マリエルの編みぐるみ
サシャがマリエルの研究を手伝い始めてから一ヶ月が経過しようとしている。
サシャにとって放課後はマリエルと過ごすことがすっかり当たり前になっていた。
「今日は図書室が少し混んでいまして、気分転換に中庭で専門書を読もうと思いますの。今日は割と気温も暖かいですし」
マリエルにそう言われ、この日サシャは迎えの馬車が来るまで中庭のベンチで過ごすことにした。
マリエルは専門書と実験ノートを見比べている。
(……マリエル嬢、睫毛長いんだな)
真剣そうなマリエルの横顔を眺めるサシャ。
マリエルの長い睫毛は、目に影を落としている。
専門書のページをめくる白く繊細な指は、実験で荒れないようしっかりと手入れされていた。
最初の頃、サシャは専門書に何が書いてあるかさっぱりわからなかった。しかし、マリエルに教えてもらったり、自分で勉強したことにより、今では多少理解出来るようになっていた。
マリエルが何をしようとしているのかも、何となくイメージが出来るようになっていた。
ふと、マリエルの横に置いてあるピンクのうさぎの編みぐるみがサシャの目に入る。
「マリエル嬢、それは……?」
「ああ、お気に入りの子です。この子を近くに置いておくと、何だかやる気が出るのです」
マリエルはサシャの視線の先に何があるか気が付き、ピンクのうさぎの編みぐるみを顔の前に持って来る。
うさぎの耳には赤いリボンが結ばれていた。
マリエルは編みぐるみを大切そうに抱きしめる。
「このリボンは友人の編みぐるみとお揃いでして」
マリエルはふふっと鈴の音が鳴るような声で笑う。
ふとサシャは、セシルが持っていた白猫の編みぐるみを思い出した。
耳にはマリエルが持っているうさぎの編みぐるみと同じリボンが結ばれていたような気がする。
「それってもしかしてセシルと?」
サシャがそう言うと、マリエルはアメジストの目を丸くした。
「ご存じだったのですね」
「まあ、セシルとは家族だし、趣味とかある程度のことは」
「左様でございましたか。うっかりセシル様の趣味を他の方に言わないように気を付けていましたが、サシャ様なら問題ないということですね」
マリエルはホッとしたように胸を撫で下ろしていた。
(マリエル嬢……本当に良い子だ……! マリエル嬢だからセシルも趣味のこととか、心を開いたんだな……)
サシャはマリエルの優しさに、心がじんわりと温かくなった。
「ありがとう、マリエル嬢。これからもセシルのこと、よろしく」
「はい! こちらこそ、セシル様と仲良く出来て光栄です!」
マリエルは大輪の花が咲いたような笑みになった。
(マリエル嬢のその笑顔、好きだな……)
サシャはマリエルの笑顔をずっと見ていたいと思った。
他の、適当に相手をする令嬢になら「その笑顔可愛いね」と軽い口調で言えるのだが、マリエルに対しては上手く言葉が出なかった。
「大変だー! 馬術クラブの暴れ馬が脱走したぞ!」
突然、中庭に慌ただしい声が響き渡る。
どうやら馬術クラブの生徒の声らしい。
「馬術クラブの暴れ馬?」
サシャは眉を顰めた。
「もしかして、ネモフィラのことでしょうか?」
マリエルはうーん、と右上に視線をやり思い出すような素振りをしている。
「ネモフィラ?」
「はい。馬術クラブに所属する友人に聞いたことがあるのです。ネモフィラと名付けられた馬が、とにかく暴れて大変だと」
「……名前に似合わない馬だな」
サシャは苦笑した。
青く可憐で可愛らしいネモフィラ。暴れ馬に名付けるのは少し違うような気がするのであった。
ヒヒーン!
中庭に、馬の鳴き声が響き渡る。
「あ……もしかして、あれがネモフィラ?」
サシャは苦笑しながら突如現れた馬に視線を向けた。
「恐らくそうかと思います」
マリエルは困ったように微笑んでいる。
「うわー!」
「暴れ馬がこっちに来る!」
「ぎゃあ!」
暴れ馬ネモフィラが暴走し、蹴られる生徒達が続出している。
馬は草食動物のはずだが、中庭に現れたネモフィラは凶悪そうな顔付きのように感じた。
「マリエル嬢、ネモフィラがこっちに来ている……!」
「そうですね……! とりあえず、専門書やノートを片付けておいた方が良いかもしれませんね」
表情を引きつらせるサシャ。マリエルも少し焦った様子で専門書とノートを片付け始める。
ヒヒーン!
その時、ネモフィラの激しい鳴き声が響いたかと思いきや、ネモフィラがサシャとマリエルを目掛けて勢い良く駆け出していた。
「マリエル嬢!」
サシャは勢い良くマリエルの体を引き寄せ、抱きしめるようにして暴れ馬ネモフィラからマリエルを守る。
「サシャ様……!」
突然のことに驚くマリエル。
大柄なサシャの体に、小柄で華奢なマリエルはすっぽり収まっていた。
(マリエル嬢……こんなに小さいんだ……! しかも……何だか良い香り……)
サシャの鼓動は速くなる。
サシャがマリエルを引き寄せた勢いで、ピンクのうさぎの編みぐるみが地面をコロコロと転がった。
そこへ、暴れ馬ネモフィラが勢い良く駆けて行く。
その時、ネモフィラはピンクのうさぎの編みぐるみを蹴り飛ばしたのだ。
「あ……!」
マリエルは思わず声を上げた。
(マリエル嬢の編みぐるみ……!)
サシャもその様子をしっかりと見ていた。
暴れ馬ネモフィラは中庭を出て行き、ようやく平穏が訪れた。
「マリエル嬢……咄嗟のこととはいえ申し訳ない……!」
サシャはバクバクする心臓を必死に落ち着かせていた。
「いえ……大丈夫です。守ろうとしてくださって、ありがとうございます」
マリエルは少し肩を落としていた。
編みぐるみは蹴り飛ばされ、どこかに行ってしまった。
どうやらそれがショックだったようだ。
「それに、サシャ様のお陰で怪我はせずに済みましたし、専門書と実験ノートも無事です」
そう笑うマリエル。しかし、必死に悲しさを隠しているように作られた笑みだった。
サシャはいてもたってもいられなくなる。
「マリエル嬢、編みぐるみも探そう。きっと近くにあるはずだ」
マリエルの笑顔を取り戻したい。
その思いがサシャを動かしていた。
サシャは編みぐるみが飛ばされた可能性がある場所を必死に探す。
「サシャ様……」
そんなサシャを見て、マリエルのアメジストの目に、少しだけ光が灯った。
サシャとマリエルはしばらく編みぐるみを探していた。
「あんな所に……!」
マリエルは驚愕したような声だった。
マリエルが示している場所は、大きな噴水の中。
ピンクのうさぎの編みぐるみは、ネモフィラに蹴り飛ばされて噴水の中に落ちてしまったのだ。
「マリエル嬢はそこで待っていて。俺が取りに行くから」
サシャは自身が濡れることを厭わず、噴水の中に入って行く。
幸い浅いので、溺れる心配は全くない。
(マリエル嬢が大切にしている編みぐるみだからな)
サシャは噴水の中で溺れているピンクのうさぎの編みぐるみを救い出した。
「サシャ様、申し訳ございません……! サシャ様がずぶ濡れに……! 今すぐに拭くものをお持ちいたします」
噴水の中から出てきたずぶ濡れのサシャに、マリエルはオロオロしていた。
その表情からは申し訳なさが伝わって来る。
「マリエル嬢、気にしないで。俺は大丈夫だから。このくらい濡れていても平気」
サシャはマリエルを安心させるようフッと笑う。
そして、救出した編みぐるみを差し出す。
「ごめん、マリエル嬢。編みぐるみ、完全にずぶ濡れだ」
サシャの大きな手には、ずぶ濡れの編みぐるみがちょこんと乗っている。
「サシャ様……ありがとうございます。まだ洗えば何とかなる程度でございますから」
マリエルはアメジストの目を潤ませていた。
ホッとしたような、嬉しそうな表情だった。
マリエルはサシャから編みぐるみを受け取り、そっと抱きしめる。
「セシル様と一緒に作ったものなのです。先程も申し上げましたが、赤いリボンはセシル様の編みぐるみとお揃いでして」
サシャはマリエルの話を聞いて、黙って頷く。
(マリエル嬢の笑顔が戻って良かった。やっぱりマリエル嬢は笑顔が似合う)
サシャはホッと胸を撫で下ろしていた。
しかし、気温が暖かめとはいえ季節は冬。
冬に噴水の中に入りずぶ濡れになったサシャは後日、風邪を引いてしまうのであった。
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