自宅の門前。
彼らのまでの距離はおよそ五十メートル程だろうか。
これから俺は茶番を演じなければならない。
それは偶然敵に見つかってしまったか弱い兎という配役。
だがそれが茶番である由は獅子の配役を有した彼らが最も理解してくれているだろう。
そうなる程度には痛い目にあってもらったつもりだ。
兎と獅子の仮面を纏った俺達は追跡劇という名の演目を演じる。
―――その仮面の下に鬼の素顔を有しているのがどちらなのかを、理解せぬままに。
一時の沈黙による空隙。
この静寂を先に壊したのは契だった。
アンジェ達と視線を合わせても終始同様した様子を見せず、無表情を貫いた揚句、背中を見せて一目散に逃げ出したのだ。
「やはり前回同様、一対多での直接戦闘は避けるか。」
呟きと同時にビリーが走り出す。
アンジェとトロイもそれに続いた。
逃げぶりにしても前回同様、フェイントと地の理を生かしたコース取りに契と彼らとの距離は離れるかに思えたが、その距離は中々開かない。
常に一定の距離が保たれた状態だ。
契はチラリと後ろを除き見る。
どうやら二日間遊んでいたわけではなさそうだ。
彼らもここら一体の地理を大分理解しているようで、コース取りによる有利が無くなっている。
もしリンを連れていたら瞬く間に追いつかれていただろう。
まぁ逃げきる気など端から無いのだが。
樹木の用に枝分かれする小道を不規則に折れ曲がるコースを取っていた契が、気付けば不自然なまでの直線コースを走り続ける。
揺れる背中を見つめ続け、その光景に若干アンジェ達が慣れた瞬間、彼の姿がふっと消えた。
それは彼らの慣れによる視覚の緩みを絶妙に捉えたコース転換。
実際には小道を直角に折れ曲がっただけなのだが、その効果は大きく彼らは若干の焦りを感じる。
「っとに、ただもんじゃないな。」
呆れる様に呟いたトロイ。
だがそれは紛れもない心の隙だった。
彼は忘れていたのだ。
戦場では心に隙が出来た者から死んで行くのだと言う事を。
曲がり角を曲がって急に体を止めたアンジェとビリー。
だが気の緩みからそれに対応できず一歩足を踏み出したトロイの足先、僅か十センチメートル程の距離から所々に鉄片が転がっている。
三角錐の中心から各頂点へと鉄刺が伸びるような形のそれは文献でしか見たことのない撒菱そのものだった。
あと一歩先に踏み出していたらその鋭い先端が足に突き刺さり、ダメージとしては大した物ではないにしろ追跡を続ける事は困難になっていただろう。
「おいおい……忍者かよあのガキは。」
本来は敵の足止めに使用されるそれは道路の一帯にバラ撒かれているが、散布した本人は逃げきる事をせず、相変わらずの五十メートル程先の距離からその様子を無表情に眺めている。
余談だが、撒菱は一般的に忍者が使うというイメージが強いが、実際は西洋での戦争時、騎馬や兵の進行を遅らせ、又その突進力を弱めるために使われたのが最初だという。
余談終わり。
アンジェはその先に立つ契の口端が微かに釣り上がるのを見る。
頭に血が上って来るのを感じるが、投擲ナイフもこの距離では恐らく効果を成さない。
今は追うしかない。
再び背中を向けて走り出した契を、追いかけながらアンジェは血が上った頭を向かい風で冷やしながら考えていた。
誘導されている。
これは確信だった。
走る姿を見ても全力で逃げきる気が無いのは明白だし、何より本来追跡を阻害する目的
を持った撒菱を攻撃、または挑発だろうか、そんな目的のために使用してきた所を見ても間違いない。
きっとビリーもトロイも同じ事を考えている事だろう。
だがそれでも追うのを止めないのは、それ以外に自分達に選択肢が無いからであり、追跡に於いて自分達は後手に回らざるを得ない。
そしてこの認識はこの先一瞬たりとも気を抜く事が出来ない事を意味する。
そして予想通りというべきだろうか。
彼が逃げ込んだ先は街灯の光もほぼ届かない、有刺鉄線に縁取られたフェンスに囲まれる荒廃した建物。
恐らくは工場の跡地だろうか。
フェンスに予め大きく開けられた穴を抜け、その先の草むらを抜けた闇の中に彼の背中が消えて行くのを目にする。
そこで一度足を止める。
「こりゃぁ……。」
「ああ、間違いない、誘い出されたな。」
トロイの呟きにビリーが確信を持って答える。
「ちっ、気にいらねぇ、終始あいつの手のひらの上で踊らされてる。」
そう、現状それは誰が見ても偽りの無い事実だ。
「だがな、罠があると分かってて掛かる程俺達だってまぬけじゃあない。それにあいつの目的は恐らく逃げる事じゃない、俺達を潰す事だ。である以上、あいつは俺達を常に捉えた位置にいるはずだ。それはこちらにも攻撃のチャンスがあるという事実に他ならない。なにより俺達は三人いる。手はいくらでも打ちようがあるさ。」
そう言って一息ついたビリーはいつも通りのトロイを前衛に据えた陣型を意識し動いた。
言葉もないその動きに答えアンジェとトロイも体に染みついたその陣型へ移行する。
「いくぞ。」
「「ウィルクッ!」」
―――こうして、ここをお互いの墓場とするべく戦いが幕をあけた。