第一幕 第一章 『事起』
このお話はフィクションです。
以下略
一ヶ月前、高校入学を目前に控えた俺は、残った春休みを特に何をするでもなく、ただいつもどおりに過ごしていた。
だがその日はいつもと違い、目覚めた時には早朝にランニングを行ういつもの時間を3時間も過ぎていた。
いつもならランニング後に食べる朝食を起きたばかりで余り食欲のわかないままに胃に詰め込む。
だがランニングは毎日行うから意味がある、という持論を持つ俺は、既に朝食を食べ終えてテレビを見ていた両親に軽く声を掛け、ランニングに出かけた。
「車に気を付けろよ。」
「水分補給は忘れちゃだめよ?」
そんな声を掛けられ家を出た覚えがある。
ほんの三十分程度だっただろうか。
いつものランニングコースを回り家に戻った俺は遠目に、家の前に停まる一代の黒い年代物の高級車を見かける。
それに乗り込み走り去る一人の神父。
一抹の不安を感じ、自宅玄関の扉前に立つ。
普段よりも重く感じるそれを開くと、家を出た時と変わらずに流れるテレビの音に杞憂を感じた。
ただいまの声と共にリビングの扉を開いた。
そこは俺の知るリビングではなかった。
まるで演劇の舞台の様な、浮世離れした光景。
―――ドクンッ
一面を染める真紅のカーペット。
―――ドクンッ
乱雑に配置された家具
―――ドクンッ
漆黒の闇を抱く、光の無い双眼。
―――ドクンッ
糸の切れた人形
「あ、あぁ、ぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
―――俺の意識は、一度そこで途切れた。
気付いた時には病院のベッドの上。
目を覚ましてまず視界に入ったのは沈鬱な面持ちを浮かべる母方の祖父母だった。
両親の死体と共に倒れていた所を発見された事、これからは祖父母の元で暮らすことになるであろう事を嗚咽混じりに告げられ、現実感を得られないままに他人事の様に聞き流した。
一通り話が済んだ所で、控え目なノックの音と共にスーツを着込んだ中年の男が二人、病室に入って来る。
怪訝な顔をする祖父母の事など意に介さない様子で俺に事情の説明を求める警官に、ただ早く静かな空間を求める一心で、自らの見た物を淡々と説明する。
職業柄なのか俺の態度が気に入らなかったのかは知らないが、終始胡散臭そうな目でこちらを見つめていた警官は、一応は納得といった様子で病室を出て行った。
祖父母に対しても、少し一人にして欲しいと病室から追い出し、ようやく静寂が訪れる。
そこでやっと、両親の死という非現実的な、だがまごう事無き現実を実感し、胃がねじ切れるかのような痛みに襲われた。
ノドまで込み上げる不快な酸味にさらに気分が悪くなる。
起こしていた体を横たえると不快感から体が逃れたがるかのように、急激な睡魔に襲われ、それに抗う気も起らず汚泥の様な眠りに落ちた。
不意に目が覚める。
瞳にはただ真っ白の天井が映り、カーテンの隙間から忍び込む月明かりと街灯に反射して青白く光るそれは、病室の静寂を際立たせていた。
病室で目が覚めてから初めて、落着いて周りを見渡す。
どうやら俺は怪我も負っていない身分で個室に寝かされているようだ。
何か他の病人に申し訳ない気もするが、それ以上にこれから先の事に対する不安や、両親を同時に失った悲しみ、そして自分だけが助かってしまったという事に対する罪悪感。
微かに存在する、自分だけは助かった、という安心感。
そんな腐った物が自分の中に確かに芽生えているという事を、否定する事が出来ない自己嫌悪感。
そして恐らく両親を殺したであろうあの神父へのただただ純粋な怒り、いや殺意と言っても差支えはないだろう。
それらの感情が同時に頭をめぐり、心を引き裂く。
胃の腑が抉られる様な痛みを伴う感情の昂りに、治まっていた嘔吐感がぶり返してくる。
―――殺してやる。
生半可な殺し方じゃない、考え得る限りの苦しみ、痛みをもって。
だがわかっている。
俺にそんな力は無い。
心が黒い何かに押し潰されそうに、飲み込まれそうになる。
そんな時だった。
―――……げようか。
それは耳穴を通り、鼓膜を振るわせる様な音ではない。
―――叶えてあげようか。
響いてくる。
頭の中から直接、声が。
「……誰だ。」
―――ふふっ、どうだっていいじゃない、そんな些末な事。
ハープの音に意味を持たせたような美しい声。
―――私には貴方の願いを叶える力がある。
人を見下した、嘲笑まじりの口調。
―――そして貴方は願っているし、願いの代償だって持ってる。
「代償……?」
それは、前触れなく現れた。
「―――そう、代償よ。」
脳に響いていた声が、気づけば耳朶を振るわせる波をもった音となる。
気のせいだと思いたいが、残念な事に耳元に感じる吐息を気のせいだと言い切れる程おれは鈍感には出来ていない。
意を決して、突如現れた存在に目を向ける。
「なっ……。」
そう無意識に呟いてしまう程、それは人間離れした美しさを持っていた。
肩にかかる銀の髪は暗い病室の中で夜の光を浴びて光の粒子を放ち、釣り目がちの瞳は不敵な笑みを浮かべる。
色素の薄い朱色の唇は両端が吊りあがり、それは今にも唇と唇が触れてしまいそうな距離にある。
熱い吐息が肌に触れ、完全に身動きが取れなくなる。
そこで視線はようやく彼女の背中を捉える。
一瞬自分の目を疑ったが、そこには確かに翼がある。
三対、六枚からなる大鷲のような翼。
しかしその色彩は大鷲のそれとは異なっていた。
一方は暗闇の中で逆に際立つ程の、漆黒。
そしてもう一方はその物が光を放っているかのように白く輝く、純白。
頭に浮かぶのは、天使と悪魔の二語。
視線を下げれば前かがみにしなだれかかるような体勢からの必然というべきか、彼女の大振りな双丘が露出の多い薄灰のフリルドレスの胸元から溢れんばかりにその存在を主張している。
もし今も眼前でフワフワと動いている六枚の翼がなければ、どこのコスプレ会場から紛れ込んできたかと思う様な、頭の先から爪先までがゴシックファッション。
おまけに、熱くもない病室で紅潮し、若干熱を帯びた様子を窺わせる大粒の雫をその胸元に湛えている。
「あららー?お姉さんのこれに興味でもあるのかしら?」
視線に気付かれ、俺は大きく揺れた二つの果実から慌てて目をそらす。
一度目を閉じ、まずは冷静さを手繰り寄せる。
「はぁ……ちょっと待て、まずは少し離れろ。」
先程から危うい距離と体勢を保ったまま動こうとしない彼女の肩を、半ば無理矢理に押してどかせる。
肩に触れると、シルクの様な肌触りの薄い布越しでも、彼女の体が熱を持っているのがわかってしまう。
そのうえ肩に触れた瞬間、ビクリと体を震わせ、切なくも短い嬌声を零すときた。
悪魔や天使というより、淫魔というイメージがシックリとくる。
「んもぅ……強引な子ね……。」
などと口にしながら、されるがままに体をどけるが、その瞳は明らかに此方の反応を見て楽しんでいる節があった。
そうはさせるものかと、意地になり無表情と無反応を誇示する。
「せっかくのサービスだったのに、勿体ない事したわね少年。」
そんな事をのたまいながらしぶしぶ二本の足で立つ彼女を見て、少なくとも幽霊ではない様だと安心する。
もしかしたら幽霊であったほうが幾分かましだったかもしれないが。
「さて、単刀直入に聞こう、お前は一体何だ?」
彼女の瞳を真っ直ぐに見詰めながらそう問う。
だが彼女は含み笑いを湛えるだけだ。
なので続ける。
「俺の脳内妄想だとするなら、俺は随分欲求不満らしい。」
ため息混じりの俺の言葉に、
「妄想ねぇ……?試してあげよっか?」
そう言いつつ妙に色っぽく体をくねらせると、割とぴったりしたドレスなのか、やたら二つの果実が強調されるので取り合えず、呆れたように目を伏せる。
「妄想かどうかなんて、触れてみないと分からないんじゃない?」
「うるさい淫魔、妄想でないなら夢だ。そうでなければただの変態だ。」
「あらあら……随分失礼なボーヤね、妄想と夢に大差なんてないでしょう。だいたいこんな絶世の美人の変態なんているかしら翼もあるし。」
さて、頭がおかしいのは俺か、この女か、どちらの方だろうか。
諦め悪く、【夢から覚める】だとか【誘惑に乗る】だとか、ノベルゲーム的選択肢が眼前に現れる事を願う。
もちろん選ぶのは前者だ。
だが待っても一向に現れないであろう物にに期待を抱くのはとても生産的とは言い難い。
頭を切り替えて女に向き直る。
「それで、俺に一体何の用だ、変態オブ夢の住人(願望)よ。」
ちなみに(願望)まで口に出している。
人と人とのコミュニケーションに限らず、人と人ならざる者(変態)のそれにおいても、相対する対象には自分の感情意思を分かりやすく伝える必要があると俺は常々考えている。
それが100%悪意だとしてもだ。
「人間不信な子ね、あなた友達いないでしょ。」
「その言葉が使えるのは恐らく相手が人間である場合のみだ。友人については余計なお世話だと言わせてもらおう。」
俺の名前は夜永 契、孤独を愛する一匹狼だ。
英語でいうならロンリーウルフだ。
涙?これは心の汁だ。いや汗だ。危ない、棒が一本足りないだけで大変な事故を起こすところだった。
「いまの構想事体が大事故だと思うわ。」
「何を言う、この程度の事象を事故扱いしようものなら年間事故発生件数において某神○○県を追い抜いてこの県が常に不名誉の一位を取り続ける事に……ん……?」
警察の憂い顔を想像する前に何かがひっかかった。
「おいお前、俺の名前を言ってみろ。」
「ジ○ギ様。」
そのネタは今の世代に通じるのだろうか、微妙なラインだ。
「俺は核で破滅した世紀末を生きた覚えはない。」
「冗談よ、契」
「ふむ……一応聞こう、どうして俺の名前を知っている。」
「んふふっ、病室のプレートに書いてあるじゃない?」
わざとらしい笑顔でそんな事をのたまう。
とんだ女狐だ。
こちらが気付いているであろう事にすらどうせ気付いているのだろうに。
「書いてない、苗字しかな。貴様、人の思考を読み取れるのか。」
「……んふっ、頭の回転が速い子は好きよ?」
そう言って、翼を折りたたみベッドの縁に腰掛ける。
自然に此方に向ける事になった背中は、翼を出すためなのか大きく開いた作りになっている。
正直。目のやり場に困るし、いらない事にも気付いてしまう。
まさに前門の虎、後門の狼だ、いやまぁ少し違うか。
「下着くらいつけたらどうなんだ……。もとい、そろそろ質問に答えろ。お前は何者で、俺に何の用だ。」
表情が見えない為に、こいつが何を考えているかが察しづらい。
そもそも表情が見えた所で内面を悟らせるような易者でもないかもしれない。
だが、感じる雰囲気は先程の様な冗談めかしたものではない。
俺はいつしか気付いていた。
自分が、この胡散臭い美女に、人ならざる者に、期待を抱いている事を。
自らの願いを読み取り現れたこの女が、何かを秘めている事を。
そして彼女はこの先の俺の人生を大きく変える取引を持ちだした。
―――私と契約をしましょう、契。