第一幕 第四章 『回想』
この以下略。
「パパ……暖ったかい……。」
あ、ありのまま今起こったことを話そう。
朝起きたら、俺の隣に幼女が寝ていた。
な、何を言っているのか分からないと思うが、俺も何を言っているか良く分からない。
頭がどうにかなりそうだった。
JKとかJCとかそんなチャチなもんじゃ断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。
つまり何が言いたいのかと言うと、俺は頭が悪い。
違う、間違えた。
もとい、俺は寝起きが悪い。
というよりは、目覚めた瞬間の判断力が著しく低下する傾向があるのだ。
つまり、昨日の夕方例え自ら少女を家に連れ込んでいたとしても、そのまま一緒に夕食をとっていたとしても、そのままお風呂に一緒に入ったりしていたとしても、その内容を朝目覚めたこの一瞬だけは完全に忘却していてしかもあろうことか若干動揺してしまったという事だ。
ああ、思い返してみれば、俺はもう桜田門のお世話になっても文句が言えない立場に居るのだ。
何せ寝ぼけ眼でむにむに言っている目の前の生物は俺が例え色々と欠落している人間だとしても危険だと判断できるレベルの愛くるしさを内包している。
世の大きいお友達、もとい童貞諸君ならば朝立ちしたイチモツをそのまま沈めに掛かろうと考えてもそれはそれで致し方ない事なのかもしれないと思えてしまう程だ。
ああ、俺はいったい何を言っているのだろう。
とりあえず落着こう。
まだまどろみから抜けきれない俺は、いつの間にかベッドから降りて布団に潜り込んでいたリンを起こさない様に、静かに立ち上がると、洗面所に向かい顔を洗った。
時計を見ると時刻はまだ朝五時半。
今日の予定を考えれば若干早過ぎる時間だと言える。
まずは昨日寝る前に洗濯機に放り込んでいた洗濯物を気だるい頭で覗き見る。
衣類の中には普段見慣れない縞々の三角形の布っきれだとか、純白のワンピースだとかが入っていたが、そんな事は気にするべき事項ではない。
思考を置き去りに習慣で身に付けた反射によって衣類をそのまま乾燥に放り込んでいく。
亡き母が悩みぬいて購入したこの乾燥機は、大容量の衣類を労わりつつも太陽の元で干すのと変わらないような仕上がりにしてくれると評判の逸品である。
と言っても、昨日帰宅してからの洗濯物なので二人分+α、大した量ではない。
放りこみ終わったらスイッチを押してあとはコトコト三十分待つだけである。
俺は一先ず自分の部屋に戻り、クローゼットから黒のトレーニングウェアの上下を取り出す。
ちらりとリンの様子を見るが、まだぐっすりで起きる様子は無い。
ここで着替えても問題ないか。
ささっとトレーニングウェアに着替えて俺は家を出る。
軽くアップを済ませ、いつも通りの決まった道筋を、いつも通りの一定のペースで走る。
入院している間ご無沙汰だったので、いつものペースを維持するのが若干辛く感じるが、少し無理をしてでも元の調子に戻しておかなければならない。
リンが来た以上、あの女の言うとおりならばこれから色々と面倒事が起こるはずだからだ。
三月の朝、冷えた空気が頬を切る感覚が熱くなってきた体には心地がいい。
三十分程掛けていつもの決まったコースを回り、家が近くなってくるとやはりあの光景を思い出してしまう。
だが、思い出すだけで特に込み上げる感情など無い。
それは、自らが選択した現在であり、捨て去った過去であるとも言える。
目的を果たす、ただその一点に己を集約するために。
自宅に戻ると時刻は六時を過ぎていた。
リンはまだ眠っている様で、足音は聞えない。
一先ずシャワーを浴びて汗を流し着替えを終える。
既に停まっていた乾燥機の中身を取り出して、折りたたんだら次は朝食の準備だ。
こうして居るとリンが俺をパパと呼ぶのも何となく頷ける気がしてしまう。
実際の所、父と母は仕事で家を空ける事が多かったので家事全般は自分でこなす事が多く、手順は慣れたものだ。
今日の朝食は昨晩の味噌汁、ベーコンエッグと付け合わせにレタス、白い御飯も勿論欠かせない。
味噌汁を温めると、いつも通りの朝の香が部屋に立ち込める。
時刻は七時を少し回った頃だろうか。
「そろそろ起こすか。」
「誰を起こすの?リンが起こしてこようか?」
「いやなそろそろリンを……」
「リンー?私―?」
あれ。
「お前いつからそこにいたんだ。」
気が付いたらリンは食卓についていた。
「さっきからー!」
「さっきがいつかはわからんがまぁいいか、朝飯にするぞ。」
「うんっ!」
ふむ、色々と調べる事がある見たいだな、気配の察し方なんて文献があるかどうかは知らんが、探してみる価値はあるかもしれない。
他にも色々と目処を付けている文献がある。
これから色々と荒事の渦中に立つかもしれないのだ、準備をし過ぎて困る事は無い。
今日もまた、永い一日になる事だろう。
「はっはっ、はっはっ。」
「ううぅぅっっ、うーっ!」
まぁ予想通りというべきか、その日の内にこうして黒服の変態が編隊を組んで襲ってきているわけだが。
どう変態か、と問われれば、俺はともかくあいつらの目的は恐らくリンだ。
幼女を大人三人がかりで追いかけまわすなんて変態の所業としか思えない。
時刻にして深夜零時。
鬼ごっこのスタート地点は我が家の玄関だ。
今日一日、まずリンの服を調達後、図書館で色々と調べ物、その後専門店でちょっとした仕掛けの調達を済ませた。
その後自宅に戻って夕食を食べ若干の作業をしたまではよかったのだが、夜の散歩がてらコンビニまでデザートを買いに行こうと出かけたのがまずかった。
やはり子供は夜九時には眠りに就かせるべきだったのかもしれない。
家から出た所に丁度我が家を見張っていたらしい黒服三人と遭遇。
始まったのがこの鬼ごっこというわけだ。
正直、リンを連れての追いかけっこは分が悪い。
今の所は地の理を生かした撹乱目的の道をたどる事である程度距離は離しているが、このままではいずれは追いつかれるだろう。
「うぇぇー……、リン疲れたよぅ……。」
リンもこの様子だ。
どうしようかと思惑に耽る俺の目に入ったのは見慣れた校舎だった。
ふむ、丁度いいか。
「お姫様、ちょっと失礼しますよ。」
俺は返事を待つ事無くリンの体を抱き抱え、そのまま校門を飛び越える。
後ろでは黒服三人の追ってくる足音が未だに聞こえている。
どうやらこのまま校舎に隠れてお終いというわけにもいかなさそうだ。
丁度試してみたかった事もいくつかあったので彼らには実験台になってもらう事にしよう。
問題はまずどう仕掛けの時間を稼ぐか。
こうして今夜この校舎は、俺の実験場へと姿を変えたのだった。
「クソッ、クソッ、クソッ!」
あのペド糞野郎、生意気だ。
そう感じたのは奴らを追いかけ始めて三分もしない頃だった。
こちらは三人。
相手はチビ餓鬼を含めた二人。
追いつけないはずがないのだ。
だが、道々で此方の先を読む様なルートを各種フェイントを入れて選択してくるためになかなか追いつく事が出来ない。
それどころか距離を離されている節がある。
確かにここに派遣されてまだ数日、地の利は間違いなくあちらにあるとはいえ、こうも手玉に取られているようだと、だめなのだ。
抑え切れない、怒りを。
アタシには、怒り以外の感情が存在しない。
それは、『とある悪魔』との契約で、驚異的な身体能力を得た代償に怒り以外の感情を支払ったからだ。
だがアタシは後悔していない。
それどころか、むしろ力を手に入れた上で余計な感情を取り去ってもらえた、アタシにとっての一石二鳥の取引だったと思っている。
何より、この力は素晴らしいものだ。
もう身寄りが居ないアタシがこの組織で、『悪魔の枝』(ミストルテイン)でやっていけるのもこの力があるからこそだ。
そう、アタシがここに居る為にも、アタシがアタシであるためにも、さっさとあの糞肉たらしい餓鬼をとっ捕まえなければならないのだ。
「おいエンジェル、ぼさっとするな、標的が学校に逃げ込んだぞ。」
仲間の一人、禿頭の男、ジニーが思案にふけっていたアタシに声を掛ける。
アタシは人に指図されるのが大嫌いだ。
「てめぇに言われなくてもわかってんだよ禿っ!次アタシの事エンジェルなんて呼びやがったらケツの穴にアタシのナイフぶち込んでやるからな!」
アタシはアンジェ。
アンジェはこの組織に拾った野郎が勝手に付けたコードネームだ。
怒り(アングリー)をもじったこの名前をアタシは気に言っている。
だが皮肉を込めて、仲間はアタシをエンジェルと呼ぶ。
本当に、考えたついた野郎をぶっ殺してやりたいくらいに気の効いた皮肉だ。
だが今はそんな事よりも、目の前の獲物を狩って、怒りを鎮めたい。
随分とコケにしてくれた代償は高い物になりそうだ。
殺さない様、自分を抑えなければならない。
標的に一歩遅れて校門から侵入する。
まず前衛、短髪の男、トロイが侵入後、役割として安全を確保する。
次にジニーが侵入し敵を威嚇、そこをアタシがしとめる。
それがアタシらの基本陣形だ。
だがまずトロイが侵入する時点で声を上げた。
「なんだこれは……。」
校門を越えた先に広がっていたのは、一言で言うなら煙だった。
視界いっぱいに広がる煙。
夜間、街灯に照らされた白煙で校舎入口への視界はほぼゼロの状況だ。
所々でオレンジ色の光が垣間見える所を見ると、恐らく発煙筒を使ったのだろう。
「油断するなっ、逃げる時に見せていたあの動き、あのガキは普通じゃないぞ。」
リーダーであるジニーが警戒を促す。
「「ウィルクッ。」」
トロイとアタシは義務的に返事をする。
ちなみにウィルクとはwill complyの略で、命令に従う、という意味を表す。
考えなしに煙の中を進むのは危険だが、おちおち逃がすわけにもいかない。
三人で三方向を警戒しつつ、校舎に侵入すると煙も流石に届いていない様子だ。
だが奴らの姿はない。
大方予想通りというべきか、発煙筒はただの目くらましだった様だ。
「トロイは俺と中、アンジェは外で警戒。いいな?」
「ウィルクッ。」
「ざっけんな!アタシが中だ!」
「落着けエンジェル、今のお前じゃ標的を殺しちまいそうだ。少し外で頭冷やしてろ!」
「この糞禿、またその名前で呼びやがったなっ!糞っ、外に出てきたら覚えてろ!」
「ウィルク。」
片目を瞑って軽くウィンクして去っていくジニーの後ろ姿を見てナイフを投げつけたい衝動を抑える。
あの糞禿、気持ち悪りぃウィンクなんぞ残していきやがって。
もちろん、外で待つと言っても休んでいて良いわけではないのは分かっている。
その時自分が出来る最高の仕事をしろ。
それがジニーの口癖だ。
アタシはアタシの出来る事をしよう。
そしてこの後、校舎からジニー、トロイ、そして知らない男の悲鳴が聞こえ、アタシは人生で二度目の敗北を味わう事になるのだった。