心の変化
翌日の放課後。
サシャはこの日もヴァランティノワ公爵家からの迎えの馬車を待つ間、学園の図書館へ向かっていた。
昨日のマリエルの、大輪の花が咲いたような笑みが脳裏にこびりついて離れないのだ。
「あの、サシャ様!」
その時、サシャは見知らぬ令嬢から話しかけられた。
「えっと、君は誰かな?」
サシャは軽薄な笑みを浮かべて令嬢に対応する。
「あ、申し遅れました。私、セシル様の友達で、テジョン子爵家のピエレットです! サシャ様とお話ししたいことがありまして!」
ピエレットと名乗った令嬢の目からは野望のようなものを感じた。
(ああ、彼女は俺の容姿や身分を目当てにしているということか。……セシルの友人だと言い張って俺に近付く子は彼女含めて結構いたな)
サシャは内心苦笑する。
「俺と話がしたい、か。でも君、本当にセシルの友達? 全然タイプが違うけれど。セシルとはどこで出会ったの? あ、もしかして、セシルにレーズン入りのクッキーをプレゼントしてくれた子?」
サシャは少し意地悪にニヤリと笑う。
「えっと……はい、そうです!」
ピエレットはしどろもどろになりながらもそう答えた。
「ふーん。君、やっぱりセシルのこと何も知らないね。レーズンはセシルの苦手な食べ物だよ。セシルが受け取るはずないけど。君、セシルの友達というのは嘘だね」
サシャは軽いが冷たい声だった。
「あ……それは……」
サシャの言葉に冷や汗をかくピエレット。
「まあ正直君は俺にとって一夜を共にするだけなら行けるって感じだけど」
サシャは軽薄でどこか意地悪な笑みを浮かべ、ピエレットに顔を近付ける。
するとピエレットは顔を赤く染めながらも不快な表情になる。
「一夜を共にするだけだなんて、娼婦のような扱いではありませんか……!」
「嬉しいけど、今は時間がないんだ。俺の時間は貴重だからさ」
サシャは相変わらず軽薄でどこか意地悪な表情をし、ピエレットの肩をポンと軽く叩きその場を足早に立ち去るのであった。
(これであの令嬢も俺には近付かないだろう。あんな風に言われても俺に近付くのは、一部のもの好きだけだ)
サシャは自嘲した。
サシャの足は、図書室へと向かっている。
(マリエル嬢に……会いたいな……)
サシャの中で、そんな気持ちが芽生えていた。
しかしハッとする。
(……マリエル嬢に……会いたい……!?)
サシャは自分の気持ちに戸惑っていた。
『ええ! サシャ様とセシル様、どちらがヴァランティノワ公爵家を継ぐかまだ決まっていないのですか!? じゃあ私、サシャ様と結婚しても公爵夫人になれないかもしれないということなのですね!? 公爵夫人になれないのなら、サシャ様と一緒にいる意味はありませんわ。せっかく容姿と身分が良いから近付いたのに』
かつて淡い好意を抱いていた令嬢からの言葉が蘇る。
それ以降女性はそういうものだと思い、適当に扱っていた。先程のピエレットのように、面倒事になりそうならば、自分を悪く見せて相手を追い払うこともあった。
しかし、昨日出会ったばかりのマリエルに対しては、心の奥に鍵をかけて封印していた自分の気持ちが少しだけ動き出していた。
(どうしてこんな気持ちになるんだ? ……ああ、面倒なことになったな)
軽くため息をつくが、足はそのまま図書室へ向かっていた。
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図書館へ入り、昨日マリエルがいた場所へ向かうサシャ。
しかし、そこにマリエルがいる気配はなかった。
図書室全体を探してみるが、マリエルの姿はない。
(……昨日いたからって今日もいるとは限らないよな)
ため息をつき、肩を落とすサシャ。
サシャは図書室から出ようと、出入り口の扉までやって来た。
すると、外から図書室に入る者がいたらしく、ゆっくりと扉が開いた。
「サシャ様……?」
目線の下から、絹糸のように細く澄んだ声が聞こえた。
声の主に視線を向けたサシャは、サファイアの目を見開いた。
ふわふわとしたストロベリーブロンドの髪は後ろの低い位置で一つに束ねられている。
くりっとした大きなアメジストの目は真ん丸になり、きょとんとした様子でサシャを映している。
「マリエル嬢……!」
思いがけず会いたいと思っていた人物に遭遇し、サシャの声は少し明るくなる。
口角も上がっていた。
「まさかまたマリエル嬢と会えるとはね。今日は白衣姿だけど、何で?」
この日のマリエルは、シンプルなシルエットのドレスの上に白衣を着ていたのだ。
「研究棟で、鉄の酸化反応に関する実験をしておりました。それで、気になることがあったのでまた図書室に専門書を借りに来たのです」
鈴の音が鳴るように笑うマリエル。その声は弾んでおり、きっと実験が楽しいのだろうとサシャは思った。
「そっか。頑張っているんだ」
マリエルの様子に、サシャの声も少しだけ弾んでいた。
「マリエル嬢、せっかくだし俺も研究棟に行って良い? マリエル嬢がどんなことをしているのか見たい」
気が付けば、サシャはそう口走っていた。
「え?」
マリエルはサシャの言葉に、驚いたようにアメジストの目を丸くした。
「あ、もちろん君のアイディアを真似しようとかそういう意図はないから」
マリエルの実験はフォワ伯爵領の領地経営にも関わることなので、サシャは慌ててそう付け加えた。
マリエルはふわりと微笑む。
「構いませんよ。それに、昨日のこともありますし、サシャ様が私のアイディアを奪うような真似はしないと信じております」
アメジストの目が真っ直ぐサシャに向けられる。
マリエルから信頼されているようだ。
それに対してサシャは少しむず痒くなった。
「それに、私なりに調べましたが、やはりナルフェック王国で領地に鉄鉱山を持つ貴族は少ないです。なので、『ウォーム・ボトル』に関しては競合が生まれにくいと考えております」
「『ウォーム・ボトル』……?」
聞き慣れない言葉に、サシャは首を傾げる。
「昨日サシャ様にお見せした、鉄粉と水と塩を入れた小瓶のことです。温かい小瓶ですから、『ウォーム・ボトル』と名付けました」
鼻をふんすふんすとヒクつかせ、ややしたり顔のマリエル。
やはりうさぎを彷彿とさせ、サシャの表情は緩む。
「分かりやすくて良いと思う。それこそ、フォワ商会で売り出したらみんなに覚えてもらいやすそうじゃん」
「やっぱりそうですよね。ありがとうございます」
パアッと花が咲いたような笑みを浮かべるマリエル。
サシャは思わず頬を赤く染めた。
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サシャはマリエルについて行き、研究棟に移動した。
普段サシャはラ・レーヌ学園の研究棟には行かないので、新鮮だった。
十三歳の第一学年の時からラ・レーヌ学園に通うサシャだが、研究棟にまともに入ったのはこれが初めてかもしれないと思うサシャである。
「ここが私が使わせていただいている実験室です」
マリエルが使用する実験室は、少し鉄屑が散らばっていた。
何冊にも積まれた実験ノートもある。
(マリエル嬢……本当に頑張っているんだな……)
改めて、領地の為に頑張っているマリエルに畏敬の念を抱くサシャである。
「マリエル嬢……せっかくだし、俺に手伝えることある?」
サシャは思わずそう口にしていた。
「ありがとうございます、サシャ様。ですが、これは私の研究ですので、一人で頑張ろうと思います」
ニコリと笑うマリエル。
アメジストの目は真っ直ぐで、芯の強さを感じた。
「そう……」
少し残念に思い、肩を落とすサシャ。
マリエルは何か実験に必要な道具を取り出そうと、床に置いてある箱を実験台まで運ぼうとする。
「うーん……!」
しかし箱は重いらしく、マリエルが精一杯力を入れてもびくともしない。必死に箱を運ぼうとするマリエルは、体をプルプルと震わせていた。
「運ぶの手伝うよ」
サシャはひょいっとマリエルが運ぼうとしていた箱を軽々と持ち上げる。
「サシャ様……申し訳ございません」
マリエルはシュンと肩を落としていた。
「見ていて危なっかしいよ。マリエル嬢は一人で頑張ろうとしているけど、力仕事くらいは手伝わせて」
サシャはフッと優しい表情をマリエルに向けた。
「ですが、サシャ様のお手を煩わせるわけには……」
申し訳なさそうにアメジストの目を潤ませるマリエル。
「俺がそうしたいんだ」
思わずそう口にするサシャ。
先程から自分でも驚くことばかり言ってしまうサシャである。
(今の俺、絶対に普通じゃないな。他の女性には絶対にこんなことしない。でも……マリエル嬢には頼ってもらいたい……)
そんな感情が芽生えるサシャであった。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
少し肩をすくめながら控えめに微笑むマリエル。
サシャは、自身の体温が上昇したような感覚になった。
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ウォーム・ボトル、モデルにしたのはカイロの前身のようなものでアメリカの軍隊で使われていたフットウォーマーです。




