プロローグ
「終わりましたね」
黒衣の宰相、司凌の声は静かだった。
だが、長江の河口はまだ燃えていた。
夜の水面は赤く染まり、砕けた櫓と折れた帆柱が炎の中で傾いている。
岸には幾重もの要塞が築かれていた。
石壁。
矢倉。
火楼。
河口を絞るように突き出した砲台群。
そのすべてが、ついさっきまで趙の旗を掲げていた。
趙は、強かった。
黄炎は河を恐れない。
海もまた、恐れなかった。
長江には、陸の皇帝の意志がそのまま刻まれていた。
岸と岸のあいだを塞ぐ巨大な鎖。
河口を封じる鉄の門。
その内側には楼船、戦船、矢倉を積んだ巨大船が並び、互いを鎖で繋ぎ、岸の要塞と組み合って、ひとつの城塞水軍となっていた。
誰もが思っていた。
ここは破れない、と。
陸の王が築いた、鉄と石の最後の門。
長江を閉ざす最後の喉。
これを海から破れる者はいない。
そのはずだった。
「まだだ」
司凌が目を向ける。
黒鉄の龍の船首像を持つ艦に立つ船長は、燃え落ちる要塞ではなく、その向こうを見ていた。
黒龍が口を開く。
轟音。
夜が裂けた。
火が、一直線に走る。
鎖で繋がれた趙の大艦隊へ突き刺さる。
一隻が裂けた。
火は止まらない。
隣へ。さらにその隣へ。
鎖が逃げ場を奪い、巨大船が焚き木のように燃え上がる。
岸の砲台が崩れる。
石壁が割れる。
火楼が崩れ、炎が河を舐める。
趙が築いた「破れぬ門」は、内側から焼き砕かれていった。
司凌が、ほとんど息のように言った。
「終わりましたね」
男は首を振る。
「まだだ」
火の向こうに、建業の灯がある。
さらにその先にも、道がある。
男は夜の海を見たまま言った。
「海は続いている」
司凌は何も言わない。
その横顔だけが、炎の明かりで薄く赤く染まっていた。
船長は続ける。
「航路も、まだ終わっていない」
燃える長江の上を、風が吹き抜ける。
灰が舞い、火の粉が河面へ散り、赤い光が波に砕ける。
趙は河を城壁に変えた。
ならば、その城壁を越えた先にあるものも、奪わなければならない。
港。
河。
海峡。
人。
荷。
金。
流れ。
海そのものではない。
海の道だ。
船長の目には、焼け落ちる要塞の先に、まだ見ぬ無数の航路が浮かんでいた。
南へ。
西へ。
そして、さらに遠くへ。
司凌が静かに問う。
「では、次はどこまで参りますか」
男は答えた。
「道の尽きるところまでだ」
その声は大きくない。
だが、炎よりもはっきりと、夜の河へ落ちた。
その夜。
長江は初めて、海に敗れた。
そして海は、初めて河を越えた。




