第一幕 第五章 『回帰』
俺はただ闇を見据えている。
ただ何もない、虚無の暗黒だけが広がっている光景。
夢、希望、期待、理想、全ての望みはここには存在しない。
俺はそれでもただ虚無の空間を見据え続ける。
いつか誰かが言っていた。
真っ直ぐ前を向け、そして目を逸らすな。
目を逸らして見えて来る物は本当に己が望む物ではない。
「そんな事は言われなくても分かっている。」
絶望の闇の中、俺はただ闇を睨みつける。
自らの力で、何かを見いだせる其の日まで。
手が掴まれる。
ふと意識を取り戻した俺は見覚えの無い光景にまた寝ぼけているのかと考える。
だがそれはいつものまどろみではない。
なぜならはっきりとわかるからだ。
小さな手が、俺の手を力強く握りしめているのが。
「リンか。」
傍らに目をやれば、銀髪の少女が俺の手を握ったまま眠りこけていた。
上半身裸でベッドに寝かされた俺の背中にはいつのまにやら包帯が巻かれ、痛みが引いている。
部屋を見渡す。
清潔感のあると言えば聞こえはいいが、言ってしまえば空虚な部屋が広がっている。
全体的に物が少ないのだ。
一台の机には本立てがあり、そこに数冊の本、あとはベッドがあるだけ。
その本も教科書類だけのようだ。
淡いグリーンのカーテンがかかる窓を見ると外はもう明るくなっていた。
日の具合から推測するに、もう昼間になろうという所か。
立ち上がろうと思うが、手を握ったまま離さないリンを引き摺る事になってしまうと考えるとそれも躊躇われる。
手を離そうか否か考えている内に部屋の扉が開いた。
「あらあら、目が覚めたんですね。」
そう言って姿を見せたのは一人の女性、いや女の子か。
歳の頃は俺と同じか少し上といった所だろう。
大人びた落着きのある雰囲気、理知的な瞳がブルーフレームのアンダーリムグラス越しに優しげな視線を送る。
途中まで三つ編みで一本にまとめられた長い黒髪は左肩から前へ柳の様に流れている。
暖かな色合いのカーディガンを押し上げるのは眼を見張る飽満な胸。
その割に細い腰はさらにその果実の重みを強調している。
外見だけ見るならば一番適した例えは聖女だろうか。
「どうにも世話になったみたいだな。礼を言おう。」
「どう致しまして、私はただその女の子のお願いに答えたに過ぎませんが。それに私如きが他の方のお役に立てたという、それだけで私は幸せですから。」
そう微笑みながら言う彼女の顔には欠片の含みも見られない。
本心で言っているとしたら希少を通りこして絶滅危惧種レベルの善人だ。
「それに、感謝するなら私よりもその子にしてあげてください。私が処置した後も朝方まで起きていて貴方の手を握り続けていたんですよ?本当に優しい子だと思います。」
そういって彼女は俺の隣でむにゃむにゃと眠るリンの頭を優しく撫でた。
「んみゅぅ……パパ……もっと……。」
そう寝言で呟くリンに、あらあらと微笑む聖女はパパという発言には触れてこなかった。
説明すると面倒な事になるので非常に助かる気遣いだ。
「差支えが無ければ名前を教えて貰えないか?」
「私ですか?私は希理子、渚 希理子と申します。覚えて頂けるなら幸いです。」
多少の恐縮を含めた笑顔で希理子は答えた。
「希理子、か。恩人の名前だしな、せっかくだし覚えておこう。」
「ふふっ、恩人だなんて……嬉しい。それならお礼に、というのも変ですが、貴方とこの子のお名前を教えて頂けませんか?」
「ああ、俺は夜長 契。この子の名前はリンだ。聴かなかったのか?」
「ええ、治療に必死でしたから、つい聴くのを忘れてしまいました。リンちゃんも、契さんをずっと心配していて聴ける雰囲気ではありませんでしたし……。リンちゃんは契さんの事を本当に大事に想っていらっしゃるみたいですね。」
俺は微笑ましくリンの寝顔を見つめる希理子に釣られてリンの寝顔を見る。
こんな傍で話をしていても起きる気配は一向にない。
「ふむ、実は俺もリンと会ってまだ間もないんだがな。」
「ふふふっ、それはきっと契さんに不思議な魅力があるからですね。」
「魅力?俺にか?」
人として必然である物すら足りていない俺に対する評価としては斜め上を狙った物だと思う。
「契さん、自分にはそんな物ない、なんてお考えですね?」
「ん?口に出ていたか?」
「いいえ、でもお顔を見ていれば何となくわかりますよ。」
そう嬉しそうに笑う希理子を俺は見つめた。
慈しみに満ちたその目を見ていて俺は漠然とした違和感を覚えた。
何だろう。
恐らく俺とは似ても似つかぬ種類の人間であるはず。
だが何故か似た匂いがする。
俺と同じ、何かが欠けているような。
ハッキリとした理由も無い感覚。
この感覚は何処かで感じた事があった気がする。
何処かは思い出せないが、ごく最近の事だ。
「さて、朝ご飯、というには大分遅いですが、簡単な食事を用意してあります。良かったら召しあがってください。」
希理子の申し出に思索を打ち切られた俺は、いつも通りの思考放棄で頭を切り替えるのだった。
希理子が部屋に食事が運んで来ると、予想通りその香りにリンは眼を覚ました。
「いいにおいする……お味噌汁のにおいっ。」
「あら、お姫様のお目覚めみたいですね。」
「お姫様というよりはこの目覚め方だと冬眠明けの熊だろう。」
「そんな酷いっ、うふふっ。」
自分の事を言われているのだと気付かないリンは、我関せずと言った様子でお盆の上の焼き魚に眼を奪われていた。
「リンちゃんの分は下に用意してありますから。」
という希理子の言葉に明らかに不満を浮かべるリン。
というのも、お腹は減っているが俺から離れたくないらしい。
「リン、お兄ちゃんと食べたい……。」
「そうか、じゃあ俺のを分けてやろう。」
効率的に考えその結論に至ったのだが、リンは首を勢いよく横に振った。
「お兄ちゃんは怪我してるんだからちゃんと食べないとだめなの!」
と、片意地を張るリンに、
「あらあらうふふ。」
と、また笑みを浮かべる希理子。
最終的には俺が十分に歩ける状態だったため三人で一階に下りて食事する形となった。
食事中は食べるのに必死なリンを置き去りにして俺は希理子と会話をする。
「見事な和室だな。」
「有難うございます。といっても祖父の趣味と言いますか、家事体も相当古くからある物なので、そのための必然と言いますか……、でも私も自分の部屋よりこのお部屋の方が気に入っています。」
部屋全体をいとおしむ様に眺めてそう答える希理子。
二階にあった希理子の部屋は如何にも現代建築といった風の部屋だったのが、一階に下りてみればそこは古き良き日本建築、といった情緒溢れる畳敷きの造りになっていた。
今食事を取っているのも畳に座布団と卓袱台を並べた和室で、手入れの良く行き届いた障子と壁に囲まれた落着きある雰囲気の部屋である。
障子を開ければ今では余り目にしなくなった縁側から、丸石に生えた苔も風情を醸し出す日本庭園が広がっている。
こちらもよく手入れされていて、猪脅しが石を打つ音が時たま響くのが何とも言えない情感を醸し出している。
「二階は増設したのか?それに立派な家で手入れが良く行き届いている割には余り人の姿を見かけないな。」
「二階は母の趣味と言いますか、和より洋を好む方だったので、お言葉の通り増設された物です。人が居ないのはここが離れだからですね。庭園を少し歩くと本宅があります。そこに祖父母が居を構えていらっしゃいます。」
母についてのくだりが過去形だったのが多少気になるが、本人の表情には微かな変化も見られない、さして口を挟む事でもないだろう。
「これで離れか、随分とお嬢様に拾われてしまったみたいだな。」
「そんな、ただの田舎娘ですよ?」
笑いながら口元を押さえる仕草も上品だ。
礼儀作法もしっかりと仕込まれているのだろう。
だがそんな事より気になる事が一つあった。
「所で、失礼な事を承知で聴かせてもらうが、その胸は本物なのか?もはや違和感を感じるレベルのサイズなんだが。」
至極真面目な顔をして問う俺の発言に、空気が一瞬凍りついた。
リンは行き成りの上にあんまりな話題転換で口に含んだ御飯を拭きそうになって必死に口を押さえて我慢している。
俺は心ばかりの気遣いにリンの前にスッっとお茶を差し出した。
そして希理子の口では無く、目を見る。
多少驚いた様子は見られるが、不機嫌さは見られない。
そして帰って来た発言に一瞬耳を疑った。
「えーと……、触って、みますか……?」
咄嗟に頭を過ったのは翼が六つ生えた変態の姿だった。
事実は小説より奇なり。
というのも、あの女が現れてからは的を得た慣用句だと思えるようになった。
当然、純粋な好奇心が俺の手を動かしたのは言うまでも無い。
「それでは、据え膳食わぬはなんとやらと言うし、遠慮なく。」
いつでも来い、と堅く目を閉じる希理子。
俺は、手を伸ばした。
と同時に、音を聞いた。
その音は鈍く、至極詳細に述べるのならば木製の箸が味噌汁のお椀を貫く音だった。
物理法則を疑いたくなる様な所業を成し遂げたのは我が義妹で有る処のリンだった。
「お兄ちゃん―――冗談で聴いたんだよね?そうだよね?」
なるほど、口は笑っているが目は笑って居ないという表現はこういう時に使えば良いのか。
天国と地獄、いや意味合いを考えるなら両方とも地獄か。
ただその目を向けられて手を止めてしまう程には迫力のある目つきだったと言える。
「ああ、冗談のつもりだったんだが、許可が下りたから折角なのでと思ってつい。」
何故だろう、自らの口から出ている言葉が言い訳がましく聞こえる。
そんなはずはない、俺が言い訳…?
馬鹿な!
それはそうと、味噌汁のお椀の中心で箸が立っている。
御飯でなら見かけない事も無い光景だが、味噌汁で見るのは初めてかもしれない。
いや、初めてだ。
お椀の下から味噌汁が零れる形跡はない。
「よし、リン、まずは落着いて両手を上げろ。今ならまだ間に合う。お前が刺してしまったその人もまだ今なら救い様がある。」
現実には既に手遅れ感が否めないが。
「うぅ…うぅぅぅ…。お兄ちゃんのえっちいいいいいいいいいい!」
言葉と同時に引き抜かれた傷口からは止めどなく被害者の体液が溢れ出る。
俺は知っている。
何せ昨晩経験したし文献としても記述されている所を見た事があるからだ。
傷口に刺さった物は、けっして抜いてはいけないのだと言う事を。
俺は希理子が持ってきた台拭きで机に広がってしまった味噌汁溜まりを拭き終わる。
ああは言ったか、お椀の中にはもう殆ど汁は残っていなかったらしく、大惨事とまではいかなかったが、事後のリンの機嫌の悪化まで含めるならば中惨事といった所であろうか。
「ふふ、リンちゃんは本当に契さんの事が好きなんですね。」
そう言って希理子はほほ笑む。
ううむ、俺を保護者として慕っている事と、俺が他人様の胸に手を伸ばす事は相反する事なのだろうか。
いまいち関連性が分からない。
だが事実としてリンがプイとへそを曲げているこの現状を見るからに原因は俺にあるのだろう。
「すまん、リン、悪かった、もうしない。」
「…………。」
ひとまずは謝るが、如何せん俺は無感情だ。
棒読みで反省の色など感じられるはずもなくリンはへそを曲げたままである。
「わかった、こうしよう。次俺が同じ事をしたら、お椀ではなく俺の手を刺して良い。」
そういう問題なのかどうかはわからないが、俺が出来る最大限の譲歩だった。
「はぁ……。」
すると呆れた様に温度の低い息を吐き出すリン。
リアクションが帰って来ただけ進展はあるようだ。
俺の選択はどうやら間違っていなかったらしい。
「その選択はないけど、お兄ちゃんに言っても無駄な事だよね、それよりもお椀ダメにしちゃってごめんなさい渚さん。そしてお兄ちゃんが変な事言ってごめんなさい。」
「あらあら、良いんですよ。」
ふむ、蚊帳の外だ。
これは許して貰えたのだろうか。
というか、リンは出会った時よりも随分と色々な感情を表に出す様になった。
これは色々と慣れて来ていると言う事なのだろうか。
それはきっと良い事なのだろう。
「うむ、丸く収まった様で何よりだ。」
「じー……。」
視線とは感情が籠っている居ないに関わらず殺傷性を持たせる事が出来るのだな、と俺は新鮮な発見に一人納得するのだった。
「さてこれからの事なのだが。」
リンはお腹が一杯になって満足したからか、それとも半徹の疲れが出たのか、あるいはその両方か、縁側で猫の様に丸くなって寝ている。
「そう言えばまだ何も事情を窺っていませんでしたね。聴いて良い事でしたら教えて頂けますと私としてもありがたいのですが。」
「そうだな、手短に話すなら、俺はリンを拾った。リンは追われていた。家から出た所で追手に見つかった。直接やりあったら肩を刺された。俺はリンを連れて逃げた。その後気を失った。そこから先は希理子が知る所だ。」
俺は事実のみを話す。
嘘は付いていない。
真実を話しているとも言い難いが。
だがその限られた情報から希理子は考え、自らの意見を述べる。
「という事は、お家に戻るのは危ないのではないですか?」
頭の回転が速くて居てくれる事は非常に助かる。
何より余計な事を根ほり葉ほり聴きだされない事もだ。
「ああ、その通りだな。間違いなくあいつらは家の前を見張ってる。」
「うん、でしたら家にお泊りになられてはいかがでしょう!」
この場合希理子が家と言ったのは、このお屋敷という事だろう。
確かにこの広さだ、部屋は有り余っている事だろう。
が、それにも色々とリスクを伴う。
「有りがたい提案ではあるが、他人を巻き込むわけにはいかないという考えもある。まぁ既に若干巻き込んでしまっている節はあるが、今ならまだ、俺達は他人から、赤の他人に―――。」
「お断り致します。」
戻れる、という言葉を遮って出てきたのは希理子から初めて聴いた、明確な拒絶。
彼女の顔を見ればさも当然といった笑顔を浮かべている。
「一度出会ってしまった以上、私たちは知り合いです。私には、神様がくれた出会いを無碍にする事はしたくありませんし、自分に嘘も付けません。何より私には―――見捨てるなんてそんな発想はできっこないんです。」
その最後の言葉には、今までの言葉には無い重みがあった。
それが何であるかは俺にはわからないが、きっと彼女が今まで生きて来て経験した中にその答えがあるのだろう。
予測した所でわかるはずもない、むしろ予測するなどそれは俺の傲慢でしかない。
「そうか、ならば是非も無い―――と言いたい所だが、それでは結局の所、根本的な解決にはならん。」
俺はそう言って思う事を切り出す。
「結局の所、奴らがリンを追い続けるからと言って俺達がここで死ぬまで匿われ続けるわけにもいかない。それはわかるな?」
私は別に構わないのですが、とボソっと聞えた様な気もするが、本心ではそれがどういう事かを理解しているはずだ。
人の一生を左右する権利はその本人にしか存在しない。
「それに匿われ続けたとしてもいつかはバレる。時間の問題だ。」
あいつらが黙って家の前だけにへばりついているわけはない。
戻って来ないと考えれば当然捜索の手を広げるはずだ。
「である以上、結論は一つだ。」
「ま、まさか、戦うおつもりですか?」
「それ以外無いと言うならそうするまでだ。」
結論は簡単。
追手を潰してしまえば問題はない。
流石に追手をたった一人のガキに一掃されたとなればある程度の時間は相手側も手を出しては来ないだろう。
ただそれが出来るかの話なのだが。
普通なら無理だろうと思う。
だが、俺は幸運な事に―――いや残念というべきだろうか、普通ではない。
「そこで希理子、お前が協力してくれると言うのなら是非頼みたい事がある―――」
その日の夕方、ホームセンターで頼まれた物を買い終え、とある専門店に来ていた希理子は買い物のメモの残りの項目に目をやる。
「いったい何に使うおつもりなんでしょうか……これ……。」
品目を見る限り健全な日曜大工に使うというわけではなさそうだ。
だがそんな事は関係ない。
一度得たものを失わないため、そのためならば自分は何でもする。
そう何でもだ。
それは希理子が、あの時から、定めた自らの生き方であり、全てだ。
失うのはもう十分だ。
私は、私が得た物を、自分の出来る限りの力で守り抜く。
そう、誓ったのだから。
注文の品を一通り聞いた店の主人は訝しげな瞳で希理子を見た。
「……これ、何に使うんだい?」
私は予め彼から伝えられていたセリフを一点の曇りも無い笑顔で返した。
「学校の授業の実験ですっ。」
その頃俺は希理子に案内して貰い入った歴史を感じさせる古造りの蔵の中で、埃を被った蔵書の数々に目を向けていた。
こういった中には必ずと言って存在する、実用的な蔵書を探すためだ。
蔵は全くと言って良いほど長い事開かれた形跡がなく、積もり積もった埃で蔵書のタイトルはいちいち見づらい。
使われている文字もかなり古い物で、読めない事は無いにしろその解読にも若干時間がかかる。
さらに言えば蔵書以外の、皿、壺、衣服、絵画、巻物等の骨董品の数々が邪魔をして中々捜索が進まない。
そうか、時代を考えるのなら巻物の可能性もあるのか。
捜索範囲が増えてしまった。
だが、焦る事は無い。
時間はたっぷりとある。
それでも、無限ではない。
新学期まで一週間あるか無いか。
こんな事で入学式に出席できないなんて、折角入学の為に色々と用立ててくれた祖父母に申し訳が立たない。
そして何より。
俺自信の目的を達成するためにも、こんな些細な事で時間を浪費するわけにはいかない。
人生とは、時間が限られている物なのだから。
そんな事を考えつつ作業を進め、もう三つ目になるであろう書架の棚の埃を払う。
どうやらタイトルを見る限り当たりのようだ。
「ふむ、より質の高い物で有るといいのだが。」
俺はそう呟いて、蔵書を読み漁るのだった。