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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

きらい

作者: 林谷囃子
掲載日:2026/06/20

病院が嫌いだった。


マスクの暑苦しさ。

それを突き抜ける消毒された空気の匂い。

不調な患者ばかりのどんよりした雰囲気。

どこか投げやりな医者。

待ちぼうけの薬局。

ゼリーに混ぜても苦いだけの粉。

蓋の開かないまずいシロップ。

母の不安と安堵の表情。


どれだけ健康を心がけても、避けては通れない場所だった。




通学路が嫌いだった。


明らかに疲れ込んでいるスーツ姿。

気だるげな犬の散歩。

爽やかなジョギングの人。

顔しか知らない在校生。

顔だけ知ってる同級生。

雨が降れば面倒になる。

夏が来れば汗が吹く。

そもそもこの距離を歩くことが面倒くさい。


少なくとも小中学の9年間はこの誰も望まないルーティンに終始参加した。




ゲームが嫌いだった。


対戦すれば負けた友達が怒る。

協力すれば負けが私のせいになる。

一人で遊べば作業が単調でつまらない。

スコアで競えば上には上がいた。

力も競えば上には上がいた。

テーブルゲームはルールを覚えられない。

TRPGは演技が小恥ずかしい。

運試しは碌な結果にならない。


私の娯楽は、物語に耽溺することが唯一にして至高であった。




社会に出てもうすぐ3年になる。


高校は適度に力を抜いて、さりとて友人や楽しみもなく、他人から見れば灰色と言われる日々を送った。

著名な作家が当校の文芸部から出ていると知ったのは卒業してからだいぶ経ってからだった。


大学ではウマの合った女性と、浮ついた関係にもならず趣味を共有するささやかな友情を築いた。

大学を出てから自然と連絡を取らなくなった。


つつがなく大きめな中小企業に就職した。

ほどほど以上の給与、価値観が古くもなあなあの融通が効く利点もある昭和感が残る社風。

毎日8時間、社内のパソコンとサーバーを管理しているだけの日々。

今も他人から見れば、目立たず騒がずのつまらない人生を送っていると思う。

それでも私はこれで満足だった。


それでいいと思っていた。




大学時代の友人であった彼女と、街なかで偶然遭遇した。

嫌いな物や事や人は多けれども、彼女だけはどうしても嫌いになれなかった。

互いに次の予定まで余裕があったので、近所で茶をしばいた。

彼女は大手企業、それもまあまあホワイトな職場を当てたらしく、すこぶる元気そうであった。

落ち着いた物腰の女性であるが、大学当時に知る限り、自分の価値観と感性には太い筋が通っていた。

少し喋っただけでも、今でも変わりがないことが伺いしれて少し安心した。


再度改めて時間を取る約束をして、その日は別れた。




久しぶりに会った彼女は、面影を残しつつも、大学当時とは似つかぬほど身綺麗になっていた。

他人の見目には興味がないが、彼女が人から好かれる容姿になっていたことには驚きを禁じ得なかった。

大学当時は見た目に気を使う類の人間ではなかったはずだった。

その容姿そのものよりも、何が彼女を変えたのかが興味深かった。




ちゃんと予定を立てて、改めて彼女と茶をしばいた。

互いの近況報告もそこそこに、不躾ながらも彼女の容姿について問うた。


曰く、あのままでは自分が許しても社会が許してくれなかった。

容姿を整えたのは初めてであったが、姉の助けもあり存外にセンスを発揮し、あまり苦労することはなかったとのこと。

それに伴い、男性に好かれることも増え、お付き合いをすることもこの三年のうちにあったというが、いずれも彼女の素に触れると離れていったという。

そのうちに一人、素の感性も合う男性がおり、その彼とは趣味も合ったのだが、精神的に安定せず、唯一彼女から振ったらしい。


当時の彼女を知る身としては、意外な話であった。

何よりも、容姿を気にせず、常に怯えがちで、付き合いの長い私でさえそれが取れるまで時間のかかった彼女である。

今は堂々たる佇まいで、容姿も整え、あまつさえ男性との恋愛まで、結末はともかく漕ぎ着けていることに、困惑と驚愕を禁じ得なかったと同時に、素直に感心した。


私は当時から、良くも悪くもあの時で止まっている。

たとえ環境による後押しだとしても、彼女は前に進んでいる。

その彼女の踏みしめた一歩が、私には尊く見えた。




夕方、別れ際に彼女に問う。


今の暮らしは楽しいか。

大変なことはないか。


今思えば、まるで彼女の親族にでもなった物言いである。

しかし彼女は気にせず答える。


今の私があるのは、君と過ごした日々があってこそ。

君から学んだことを以て、今の私はここにいる。

ありがとう。


屈託なく笑う彼女を見て、人に対して初めて「綺麗」という感想を抱いた。




視界から色が消えていく。

漏れる息に雑音が走る。

身体から温度が抜ける。

それでいて、胸元には灼熱が迸る。


私の身体は、街頭の灯りの境界に横たわっていた。

私の目線の先には、泣きじゃくる旧友の綺麗な尊顔。

力の抜け、感覚を失った私の手には、それでいて温もりを覚える彼女の手。


「私は、君が嫌いだ」

「共有される本の感想、たまに漏らす日々の愚痴、退屈な、それでいて充実していた日々の欠片にあった、いつも通りの時間」

「楽しかった」

「私にそんな感性を与えた君が、私は嫌いだ」


「だからどうか」


「君が嫌い(すき)な私を嫌ってくれ」




ごめんなさい、という、言葉よりも反射に近いそれが口から溢れてくる。

視界はとうに滲み、頬には濡れた感覚が伝わる。

手に握るそれは既にとても冷たく、力が通わないためか少し重い。


視界の端には、走り去る黒い装いの小柄な男性。

去り際に垣間見た、見覚えしかない面立ちの、怯えきった表情が脳裏に焼き付く。

それが示す事実は、この出来事を私が運んできてしまったという動かぬ証拠だった。




7年前、大学1年生の時、私は彼に救われた。

高校に至るまで友人という友人もなく、無味乾燥な私の感性を育ててくれた読書という習慣。

それを共有する楽しさを、教えてくれたのは彼であった。


彼は表向きの感情こそ希薄であるが、読書を共通の生業とする以上、感性が死んでいるわけではなかった。

社交性も最低限は持ち合わせていて、彼自信には認識できない形で評価を集めていることは、私がよく知っていた。

そんな羨ましい彼が、友人ながら嫌いだった。


大学を出て、化粧経の思わぬ才能に驚愕したこともつかの間、何人かの男性とお付き合いに至るも、誰も私自身のことは見てくれなかった。

彼らはあまねく、私の表層すら読み取らず、それでいて私を理解したかのような物言いであった。

最初こそ糠喜びしたが、何度かお付き合いを重ねるうちに同様のさまを察せるようになっていた。


そんな中、大学の彼とはにても似つかぬ、それでいて遠からず趣味の合う男性とお付き合いすることになった。

私も彼とは馬が合ったが、私の方が彼を大学の彼に重ねてみてしまっていることに気づいた。

そのまま付き合うのは失礼であるため、距離を取る提案をしたところ、彼の心を酷く痛めてしまった。


その顛末が、これである。

彼の中にどういう心境があったのかは測りかねる。

しかし事実として、彼は私を刺しに来た。

謂れがないとは思わない。理不尽にも私の理由で振ったのは事実だ。

何が最終的に彼をこのような軽率な行動に導いたのかは、私も知る由がない。




周囲にはわずかながら野次馬が立っている。

動けない私に代わり通行人が通報したのか、救急車のサイレンが聞こえる。

私は彼の言葉を聞いて、私の思いの丈を伝える。

このあとどう転んでも、後悔しないように。


「私も、あなたが嫌いでした」

「あれだけ楽しそうに本を読んで、私にはない視点での評論をして、私の好きそうな本を見つけてきて、私に社交というものを言外に教えてくれて」

「私という人間を、孤独から救ってくれて」


「私を、かばって」

「それでいて、そんなこと言って」


「そんな貴方が、本当に嫌い(あいしてる)

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