第十四章 江より来たりて、海へ返る
朝の決闘が終わってから、江龍の上から声が消えた。
風はある。
帆も鳴っている。
波も、いつものように船腹を叩いている。
それでも船の上だけは、何かがひとつ欠けたみたいに静かだった。
周遜は、船首の近くに横たえられていた。
仰向けではない。
右を下にして、少し身体を丸めるような格好だった。
死んでもなお、海に背を向けていない姿だった。
血は多く流れてはいなかった。
朝の光の中で見ると、それがかえって現実味を奪っていた。
もっと激しく、もっと派手に人は死ぬものだと思っていた者には、あまりにも静かな終わりだった。
呂水は少し離れたところで、いつものように酒壺を持っていた。
だが一口も飲んでいない。
壺の口を親指で塞いだまま、じっと甲板を見ていた。
羅玄は舵輪のそばに立っていた。
手はかけていない。
ただ、そこにいる。
その背中が、普段よりわずかに小さく見えた。
雷彰は周遜の足元にいた。
膝をついているわけではない。
泣いてもいない。
ただ、黙って立っていた。
岩みたいな男だったが、その日は岩ではなく、切り立った岸壁みたいに見えた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
江龍は、古い船だ。
長江から逃れてきた船だ。
霊渠の泥を越え、海へ出て、継ぎ足され、削られ、直され、それでも周遜の下で走ってきた船だ。
その江龍の上で、周遜が死んだ。
それは船員たちにとって、船長を失った以上の意味を持っていた。
古い海が、ここで終わったのだ。
やがて、呂水が低く言った。
「……本当にやっちまったな」
軽口ではない。
呆れでもない。
それでも呂水は、呂水の口でしかそれを言えなかった。
船長は答えなかった。
答えようがなかった。
周遜の顔を見れば、まだ起き上がってきそうだった。
目を開けて、甘いだの遅いだの、いつものように言いそうだった。
だがその沈黙は、もう誰にも破れない種類のものだった。
その日の午後、江龍は風を落とした。
周遜の遺体はまだ船首にある。
誰も急いで海へ流そうとは言わなかった。
周遜をどう返すかは、江龍の者たち全員が見届けるべきことだったからだ。
日が傾く頃、呂水がようやく酒壺の栓を抜いた。だが飲まずに、ただ船首の方へ持ち上げる。
「……どうする、船長」
それは酒を飲んでいいかという意味ではない。
周遜をどう返すか、という意味だった。
船長は長く黙った。
周遜は長江から来た男だった。
江陵で敗れ、霊渠を越え、海へ出た。
江龍もまた、長江から生き残った船だった。
河の泥と血を腹の底に抱いたまま、ここまで来た。
ならば河へ返すべきか。
江へ返すべきか。
そう一瞬だけ考えた。
だがすぐに違うと分かった。
周遜は河から来た。けれど最後に立ったのは海だった。
育てたのも、奪ったのも、繋いだのも、見届けたのも海だった。
河は始まりだ。だが終わりは、もう海のものだった。
船長は顔を上げた。
「返そう」
呂水が問う。
「どこへ」
船長は海を見た。
夕陽の色を受けて、海は赤くも青くも見えた。
長江の濁りではない。
南の海の広さだった。
「海へ」
その一言に、誰も異を唱えなかった。
羅玄が静かに動いた。
太い縄を一本選び、船首の横へ持ってくる。
雷彰は予備帆の切れを探し、清い布を一枚抜いた。
呂水はようやく一口だけ酒を飲み、それから壺を周遜の足元へ置いた。
「飲まねえのかよ」
誰に向けたともなく言う。
「最後まで渋ちんだな」
羅玄が短く返す。
「もういらんだろう」
呂水は苦く笑う。
「そりゃそうか」
雷彰と羅玄が、周遜の身体を丁寧に布で包んだ。
戦で死んだ者を、こんなふうに静かに扱うことは珍しい。
だが周遜だけは別だった。
死体を扱っているのではない。
ひとつの時代を畳んでいるのだと、誰もが分かっていた。
船長も布を押さえた。
手が触れる。
冷たい。
朝にはまだ残っていた体温が、もう海へ半分返っている。
羅玄が言う。
「重石を」
雷彰が短く頷く。
余計な飾りはつけない。
沈むべきように沈み、海へ戻るべきように戻る。
周遜ならそれを好む。
すべての支度が整うまで、誰も無駄なことは言わなかった。
夕陽が、海の縁へ沈み始める。
船首の龍が、その赤を受けて鈍く光る。
まるで長江の泥も、江陵の火も、交州の灯も、その背に全部乗っているみたいだった。
船長は船首に立った。
後ろに、呂水、羅玄、雷彰。
さらにその後ろに、江龍の船員たち。
後続三隻の者たちも、遠巻きにこちらを見ている。
誰も頭を下げない。
誰も泣かない。
海の上の弔いは、陸より少し乾いている。
だが、その乾きの奥の重さは消えない。
船長は言った。
「この船は長江から来た」
風が少しだけ強くなる。
「この人も、長江から来た」
呂水が目を伏せる。
羅玄は海を見たまま。
雷彰は動かない。
「だが、ここまで来た」
「ここまで来て、俺たちを残した」
言葉は少ない。
それでよかった。
多く語れば軽くなることもある。
船長は一度だけ、龍の頭へ手を置いた。
「見てろ」
それが周遜へ向けた言葉なのか、江龍へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「道は消さない」
羅玄が目を閉じる。
雷彰の顎がわずかに動く。
呂水だけが、笑うでも泣くでもない顔で前を見ていた。
船長が頷く。
それを合図に、四人で周遜の身体を持ち上げた。
重い。
だが朝よりも、不思議と重くなかった。
もう半分は海へ戻っているからかもしれない。
船縁まで運ぶ。
夕陽が真正面にある。
光の道が海へ伸びている。
その道の先へ、周遜の身体を静かに落とした。
大きな音はしなかった。
布に包まれた身体は、一度だけ海面へ浮き、すぐに沈んだ。
白い泡が細く立ち、赤い光の中へ溶けていく。
誰も声を出さなかった。
江龍だけが、ほんの少しだけ大きく揺れた。
まるで船そのものが、見送りに頭を下げたみたいだった。
呂水が低く言う。
「……行ったな」
羅玄が答える。
「ああ」
雷彰は何も言わなかった。
だがその沈黙が、何より深かった。
船長は海を見続けた。
沈んだ場所は、もう分からない。
海は何事もなかったみたいに波を返している。
返したくせに、何も返さない。
それが海だった。
けれど、確かに一つだけ残ったものがある。
周遜の道。
周遜の船。
周遜の敗戦。
周遜の朝。
それらが全部、江龍の上と、自分たちの中に残った。
だからこれは喪失ではあるが、空白ではない。
古い海は返した。
だが消えたわけではない。
骨になって残る。
やがて、呂水が鼻を鳴らした。
「さて、船長」
その言い方は、少しだけいつもに近かった。
「泣いてる暇があるなら、飯にするか」
羅玄が小さく吐く。
「お前はそれしかないのか」
「あるさ」
呂水は肩をすくめた。
「でも、腹減ってる時に難しい顔しても、余計に腹減るだけだ」
雷彰が初めて、ほんの少しだけ口元を動かした。
船長はそこでやっと振り向いた。
三人がいる。
呂水。
羅玄。
雷彰。
そしてその後ろに、江龍の者たちがいる。
古い海を知る者たち。
その古い海を、これから新しい道へ変えていく者たち。
船長は小さく頷いた。
「ああ」
それ以上はいらなかった。
夕陽が沈みきる。
海はまた暗くなる。
だが、その暗さは前とは違っていた。
ただ喪った暗さではない。
返して、残った暗さだった。
その夜、江龍の舵輪に最初に手をかけたのは船長だった。
羅玄が何も言わずに半歩下がる。
呂水が舷側で風を見る。
雷彰が甲板の中央に立つ。
誰も宣言しない。
だが船はもう知っていた。
江龍は、次の海へ出る。
長江から来た古い龍は、ひとつの時代を海へ返した。
そしてその背で、新しい船長を乗せて、なお海を行く。
江より来たりて、海へ返る。
その返ったものの上に立って、
船長は初めて、周遜のいない海へ舵を切った。
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