中学受験と銀行強盗
(一)夫
黒くて細い秒針が、12の文字を通過した。
あと一分だ。オレは、課長のハゲあがった頭の八十センチほど上に架けられた古ぼけた時計を見つめた。オーソドックスな白い文字盤が、赤茶色をした正方形の木枠に囲まれている。
今日は大事な日だ。仕事なんてしてる場合じゃない。
「じゃあ、頼むね」
六時間前のツマの言葉が、耳の奥を駆け巡る。
オレは鞄のファスナーを開くと、「重要書類」が入っている封筒を左手で触って、その存在を確認した。
正午になった瞬間、オレは鞄を背中に背負ってダッシュした。ビジネス仕様ではあるが、リュックにもなるこのバッグは、使い始めて十年になる。
オレは会社を出ると、外濠方向へ向かった。太田道灌が作ったとされる江戸城は、本格的な造営がなされたのは秀忠の時代で、家光の治世で完成した。広大な地域を囲む外濠は、今なお満々と緑色の水を貯えている。
その外濠の土手に沿って、JRがひっきりなしに走り、地下には東京メトロが運行している。
最初の目的地に着いた。銀行である。自動ドアからまっすぐに進むと、目指す窓口はすぐ目の前だった。
整理番号を発行する機械から薄っぺらくて小さな紙片を引き抜くと、そこに印字された数字とカウンターに設置された電光掲示板とを見比べる。
(やれやれ、十人もいるのか)
オレはふうっとため息をつくと、黒い革張りのソファに腰を下ろした。いや、革ではなく、おそらく安物の合成樹脂であろう。目の前のマガジンラックには、「住宅ローン」だの「ご融資」などのパンフが見えるが、オレには興味がない。
鞄から文庫本を取り出して目を落とすが、なぜか心が小説の中に入っていかない。本を開いたままページから視線を離して、カウンターで働く女性行員の姿をながめた。若くて美人だが、オレの職場のお局に負けず劣らず厚化粧だ。
オレの娘も、あと十年もしたら、あんな風になってしまうのだろうか?
オレは軽い恐怖を覚えた。
(いやいや、オレの娘は、そんじょそこらの娘じゃない)
娘が中学受験を決めたのは、ちょうど二年前のことだった。四年生の終わりからでは、遅いスタートといえるだろう。以後、高学年の二年間を、娘は、いや一家三人は、受験一色で過ごしてきた。
ツマはパートで残業できず、四時の時報とともにあわただしく帰宅して弁当、すなわち娘の夕飯を作って軽自動車で塾まで送った。
忙しいツマの負担を少しでも軽減するため、オレは塾からの帰りのクルマを担当した。週三回。その日はオレもなるべく残業をしないで、当然酒も飲まないで直帰した。
塾は自宅から歩いて二十分ほどの駅前にある。人通りも多く決して危ない場所ではないが、なにしろ授業が終わる時間が遅い。そしてなんといっても一人娘である。
夜の九時少し前になると、塾の前にはハザードを点滅させた違法駐車の列ができる。みな小学生の親たちだ。オレもその一人だった。カーラジオで文化放送ライオンズナイターを聞きながら、塾の入口の蛍光灯ををぼんやり見つめていた。この二年間、オレはそんな日々を過ごしてきた。
六年生になると、土日もなくなった。土曜日は志望校別の特別授業、日曜日はほぼ毎週のように模試だ。クリスマスも正月もなかった。受験生にとって直前の追い込み時期である。
今振り返っても、信じられないほどハードな日々を、小学生の女の子が過ごした来た。我が娘ながらなんと根性があるのだろう。いったい誰に似たのだろう。
厚化粧の行員がなんとなく視界に入っている。だが目に浮かぶのは、ここ二年間の過酷な受験生活だ。
と、その時であった。
「動くな」
怒声とともに、強烈な火薬の破裂音が耳朶を打つ。銃声だ!白覆面の男がライフル銃を持ってがなり立てた。
銀行強盗だ。
テレビドラマやニュースでは見るものの、まさか本物に遭遇するとは思ってもみなかった。なぜか怖くはなかった。あまりに自分の経験とはかけ離れた出来事に、現実感がなかったのかもしれない。
(二)妻
黒くて細い秒針が、12の文字を通過した。
ワタシは、チーフの大仏パーマの八十センチほど上に架けられた古ぼけた時計を見つめた。オーソドックスな黒い文字盤が丸い木枠に囲まれている。
「じゃあ、頼むね」
六時間前のオットに頼んだ言葉が、ふと思い出された。
その言葉を思い出しながら、出勤途中で買ったコンビニのサンドイッチの包装を開封する。今頃はちょうど銀行で手続きをしているころだろう。
本当はもっと早く手続きを済ませたかった。が、実家の母が倒れて奄美大島へ帰らねばならなかった。幸いそちらの方は大事なく落ち着いたものの数日を費やしてしまった。しかもオットの方も仕事の出張が重なり、まったく間の悪いことだ。
ワタシは思う、合格発表日から入学手続き締切日まで、何故こんなにも日数が短いのだろうか。少し不満である。事故や急病など突発的なトラブルで手続き出来なかったらアウトではないか。そんな不安が一瞬脳裏をよぎったものの、なんとか日程をやりくり出来、最終日の今日、職場が学校と近いオットが行ってくれるからホッとしているところだ。
昼休みも終わりに近づいたころになって、机に突っ伏して昼寝をしていた御歳六十三の職場の生き字引が、突然むっくり起き上がり、テレビのリモコンを掴んだ。朝ドラの再放送を見るためであった。が、NHKは朝ドラではなく、喧噪の中で臨時ニュースを伝えていた。
「今日正午過ぎ、四菱東京UFO銀行市ヶ谷支店に、強盗が押し入った模様です」
(えっ。四菱東京UFO、市ヶ谷)
オットは今まさに、そこに行っているはずだ。一瞬にして血の気が引いていくのが自分でも分かった。
と、その時であった。
ギイッ、ギイッ、とスマホが音を立てた。緊急地震速報だ。久しぶりに聞いた気がする。直後に激しい揺れが襲った。蛍光灯が大きく揺れている。震度5強にもなるだろう。立っているだけで精一杯だ。
オットは銀行強盗に遭遇、そして大地震。娘の入学手続きは、いったいどうなってしまうのだろうか?
(三)夫
白覆面は間抜けだった。
だいたい銀行強盗ってヤツは、疾風のように現れて疾風のように去っていくのが常道だ。さっさと行員に現金を持ってこさせ、バッグに詰めさせ、あっという間にいなくなるのが正しい銀行強盗のあるべき姿ってものでないのか。
しかるに、こいつはいったい何をやってるんだ。一発ぶっ放して銃を突き付けてはいるものの銀行員への命令が不明確だ。しっかりしろと言いたい。行員たちも何をどうしていいのか分からないではないか。
そうこうするうちに、外が何やら騒がしくなった。警察車両が銀行を包囲したようだ。案の定誰かに通報されてしまったのだ。
「君たちはぁ、完全にぃ、包囲されたぁ。すみやかにぃ、武器を捨ててぇ、出て来なさい」
強盗は逃走する機会を失ってしまった。このままでは「立て籠もり」という持久戦になってしまう。
「持久戦」。オレにとって、これほど困ることはない。今日の三時までに娘の入学手続きを終えなければならない。これはオレにとって絶対的なミッションだ。
しかし、なんということだろう、警察も犯人も数時間の膠着状態となることを選択してしまったのだ。
最悪の事態だ。娘の一流私立中学入学手続きは、今日の三時までだ。手続きを終えなければ、娘の努力は無に帰する。そしてこれからの娘の人生は暗転してしまう。あんなに頑張ったのにもかかわらず。そして結果を出したにもかかわらず。あの白覆面のせいで。
何とかしなければならない。何とか入学金の手続きを済ませて、学校まで行って期限までに提出しなければならない。それがオレの使命である。しかし、どうやって。オレは頭を抱えた。
と、その時であった。
ギイッ、ギイッ、とスマホが音を立てた。緊急地震速報だ。久しぶりに聞いた気がする。直後に激しい揺れが襲った。蛍光灯が大きく揺れている。震度5強にもなるだろう。立っているだけで精一杯だ。
天祐だ。今しかない。
オレは、この機を逃さず揺れる大地を踏みしめて、白覆面に突進した。
ヤツのライフルを両手でつかんだ。全身全霊で銃身にしがみついた。
「抑えろ」
オレの魂の叫びを聞いた他の客たちが、いっせいに白覆面に襲いかかった。今しかない。命がけの格闘が始まった。オレは絶対に銃から手を離してはいけない。離した時は死ぬ時だ。
七十近い爺さんが、強盗の足元めがけてスライディングを敢行した。両足を取られた白覆面は、もんどりうって仰向けに転倒した。
すかさず五人もの男たちがのしかかる。床の上に、何人もの人間が折り重なって山を作った。もちろん一番下にいるのが強盗犯だ。
勝った。
犯人はあっという間に取り押さえられた。制圧に直接参加しなかった女性行員が、ロープを持って来た。犯人の全身を縛り付ける。素早い、慣れている。その手つきは妙に手際よい。おそらく日常的に人間を縄で縛ることを趣味として、いや性癖としてやってるに違いない、とオレは見た。
ともあれ、銀行強盗は鎮圧された。オレは強盗を退治した高揚感にいつまでもずっと浸っていたかった。だがオレには急いでやらねばならない事がある。余韻に浸っている暇はなかった。
背中のリュックから入学金の振込用紙と通帳と印鑑を取り出すと、カウンターに提出した。
「ちょっと待ってください。とても今すぐ業務を再開出来る状態にはありません」
「急いでるんだ。今すぐやってくれ」
厚化粧の行員は、放心状態のまま全く仕事をしようとしない。
「今は勘弁してください。いろいろと混乱しています。警察にも話をしなければいけないでしょう。後ほど支店長から指示が出たら、窓口業務を再開しますので、それまでお待ちください」
「やれと言ったら、今すぐやれ。命がけで強盗を退治したのは誰だと思ってるんだ。普通に仕事すりゃあ、いいだけだよ」
「整理券35番のお客様が先です。順番を守ってください」
「うるさい」
オレは、犯人から奪った銃を突きつけた。
安堵して緊張の抜けた人々は仰天した。事件は終わったはずではなかったのかと。
「銀行の金を奪うつもりはない。今すぐ、通常の業務を再開しろ」
「この金額をおろして、ここへ振り込め。今すぐだ、一刻の猶予も許さん」
言い終わると、天井に向けて一発ぶっぱなした。場内に悲鳴が響きわたった。
「グズグズするな、さっさと手続きしろ」
オレは女性行員をどなりつけた。手続きを始めた行員は、歳のころは、二十五、六といったところだろうか。薄ピンクの口紅を光らせ眉毛を細く剃った行員は、粛々と通常業務を始めた。
カウンターの向こうの女性行員が、振込票の控に日付スタンプを押して、通帳と印鑑とともに緑色の四角い小さなトレイに乗せて返してくれた。オレは、それを掴むと、リュックにしまって背中に背負った。
よし、行くぞ。こんなところで油売ってる暇はない。
オレは銃を持ったまま、銀行を出た。
赤いパトライトを点灯させた警察車両が数台、支店を取り囲むように停まっていた。強化プラスチックの盾を持った機動隊の姿も見える。
そのはるか後方には、銀色の脚立に登って望遠レンズを構えたカメラマンや、テレビ中継車がひしめいている。上空では、ヘリのプロペラが爆音をまき散らしていた。
オレは大勢の視線を一身に浴びながら、ゆっくりと歩いた。なんと壮観な光景だろう。おそらくオレの人生の中で、二度と味わうことの出来ない貴重な経験をしているのかもしれない。
何を血迷ったのか、機動隊の連中が盾に身を隠したまま、オレを取り囲もうとしている。
「なんだよ。オレは犯人じゃねえ。犯人を退治してやったんだ。中に覆面野郎が縛られている。そいつが強盗犯だ。オレは、ただの客だ」
オレの必死の叫びも、場の異様な喧噪と殺気あふれる怒号にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
その時になって、はじめてオレは気が付いた。なんと間抜けなことだ。オレは犯人から奪った銃を持ったままだったのだ。銃を持った男が現れれば、そりゃ、犯人だと思うだろう。このままでは、オレは逮捕されてしまう。いや、銃を捨てて素直に身柄拘束されれば、数時間後には無実は証明されるはずだ。
だが、それでは間に合わない。オレはさっき銃弾をぶっぱなした。長時間の取り調べが待っていることは間違いない。入学手続きは今日の三時までだ。
たとえ誤認であろうとも、今この場で身柄拘束されるわけにはいかない。
オレは再び銀行内に戻った。オレが銃を持ったまま舞戻ったのを見て、中にいた一同は声を失った。学者風の白髪老人と目が合った。さきほど白覆面にスライディングをかませた勇気ある老人だ。
オレは銃口を突きつけた。
「頼む、ほんの少しの時間だけ人質になってくれ。いや、人質を演じてくれ。決して危害は加えないし、終わったら後でお礼はさせてもらうから」
「わけがわからん。じゃが、まあ、いいだろう。なにやら面白そうじゃ。最近退屈しててな。お前さんみたいな、若い奴の無鉄砲につきあってみたくなった」
「若くもない。四十だ。いいから、行くぞ」
オレは、学者風白髪老人を「人質」にとると、再び外に出た。
警察が、マスコミが、野次馬が、息を押し殺して視線を投げかける。
老人は恐れおののく小心な人質を演じてくれている。
「いいかよく聞け」
今度はオレの言葉に、一心に耳を傾けてくれた。やはり人質をとって良かった。
「要求は二つ。まずクルマを用意しろ。それから道を空けろ」
警察は沈黙している。
「オレは、今、急ぎの用がある。大事な大事な用事だ。それが済んだら逃げも隠れもしない。だから、だから、今は行かせて欲しい。後で必ず出頭する。オレは、こういう者だ」
オレは、スーツのポケットから名刺を取り出して、高く掲げた。警察の視線が名刺に注がれたことを確認してから、指を離した。白くて小さな紙片が、ひらひらと落下した。
「あんた。子供の入学手続きに行きたいんじゃろ」
人質になってくれている老人がおもむろに口を開いた。
「なぜ、知っている」
「さっき窓口で手続きしてたじゃないか。みんな怯えながらも注目して見ていたさ。あんたの一挙手一投足をな。お子さんは、息子さんかい、それとも娘さんかい」
「娘だ」
「ほう、そりゃ可愛いくてしょうがないだろう。あんた子煩悩だろ。顔みりゃわかる」
「だから何だ」
「子を思う親の心は強い。一念岩をも砕く。あきらめるな、必ず道は開ける」
「何で、じいさんがオレを励ます」
「そりゃ強盗をやっつけてくれたお礼さ。それに、わしゃ、あんたが面白い男だから応援したくなった」
やがて警察の群から、音質の悪い拡声器の声が聞こえてきた。
「要求は呑む。だから、すみやかに人質を解放せよ」
見ると、シルバーのクラウンが運転席のドアを開けて停まっている。
「ワシを決して離すんじゃないぞ。絶対に人質は放すな。ワシを連れたままクルマに乗り込め」
「分かってるさ」
「勝負所だ、油断するな」
「あいよ」
オレは、じいさんに銃を突きつけたまま左右を確認して、ゆっくりと用意されたクラウンへ向かった。中に刑事が潜んでいるかもしれない。慎重にあたりを警戒する。
罠も仕掛けもなかった。警察は存外正直なものだ。オレは助手席に乗り込み、じいさんは運転席に座った。
「おい、運転は大丈夫か」
「老いぼれと見て侮るでないぞ。こう見えても若い頃は走り屋だったんだ」
「見えねえなぁ」
暢気な会話をしていると、拡声器から尖った怒声が飛んだ。
「人質を放せと言っただろがあ」
怒鳴り声が拡声器を震わせたが、オレは頓着しない。放した瞬間が敗北だとわかっているからだ。オレは運転席のじいさんから銃口をそらさない。
じいさんがイグニッションキーを回すと、心地いいエンジン音が響きわたった。「人質」は、パーキングブレーキを解除して、ギアをDレンジに入れた。
さあ出発だ。待ってろよ一流名門女子中学校。驚くなかれ、警察の護衛付きだ。
オレは愉快になった。大きく高笑いをすると、警察車両と機動隊の群を横目に甲州街道を世田谷方面へ行かせた。空は晴れていた。ビル群の窓ガラスが、早春の日差しに輝いていた。
(四)妻
「犯人は現在、老齢の男性を人質にとっているもようです」
テレビは「犯人」が老人に銃を突き付けている映像を映し出した。なんと、オットだ。入学金を振り込みに行ったオットが、なんで銀行強盗?そして人質をとって逃走?
ワタシはさっぱり訳がわからなかった。何事が起こったのか理解できなかった。ただ一つだけ理解できることがあった。それは、「娘の入学手続きが危機に瀕している」という事であった。理由はわからない。だが、その事だけは、疑いようのない確かな事実であると瞬時に悟った。
ワタシはスマホを鷲掴みにすると、職場中に聞こえるような大声でがなりたてた。
「もしもし、ワタシ。あんた、何やってんのよ!」
「銀行強盗に逢った」
「それで」
つい語気が荒くなる。
「強盗をやっつけたんだけど、出て行ったら、オレが強盗だと思われちまった。警察で取り調べなんて受けてたら手続きに間に合わないだろ。だから人質とってクルマで学校へ向かってる。銀行での手続きは済んでる」
「はぁ?なんじゃそれ。で、勝算はあんの」
「わからん。だけど、やるしかねえべ」
「分かった!ワタシも今すぐそっちに向かう」
事態がようやく飲み込めた。ワタシの中で何かがはじけた。
作業服のまま、駐車場へと走った。チーフの許可を得ていないが、一分一秒も惜しかった。午後からの時給カットだけでは済まないかもしれない。だが、そんなことは、今のワタシにはどうでもよかった。軽自動車は爆音をあげて発進した。
(五)事務室
「ねえねえ、市ヶ谷の銀行強盗って、こっちに向かってるみたいね」
「恐ぁ」
「事務局長。通常業務のままでいいんですか。万が一ってことがあるじゃないですか」
「しかしねえ、今日は入学手続最終日っていう大事な日じゃないか」
「今日はもう閉鎖して、そのかわり明日まで延長してもいいんじゃないですか」
「そう簡単に言うけどねえ、そうすると日程が全部ずれてくからね」
「手続きに来た親が巻き添え喰ったりしたら、それこそ取り返しがつかないじゃないですか」
学院の事務室では、人質事件に色めき立っていた。仕事を中止して校門を閉鎖すべきだと主張する職員たちに対し、事務局長は判断を先送りするばかりだった。
幸い生徒は登校していない。授業は休みで、部活による登校も禁じられている。ここ数日は、教員も事務員も入試業務に集中しているからだ。
「正門も裏門も、鉄扉を閉めましょう。錠も掛けましょう」
「それじゃ、手続きに来た保護者はどうなる」
「犯人が捕まったら再開すればいいだけの話じゃないですか。貼り紙しとけばいいでしょう。ホームページにも載せて、それから手続きが済んでいない全ての保護者へは、みんなで手分けして電話すればいいでしょう」
そうだ、その通りだ、と内心は思っている。だが事務局長の思考回路は、決められた予定を変更するという事に、生理的に嫌悪感を感じている。それも、自分自身の責任と権限で変更を決定するのは怖い。理屈ではない。彼は二十数年間ずっと、上が決定した予定を、忠実に実行し続けてきた。前もって決めた予定とは違う日程で仕事をするなど、やってはならない事だし、そんなことは考えることもできなかった。
では、いつまで入学手続きを延長すればよいのか?授業の再開は何日からになるのか?そうすると期末試験の日程は?もう頭がパニックになりそうだ。
「延長したら、併願校に逃げられる可能性はないか?たとえば桜葉女子あたりに」
「天下の慶早が、桜葉ごときに負けるはずないでしょう。百歩譲って、いや一万歩譲ってそんなことがあったとしても、せいぜい一人か二人。十万歩譲って、多数の入学辞退者が出たとしても、それが何だというんですか!人の命が危険にさらされているんですよ」
事務局長はなおも煮えきらない。
「犯人は銃を持っているんですよ。すぐ近くなんですよ。躊躇してる場合じゃない。今、こうしてる間にも鉄砲弾が飛んで来るかもしれないんですよ」
強盗犯は、こちら方面に向かている!学園職員たちは言いようのない不安に包まれていた。
(六)妻
国立府中インターの料金所を通過し、本線に合流するための加速車線に出た。アクセルを床下一杯まで踏み込むと、排気量六六〇の小さなエンジンはオクターブの高いソプラノの唸りをあげた。
左に見える競馬場も、右のビール工場もすっ飛ばして、大型トラックを二台続けて抜き去り、ヤンキーの改造車を追い抜き、高井戸の料金所が見えてきた。都心に入ると交通量が増えるだろう。ここからが大変だ。だが、娘の人生がかかっている。一刻も早く駆けつけなければならない。
制限速度と追い越し禁止車線以外の交通法規はすべて遵守しながら、軽自動車は大都市東京の市街地を疾走した。
娘のために。すべては娘のために。ワタシは額を汗を拭うことさえ忘れて運転に集中した。
(七)夫
見えてきた、名門私立中学が。頭上ではヘリが爆音をあげている。後方にはパトカーと白バイが、長い列を作って後を追尾してくる。いづれも遠巻きに見守るだけで手を出してはこない。
「そこ次の信号を右折だ。あの狭い路地に入れ」
「あいよ」
数日前、娘の合格発表があった。オレは昼休みに会社を抜け出して運命の分岐点を確かめに来たのだった。あの時は、大勢の子供たちと、母親たち、そして父親たち、さらには塾関係者でごったがえしていた。父親なんて自分一人だろう、という予想に反して、受験生の父親とおぼしきスーツ姿の男たちが少なからずいた。ある者は不安げな表情を浮かべて、またある者は満面の笑みを浮かべ、携帯電話を耳に当て、あるいはメールの送信に夢中になっていた。
だが、その日とは様相は一変していた。周囲には人っ子一人いない。そして重量感のある黒い鉄の扉が、冷たく行く手を阻んでいた。
クラウンは、鉄扉の手前五メートルの路肩に停車した。オレは、周囲を慎重に確認した。後ろには警察車両が遠巻きにこちらを見ている。盾を持った機動隊も来ている。一人になっては危ない。オレは、じいさんに銃を突きつけながら、鉄扉に向かった。
鉄扉には、薄っぺらいベニヤ板が、針金で縛り付けてあった。ベニヤ板には、A4サイズのコピー用紙がセロテープで貼り付けてあり、レーザープリンターで印字されたゴシック体が躍っていた。
「入学手続きをされる保護者の皆様へ。本日、市ヶ谷付近にて、銀行強盗事件が発生いたしました。いまだ犯人が逃走中であることに鑑み、近隣の安全を考慮し、窓口を閉鎖いたします。入学手続きにつきましては、犯人が逮捕された後に、再開します。詳しい日程につきましては、事件解決後に、本校ホームページにて発表いたします」
「くそっ」
オレは、ベニヤ板をおもいっきり蹴り上げ、銃のグリップで横殴りにした。ベニヤ板は真っ二つに割れて、貼ってある紙が破れた。
「おい、おい。よぉく聞け。今すぐ入学手続きをしろ。銀行強盗の犯人は、もう今頃捕まっているころだ。オレは、ただの受験生の親だ。それだけだ」
とにかく中に入るしかない。鉄扉の高さは二メートル足らずだ。オレは、リュックを背負ったまま、鉄扉によじ登ろうとした。が、両手が自由にならないと登れない。邪魔な鉄砲をじいさんに手渡すと、横棒に足を掛けた。
と、その瞬間、銃声を聞いた。
激痛が走った。左の太股だ。熱い。炎で火傷した以上の熱さと衝撃だ。血が吹き出しズボンを染めた。
オレは鉄扉の外側に、うつ伏せに倒れていた。何が起こったのかは理解出来た。銃で撃たれたのだ、警察の。
(死にはしない)
オレは、直感的にそう思った。骨に弾は当たっていないからそう思ったのかもしれない。
だが激痛で立ち上がることが出来ない。激しい痛みで意識が遠退いていきそうになる。
しかし、ここで気を失う訳にはいかない。娘の入学がかかっている。血が出ようが、皮膚が焼けようが、這ってでも事務室へ行かねばならない。たとえ自分の寿命が縮もうとも、今、この時に行かずして、何のための父親だ。気をしっかり持たなければならない。体力と気力の全てを振り絞って、あの鉄扉の内側に入らなければならない。全ては娘のためだ。それがオレの人生の最大の使命だからだ。
痛い、苦しい、重い。熱い。それでも負けてはいられない。娘のためだ。
オレは目を見開いて、そびえ立つ鉄扉を見上げた。モダンな明治時代風のデザインと黒光りする重厚感がオレを圧倒する。
その時、オレはタイヤの軋む音と、聞きなれた軽自動車のエンジン音を耳にした。あんな運転をするヤツは、あいつしかいない。
(八)鉄扉
見えてきた、名門私立中学が。合格発表はオットに見に行ってもらったから、願書を提出しに行って以来になる。あの時は多くの保護者でごったがえしていた。
今も、雰囲気は違うが、ごったがえしてはいる。警察車両が仰々しくパトライトを光らせながら多数停まっている。無線でなにやら大声で叫んでいる制服警官が、慌ただしく走り回っている光景が、遠目に見えた。
次の信号を右折し、狭い路地に入れば、校門の前に出る。が、白バイ警官が道路の真ん中に仁王立ちして光る赤い棒を振り回している。迂回しろ、ということらしい。
「さぁて、どうやって、ここを突破すんべか」
と、その時であった。パンという乾いた破裂音が鳴り響くいた。銃声だ。
ワタシはオットの身に危機が迫っていることを知った。いや、正確には娘の入学に危機が迫っているのだ。行かねばならない。全ては娘のためだ。
シフトをセカンドに入れると、床下一杯までアクセルを踏み込んだ。
まだ目元に少年の面影を残した若い白バイ警官の顔が、恐怖に歪んだ。
軽自動車は若い警官を蹴散らして、白バイのサイドミラーを破壊して、機動隊員の脇を掠めると、もうそこは鉄扉の前だった。
「うわっ」
急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。軽自動車は大音響とともに鉄扉に衝突して止まった。バンパーがへこみ、肩にシートベルトが食い込んだ。
ふと見ると、オットが血を流して倒れている。ワタシはエンジンも切らずに車外に飛び出した。
目と目が合った。
「恋」などという浮かれた関係は、すでに過去のものである。それより今は、「戦友」と呼ぶのがふさわしい。結婚して十五年。言葉など要らない。
ツマが来た。
オレは気力を振り絞って起きあがった。バッグを背中から外して両手で抱えると、アンダースローで放り投げた。スクラムハーフがバックスのラインにパスを出す動作に似ていた。バッグの中には、大事な大事な、入学手続の書類が入っている。
ワタシはパスを受け取ると左脇に抱えて、前へ走った。だが、そこはラグビー場と違って二メートルの障害物がそびえ立っていた。
オットのすぐ脇には銃を構えた白髪の老人がいる。銃の照準はオットに向いているが、警察が動かないよう牽制してオットを援護するための演技だと一目で分かった。
老人が銃を構えたまま言った。
「クルマの上から行け」
ふと見ると、ワタシがついさっきまで乗っていた軽自動車が、鉄扉に接触して停まっている。ワタシはリュックを背負うと、ボンネットに駆け上がった。さらにそこから、クルマの屋根に登った。両手を伸ばして鉄扉のてっぺんにしがみついた。
あとは、よく覚えていない。ただ、落ちた時に手と膝を擦りむいたことだけは確かだ。骨折も捻挫もしなかったのは、悪運の強さかもしれない。
鉄扉の向こう側では、オットがじっとこちらを見ている。
長年連れ添った夫婦に言葉は要らない。ワタシは静かに微笑むと、悠然と事務室へと向かって行った。
(九)卒業式
黒くて細い秒針が、12の文字を通過した。
小熊のキャラクターが描かれた文字盤に描かれた時計が午前七時を示した。今日は大事な日だ。仕事になんて行ってる場合じゃない。オレはビデオのバッテリー残量を確かめると、丁寧にリュックに入れた。あの日を共に戦い抜いた、あのリュックだ。
娘は納豆ご飯を胃袋に詰め込むと、慌ただしく身支度をすませて、一足先に家を出ていった。オレとツマは一時間後の予定だ。
あれから一ヶ月たつ。松葉杖はもう要らない。
今日は小学校の卒業式だ。多くのクラスメートたちは隣の公立中学へ進む。娘は小学校の友達と別れて、一人電車で一時間かけて都心の私立へ通うことになる。
強制したことはなかった。たしかに最初はツマが勧めはしたが、無理強いはしなかった。
受験戦争を否定する人は多い。しかしそんな人たちも、甲子園をめざす球児には賞賛を送る。
オレは思う。野球が得意な子が甲子園を目指すのは美しくて、勉強が得意な子が難関校を目指すのは悪いことなのか、と。
オレ達夫婦は警察から厳しく叱られたが、送検されることはなかった。一部週刊誌には、ずいぶん悪く書かれた。たしかに強引だった。
人はオレ達のことを「親バカ」と言う。事実そうかもしれない。でも、それが何だというのだ。我が子のために懸命の行動して何が悪い。「親バカ」、大いに結構ではないか。
いつもは殺風景な体育館の壁が、今日は紅白の幕で覆われている。いつもはスーツを着ない男性教師たちが、今日は白いネクタイと黒い礼服に身を包んでいる。
やがて音質の良くないスピーカーから、厳かな音楽が流れてきた。エルガーの「威風堂々」である。いよいよ始まった。オレはビデオカメラの電源をONにすると、赤いランプの点灯を確認した。
「卒業証書、授与」
厳かな声が、体育館に響いた。折りたたみパイプ椅子に腰掛けたオレは、隣に座るツマの横顔をちらりと見た。食い入るような目で、壇上を見つめていた。
オレは再びビデオカメラを構えた。そろそろ腕がだるくなってきたが、そんなことは言ってられない。
オムツを替える時、暴れて畳にウンチをこすりつけた娘も、もう小学校を卒業する。本当に早いものだ。四月からは、受験戦争を勝ち抜いた猛者たちばかりの中で中学生活を送ることになる。もしかしたら劣等感に苛まれ、自信を失ってしまうかもしれない。
まあ、それも人生だ。あの娘のことだ。きっと乗り越えるに違いない。
娘の名前が呼ばれた。校長先生のもとへ、ゆっくりと歩を進める我が子の姿が見えた。背が高いな、と今更ながらに思った。
ちょうどその時、体育館の壁に設置された飾り気のない時計の黒くて細い秒針が、12の文字を通過した。
(了)




