【短編】裏切られた最強女騎士は、二度目の人生で自由を選ぶ ~私は幸せだけど、元主の王太子は破滅しているみたいです~
(私はこれから、死ぬのか)
処刑台へ続く階段は、思ったよりも高かった。
処刑場は広かった。
見物人が多い。貴族も、平民も混じっている。
誰もが「罪人」を見に来ている。
処刑台の上には、執行人が立っていた。
その刀身が、薄い光を反射しているのが見えた。
私は最後の一段を踏み、台の上へ上がる。
「罪人、リュシア・エルフェルト」
執行人の声は低く、感情がない。
私は、黙って前を見た。
前を見るしかなかった。
「これより罪状を読み上げる」
紙の擦れる音。
場が静かになる。
人々の呼吸が、ひとつの塊になったみたいに止まる。
「第一、王太子アーヴィン・レグナード殿下の殺害を企てた罪」
……身に覚えがない。
私は一度も、あの男を殺そうと思ったことはない。
少なくとも、今日ここへ連れて来られるまで――私は。
「第二、王国の中枢たる人物を暗殺し、治安を乱した罪」
……身に覚えが、ある。
ただし、今ではない。
数年前だ。
まだ私は、彼の剣として最もよく動いていた頃。
そしてそれは、私の独断じゃない。
――指示したのは、アーヴィン王太子本人だ。
「第三、国家機密を外部へ流出させた罪」
知らない。
私が知っている機密は、彼の命令で守ったものばかりだ。
流す理由がない。流す相手もいない。
「第四、反逆の意志を持ち、騎士団の秩序を乱した罪」
反逆?
私は誰よりも命令に従った。
誰よりも剣を振った。誰よりも、血を浴びた。
その私が、反逆?
執行人の読み上げは淡々と続く。
「以上の罪状により、リュシア・エルフェルトを死刑に処す」
その宣言と同時に、ざわめきが戻った。
興奮した声や、罵声。
誰かが「当然だ」と吐き捨てるのが聞こえた。
ふと、視線が引き上げられるような感覚がした。
私は無意識に顔を上げてしまう。
処刑台を見下ろすように設えられた高台。
そこに、男がいた。
アーヴィン・レグナード。
王太子。
そして――私が忠誠を誓った相手。
金髪は整えられ、衣装は完璧で、表情は穏やか。
まるで、正しい裁きを見届ける王族そのものだった。
その隣に控える側近たちも同じ顔をしている。
誰もが「当然の結末」を見ている目だ。
……なぜ。
なぜ、私はこの男に……忠誠を誓ったのか。
忠誠を誓ったのは、五年前だ。
『――平民のくせに、よく騎士団に入れたな』
『女のくせに、剣を握るなよ』
『どうせ飾りだ。すぐ辞める』
騎士団に入りたての頃。
私は、ずっとそう言われていた。
最初は無視した。
無視するのが一番楽だと知っていたから。
声に反応すれば、相手は喜ぶ。
だから私は、剣だけを見た。
小さい頃から、ただ鍛錬に明け暮れた日々だった。
結果、私に勝てる者は少なくなった。
新兵ではもちろん、長年団にいる熟練の騎士でさえ、私より強い者はそういなかった。
『……あいつ、化け物だろ』
『女のくせに、強すぎる』
『平民のくせに、生意気だ』
噂は膨らんだ。
悪意も、羨望も混ざって。
そして――それを聞きつけたのか。
ある日、騎士団の詰所がざわついた。
『第一王子殿下がお見えだ』
扉が開き、金髪の青年が入ってくる。
『リュシア・エルフェルト。いるか』
『……はい』
私は前へ出て、膝をついた。
礼法は最低限だけ知っていた。必死に思い出した。
第一王子――アーヴィンは、私を上から下まで眺めた。
その視線は、値踏みだった。
でも当時の私は、それを「評価」だと勘違いした。
『噂は本当らしいな。女で、平民で、それでも剣が強い』
『……はい。努力はしてきました』
声が震えないように、腹に力を入れた。
すると彼は、口元だけで笑った。
『努力? 嫌いじゃない。だが俺が欲しいのは結果だ』
すぐに、核心を言った。
『私の剣にならないか』
その瞬間、心臓が跳ねた。
……理解が追いつかない。
けれど胸の奥が熱くなった。
これが救いだと、勝手に思ってしまった。
『私は……女で、平民です。殿下の剣など、恐れ多い……』
『それがどうした? 優秀なら問題ないだろう』
その言葉が、私の胸に刺さった。
刺さって、抜けなくなった。
生まれを理由に否定され続けた私にとって、あれは――。
『……はい。殿下に忠誠を誓います』
私がそう言ったとき、アーヴィンは満足そうに頷いた。
『いい。では試してみろ』
直後の魔物掃討作戦。
それは、騎士団の名を上げる場だった。
私は前へ出て、剣を振るった。
血が飛び、泥が跳ね、魔物が倒れる。
一体、二体、十体。
仲間が退く場面で、私だけが前へ出た。
そして作戦は成功した。
『……見事だ、リュシア』
作戦後。
彼は私の肩に手を置いた。
『今日からお前は、俺の近衛だ』
周囲の騎士がざわめき、嫉妬と恐れが混ざった目を向けてくる。
私はそれさえ誇らしかった。
私の価値が、剣で証明された気がしたから。
それからの私は――。
働きに働いた。
警護は当たり前、常に彼の背後にいた。
命令があれば、どこへでも。
戦争では勝利を。
政敵が多い彼のために、暗殺もした。
夜に動き、誰にも見られず、息を止める。
重要人物と呼ばれた者も、私の剣で倒れた。
そのたびに、彼は言った。
『よくやった。お前は俺の剣だ』
私は疑わなかった。
彼が正義だと思った。
彼が王になることが国のためだと信じた。
信じたかった、のかもしれない。
信じることでしか、自分のやっていることを正当化できなかったから。
ただ一つ……断ったことがある。
夜、彼の部屋に呼ばれ、扉が閉まる。
『リュシア。お前も女だろう。剣だけではつまらない』
彼の手が伸びる。
私は一歩引いた。
『……私は殿下の剣として生きます』
彼は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑った。
『……わかった。お前はそういう女だったな』
その時の私は、納得したのだと思っていた。
――甘かったのだ。
現実へ引き戻される。
処刑台、高台にいるアーヴィン。
私の視線に気づいたのか、彼は微笑んだ。
まるで哀れむように。
まるで「仕方ない」と言うように。
そして、牢屋での言葉が蘇る。
処刑場へ連れて来られる前。
薄暗い牢で扉が開き、彼が入ってきた。
『……殿下』
アーヴィンは、檻の外から私を見下ろして言った。
『お前は強すぎた。それに、俺の言うことを聞かない女はいらない』
その言葉だけで、胸の奥が冷えた。
私は何か言おうとした。
でも言葉が見つからなかった。
『もともと本当は嫌だったんだ。平民で女を近衛騎士にするなんて。恥でしかない』
「……殿下」
声が掠れる。
彼は、吐き捨てるように言った。
『顔と身体が良いから遊んでやろうと思っていたが、最後までお前はつまらなかったな』
……ああ、そうか。
これが本音なのか。
復讐の炎は、上がらなかった。
怒りも、燃えなかった。
ただ、虚しかった。
私は、何をしてきたのだろう。
誰のために、剣を振ったのだろう。
なぜ、こんな人間を信じたのだろう。
もっと自分の人生を生きればよかった。
それだけが、悔やまれた。
処刑台の上、執行人が後ろへ回る。
肩を押され、私は膝をつく。
首を固定する木の枠が冷たい。
(終わるんだ)
執行人が刀を構える気配。
風を切る音が、かすかに聞こえた気がした。
そして首に、痛みが来て――。
世界が、ひっくり返った。
「――っ!」
私は跳ね起きた。
喉に手を当てて、首を撫でる。
……切れていない。血もない。痛みもない。
「はぁ、はぁ……」
息が荒い。心臓が暴れている。
汗が背中を伝う。
私は、周囲を見渡した。
天井が低い。窓も小さい。
豪奢さはどこにもない、質素な部屋。
――騎士寮の部屋だ。
私は、思わず口を開けた。
「……ここは」
私はこの部屋を知っている。
近衛騎士になる前。
まだ、王太子の剣になる前。
騎士団に入ったばかりの頃に、住んでいた寮の部屋だ。
混乱したまま、私は鏡台へ向かう。
「……っ」
あるはずの傷がない。
頬の小さな古傷も、手の甲の裂けた痕も、薄い。
若い、明らかに若い。
視線を下げる。
机の上に、日付の書かれた紙が置いてあった。
訓練の予定表。
私は指でなぞり、読み取る。
「……五年前?」
声が裏返りそうになるのを、必死に押し殺した。
……そんな馬鹿な。
でも目の前の現実が、それ以外を許さない。
私は鏡を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。
胸の奥の空虚さが、まだ残っている。
処刑台の冷たさが、まだ皮膚に貼り付いている。
執行人の刀が、まだ首の後ろにある気がする。
――なのに、私は生きている。
(まさか……回帰?)
夢でもない、幻でもない。
これは、「やり直し」なのか。
私の口から、かすれた笑いが漏れそうになった。
笑えるはずがないのに、笑ってしまいそうだった。
だって――。
(私は、まだあいつの剣じゃない)
五年前、あの男に拾われる前。
何もかも、始まる前。
私は、鏡の中の自分と目を合わせた。
淡い銀青の目が、私を見返す。
そこには怯えもある。混乱もある。
けれど――。
(次は、違う)
復讐なんてしない。
燃やすほどの熱も、もう残っていない。
ただ、関わらない。
ただ、自分のために生きる。
私は小さく呟いた。
「……私は、まだ死んでいない」
私は鏡から目を逸らし、ゆっくり息を吐いた。
まずは、いつも通りに動くしかない。
変に目立てば、余計なものを呼ぶ。
私は粗い寝台から降り、訓練着に着替えた。
寮を出ると、朝の空気が冷たかった。
騎士団の敷地はいつも通り。
訓練場へ向かう足音、誰かの笑い声、鉄の擦れる音。
世界は何も変わっていない顔をしている。
――私だけが、変わってしまった。
訓練場へ入る。
武器を打ち合わせる乾いた音があちこちで鳴っている。
私はいつもの端へ向かった。
目立たない場所。
壁際に近い、少し影になるところ。
(ここなら、余計なものは来ない)
剣を握ると、重さが掌に馴染む。
この感触は、裏切らない。
私は一歩踏み込み、素振りを始めた。
踏み込み、振り下ろし、返し。
身体が覚えている。
五年分どころじゃない。
死ぬまで振ってきた。
剣だけが、私の人生だった。
けれど――。
(これからは、剣だけじゃない)
そう思った瞬間、ほんの少しだけ胸が軽くなった。
不思議だった。
私はこんなことを考える人間だったのか。
ふと、視線を感じる。
遠目で、男たちがこちらを見ている。
何人も、けれど近づいては来ない。
仕掛けても来ない。
……そうか、終わっているのだ。
格付けが。
私は回帰したのは「騎士団に入った直後」ではない。
すでに、ここで勝ってきた後。
女だ、平民だ、と囀られながらも、黙らせてきた後。
だから彼らは、遠巻きに見るだけ。
(……まあ助かるな)
絡まれるのは面倒だから。
その時だった。
訓練場の空気が、変わった。
さざめきが一斉に引く。
誰かが息を呑む。
地面を踏む足音が、近づいてくる。
私は剣を止めなかった。
止めたら、気づいてしまいそうだったから。
「第一王子殿下がお見えだ」
誰かの声。
男たちが一斉に動き、道が開く。
そして、金髪の青年が現れた。
アーヴィン・レグナード。
――あいつだ。
心臓が跳ねると思った。
怒りが湧くと思った。
復讐の炎が、燃えると思った。
……何も湧かなかった。
ただ、冷たく思った。
(関係ない。関わりたくない)
それだけ。
私は剣を納め、訓練場の端で膝をついた。
形式だ。
ここで逆らって目立つ意味がない。
だが、足音は止まらない。
私の前へ来る、真っ直ぐに。
そして私の目の前で、足が止まった。
「この者か。噂の女性騎士は」
上から落ちてくる声。
よく知っている声。
五年、彼の背後で聞き続けた声。
牢で、私を捨てた声。
「面を上げよ」
言われて、私は顔を上げた。
視界に金髪が入る。
整った顔で柔らかな笑み、王子の仮面だ。
(……相変わらずだな)
その顔を見ても、胸は熱くならない。
こんなに無関心でいられるなんて、自分で自分が怖いくらいだ。
私って、こうも冷たい人間だったか。
アーヴィンは、私をじっと見た。
値踏みの視線。
昔はそれが嬉しかった。
見つけてもらえた、と思った。
――それは、嘘だ。
あれは、拾われたんじゃない。
使える道具を見つけただけだ。
「お前、名は?」
「……リュシア・エルフェルトであります」
声は平静でいられた。。
敬語も、姿勢も崩れない。
「女で平民。だが剣が強い。……噂は本当らしいな」
「恐れ入ります」
アーヴィンは口元だけで笑った。
「私の剣になれ」
来た。回帰前と同じ言葉。
私は、息を吸って、吐いた。
「申し訳ございません。お断りいたします」
一瞬、周囲がざわついた。
周りの男たちの顔が引きつる。
当然だ。
王子の誘いを断る者など、ここにはいない。
アーヴィンの眉が、わずかに動いた。
「断る?」
「はい。身に余ります」
「女性だからと遠慮しているのか?」
声は穏やかなのに、圧がある。
昔はその圧すら、守られているように錯覚した。
「私は優秀なら問題と思っている」
……嘘だ。
私はもう知っている。
優秀だから、ではない。
駒として使えるから、だ。
そして、従わない女は要らない。
私は膝をついたまま、視線を落とした。
最後まで礼を崩さない。
「恐れながら。私は騎士団の一兵で十分でございます。殿下に仕える器ではありません」
沈黙が落ち、周囲の息が止まる。
その中で、アーヴィンに付き従う男が一歩前に出た。
「第一王子殿下の誘いを断るなど、なんて無礼か!」
怒声を上げるが、私は顔を上げない。
言い返す必要がない。
アーヴィンは、その男を片手で制した。
「よい」
短い一言で、場が凍る。
そしてアーヴィンは、私を見下ろしたまま言った。
「……ふん。つまらん」
その声に、苛立ちが混じったのが分かった。
仮面が少しだけ剥がれる瞬間。
「出世欲もない奴に用はない」
そのまま踵を返す。
金髪が揺れ、護衛が続く。
周囲の騎士たちは一斉に頭を下げた。
私も、膝をついたまま頭を垂れた。
足音が遠ざかり、空気が少しずつ戻る。
……行った。
(興味を失った、か)
よかった。
私は安堵して、息を吐いた。
本当に、心の底から。
確かに私は出世欲がない。
回帰前も、今も。
私はただ剣を振り、命令に従い、役に立つことで価値を示す――それだけだった。
でも今は違う。
人のためじゃなく、王族のためじゃなく。
自分のために、生きたい。
私は剣を握り直し、また素振りを始めた。
今度は、少しだけ呼吸が楽だった。
――その日の鍛錬が終わり、私は寮へ戻ろうと訓練場を出た。
汗が冷えて、肌着が肌に張りつく。
「リュシア」
後ろから、落ち着いた声がした。
私は足を止めて振り返る。
そこに立っていたのは、細身の男だった。
黒に近い濃紺の髪、灰色の目。
騎士ではない。
ノアール・レイモンド、宮廷魔術師だ。
「ノアール……様」
「様はいらない。ここは堅苦しい場所じゃないだろう」
淡々とした口調。
彼は平民の私にも分け隔てなく会話をしてくれる数少ない人だ。
「第一王子に声をかけられたんだって?」
噂は早い。
騎士団の中だけでなく、宮廷の耳にも届く。
「はい。ですが、お断りしました」
「……断った?」
ノアールが珍しく目を見開いた。
驚いた顔。
回帰前に何度か見たが、いつもより分かりやすい反応だ。
「君なら、そういう話は受ける者かと思っていた」
私は、少しだけ視線を逸らした。
確かに回帰前の私は、受けただろう。
受けて、忠誠を誓って、剣になって、最後に捨てられた。
――あの日、ノアールは言ったのだ。
『アーヴィン様は、君を守らないよ』
今さら思い出して、胸がきゅっと縮む。
あの時の忠告を聞いていたら。
でも、もう今さらだ。
私は一度死んだ。
その現実は、変えられない。
だからこそ、今がある。
「私は変わりました」
口から出た言葉は、思ったよりも自然だった。
「今は、自分がどうしたいか考えたい気分なのです」
ノアールは一拍置いてから、ふっと息を吐いた。
「……そ、そうか」
どこか安堵したように、少しだけ肩の力が抜ける。
「まあ、いいことだな」
私は、その言葉に少し驚いた。
反対されると思っていたから。
王族に仕えることは、名誉だ。
その名誉を蹴る私を、愚かだと言う者は多い。
さっきもアーヴィン様の誘いを断った直後、周りの声や視線がそう言っていた。
でもノアールは、愚かだとは言わなかった。
私は小さく言った。
「私を心配してくれたのでしょう? ……ありがとうございます」
思えば、回帰前で私のことを純粋に心配してくれていたのは、彼くらいだっただろう。
ノアールの眉がわずかに動く。
「本当に大丈夫か? リュシアじゃないみたいだ」
その言葉に、私は思わずクスッと笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに。
「そうね。そうかもしれないわ」
自分の声が、少し柔らかい。
それが可笑しかった。
私の中に、こんな余裕が残っていたなんて。
「……いったい何があったんだ?」
ノアールは呟くように言った。
答えられるわけがない。
処刑されて、回帰した、なんて。
信じてもらえるはずがない。
私は首を横に振る。
「秘密です」
「……そうか」
ノアールはそれ以上踏み込まなかった。
その距離感が、ありがたい。
「じゃあ、気をつけて戻れ。王子の誘いを断ったんだ。変な噂が立つかもしれない」
「はい」
私が踵を返すと、背中に視線が残った。
振り返らなくても分かる。
ノアールはまだ私を見ている。
「……」
私は一瞬だけ振り返った。
ノアールと目が合う。
彼は、ほんの少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。
……不思議な人だ。
回帰前も、こういうところがあった気がする。
私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じて、今度こそ歩き出した。
――数日後。
休暇日が来た。
回帰前、私は近衛になってから一日も取っていない。
取らせてもらえなかったのか、取ろうとしなかったのか。
今になっては、どちらでも同じだ。
部屋の中で、私はしばらく考えた。
何をすればいい?
剣を振るう?
……それだといつも通りだ。
それでは休暇の意味がない。
(……街に出るか)
ただそれだけのことなのに、少しワクワクした。
(何をすればいいかわからないけど、新しいことだ)
私は外套を羽織り、財布を確かめ、寮を出た。
門を抜けると、街へ続く道が見える。
賑やかな声。
焼き立てのパンの匂い。
人の暮らしの音。
それらが、私の知らなかった世界のように思えた。
同時に、胸の奥が少しだけ疼く。
(……私は、何を見落としてきたんだろう)
その答えを探すみたいに、私は街へ向かって歩き出した。
「ひったくりよ!!」
……街を歩いて数分後。
鋭い叫び声が、背中の方から飛んできた。
反射で足が止まる。
私は振り返った。
中年の女性が、必死の顔で走り出している。
その少し先に、袋を抱えた男がいた。
逃げる男、追う女性。
周囲は驚いて道を開けるが、誰も手を出せない。
……仕方ない。
私は人の流れを縫って走り出す。
男は路地へ飛び込んだ。
狭い。暗い。
逃げるにはちょうどいい場所。
私は同じように路地へ入った。
ふむ、私のほうが足は速いな。
男は振り返り、私を見ると顔を歪めた。
「ちっ……!」
次の瞬間、私は距離を詰めていた。
腕を掴み、捻る。
「いたたたたっ!! な、なんだよお前!!」
男の腕が不自然な角度に曲がる。
骨が鳴りそうな感触。
私は淡々と力を調整する。
折るつもりはない、大人しくさせるだけ。
「動くな」
「痛いって! 離せ!!」
「離したら逃げるだろう」
男が呻きながら暴れようとする。
でも無駄だ。
私は体重を乗せ、腕を捻ったまま壁に押し付ける。
「うぐっ……!」
回帰前なら、こういう小賢しい犯罪者に関わる余裕はなかったな。
その時、背後から足音が増えた。
路地の入口から、男たちが入ってくる気配。
私は男を押さえたまま、視線だけをそちらへ向けた。
五人。
いずれも荒れた目。手に短い棒や、石。
こいつの仲間か。
ひったくりの男が、歪んだ顔で笑った。
「兄貴たち! やっちゃってください!」
……やっぱり。
男たちは私を値踏みするように見て、下卑た笑みを浮かべた。
「おいおい、上玉じゃねえか」
「ひったくり追ってきたのか? 正義感が強いねえ」
「このあと楽しめそうだなぁ?」
鳥肌が立つ。
けれど、怒りは湧かなかった。
ただ、冷えた。
(……ああ、こういうのは嫌いだ)
それだけが、はっきりしていた。
私はひったくりの男の腕をさらに捻った。
男が悲鳴を上げる。
「いでえええっ!! ちょ、ちょっと待っ――!」
「うるさい」
私は男を壁に押し付けたまま、暴漢たちを見た。
「来るなら来い」
「強気だ、なぁ!」
先頭の男が棒を振り上げる。
振り下ろす――その軌道が見えた。
私はひったくりを放した。
放した瞬間、男が逃げようとする。
私は足を引っかけ、転ばせる。
そのまま暴漢の棒を腕で受け流し、肩で体当たり。
「ぐっ!?」
男の体が壁に叩きつけられる。
次の一人が殴りかかってくる。
私は肘を落とし、鳩尾へ。
「がっ……!」
息が抜けた男が崩れる。
三人目が背後から掴もうとする。
私は相手の懐に肩を入れて体を回し、腕を取って投げた。
地面にたたきつける、鈍い音。
路地の土埃が舞う。
「なっ……!」
四人目が石を投げた。
私は身体を半歩ずらす。
石が壁に当たり、砕けた。
「遅い」
私は踏み込む。
掌底で顎を押し上げ、吹き飛ばした。
最後の一人が、怯えた顔で後ずさる。
「お、おい……何者だお前……!」
ひったくりの男も、地面に這いつくばったまま震えている。
私は息を整えた。
回帰前なら、ここで言っていたかもしれない。
王太子の剣だ、と。
……でも今は。
「ただの、リュシアだ」
それだけでいい。
男たちは言葉を失っていた。
私は彼らを一瞥し、路地の入口へ向かって声を張った。
「憲兵を呼んでください! ひったくりと暴漢です!」
近くにいた誰かが、慌てて走っていく足音がした。
ほどなくして、鎧の擦れる音が近づく。
憲兵が二人、路地へ入ってくる。
状況を見て顔を引きつらせた。
「……お前がやったのか?」
「はい。逃げようとしたので止めました」
「……全員?」
「はい」
憲兵は一瞬黙り、すぐに暴漢たちを拘束し始めた。
手際はいい。
私はひったくり男が落とした袋を拾い、表の通りへ戻った。
そこには、さっき叫んでいた女性がいた。
息を切らしながら、私を見る。
「あなた……!?」
私は袋を差し出した。
「これ、あなたのですよね」
「そう! そうよ! ああ、よかった……!」
女性は袋を抱きしめ、泣きそうな顔で笑った。
周囲の人もざわつく。
誰かが「すげえ」と言った気がする。
「ありがとう、本当にありがとう! 綺麗なお嬢さん!」
綺麗。
その言葉に、私は少しだけ戸惑った。
剣しか見てこなかったから、そういう言葉に慣れていない。
「いえ……当然のことをしただけです」
「当然!? そんなわけないよ! あいつら、いつも誰も追えなくて困ってたんだから!」
女性は私の手をがしっと握ってきた。
握力が強い。
「お礼しなきゃ気が済まない! ねえ、うちの定食屋で昼食食べていきな!」
「いえ、私は――」
「だーめ! 断るの禁止! 命の恩人みたいなもんだよ!」
押しが強い。
私は一瞬、逃げたくなった。
(……逃げる理由もないか)
こういう善意から逃げるのは、今は何かが違う気がした。
「……わかりました。少しだけ」
「よし! 決まり! さ、こっちこっち!」
女性は私の腕を引っ張って歩き出す。
私は引かれるまま、通りを進んだ。
店はすぐだった、小さな定食屋。
扉を開けると、湯気と香ばしい匂いが押し寄せてくる。
「いらっしゃい……って、お母さん!? どうしたの!」
中から、少女の声。
カウンターの奥から、小さな女の子が飛び出してきた。
十歳くらいか。
「聞いてよ! このお姉さんがね、ひったくり捕まえてくれたの!」
「えっ!? すごい!」
女の子は私を見上げて、目を輝かせた。
「ねえねえ、お姉さん騎士さま!? 強いの!? 剣持ってる!? 魔法も使える!?」
質問が止まらない。
私は一歩引きそうになった。
(……子どもって、こんなに喋るのか)
知らなかった。
騎士団には子どもはいない。
戦場にも、できればいない方がいい。
私は子どもと話す機会がなかった。
いや、避けていたのかもしれない。
「剣は……今は持ってない」
「えー!? じゃあどうやって捕まえたの!」
「素手で」
「素手!? すごーい!!」
女の子は本気で感動している顔をした。
母親らしい女性が、私の背中を軽く叩く。
「ほらほら、座って座って! 今作るから!」
「本当に、そこまでしていただかなくても……」
「いいの! 私がしたいの!」
押しが強い。
でも嫌じゃなかった。
強いのに、温かい。
私は言われるまま、店の席に座った。
店内は昼時らしく、人が数人いる。
皆こちらをちらちら見ながらも、嫌な視線じゃない。
「お姉さん、名前は?」
女の子が隣に座って、顔を覗き込んでくる。
「リュシア」
「リュシアお姉ちゃん!」
その呼び方に、私は一瞬言葉を失った。
お姉ちゃん。
それは、私が一度も呼ばれたことのない呼び方だった。
「お姉ちゃんって呼んでいい? だめ?」
「……好きにして」
「やった!」
女の子は嬉しそうに笑った。
その笑顔が、眩しい。
厨房から、油の弾ける音がする。
香りが濃くなる。
私は鼻をくすぐられて、無意識に息を吸った。
(……匂いが、こんなに強い)
回帰前の食事は、最低限だった。
パンと水、それに乾いた肉。
味などどうでもよかった。
生きるための燃料。
それ以上でも以下でもない。
でも今、ここにある匂いは違う。
「はい、お待たせ!」
女性が、盆を運んできた。
湯気が立つ白い飯。
香ばしい焼き魚。
味噌の匂いがする汁物。
小鉢の漬け物。卵焼きまである。
私は、目を瞬いた。
「……これが、定食?」
「そう! うちの看板!」
女性が胸を張る。
女の子も得意げに頷いた。
「母ちゃんのごはん、世界一なんだよ!」
私は箸を手に取った。
こういうちゃんとした食事を前にするのは久しぶりで、緊張する。
まずは汁を一口。
「っ……」
熱い……でも優しい。
身体の奥へ、じわっと染みていく。
そして魚。
皮が香ばしく、身が柔らかい。
口の中でほろりと崩れる。
私は、息を呑んだ。
(……美味しい)
初めて、そう思った。
いや、美味しい、という感覚自体は知っていたはずだ。
だけどそれは、言葉として知っていただけだった。
胸が熱くなる。
腹が満たされるだけじゃない。
心のどこかが、満たされていく。
「どう? 美味しいでしょ!」
女性が期待の目で見てくる。
女の子も身を乗り出している。
私は少しだけ口を開いた。
「……はい、美味しいです」
それだけ言うのに、喉が詰まった。
自分でも不思議だ。
私は戦場で泣かなかった。
処刑台でも、泣かなかった。
なのに、今は泣きそうになる。
「でしょ! ほらほら、いっぱい食べな!」
「リュシアお姉ちゃん、もっと! 卵焼きも食べて!」
女の子が卵焼きを押してくる。
私は頷き、食べた。
とても美味しく、店内の空気も温かい。
(……これが、暮らし)
私は今まで、何をしていたんだろう。
剣を振るって、命令を聞いて、誰かのために動いて。
でもその誰かは、私を守らなかった。
ここには、命令もない。
支配もない。
ただ、ありがとう、と言ってくれる人がいて。
笑って暮らしている子どもがいて。
温かい飯がある。
私は箸を止めて、少しだけ息を吐いた。
(……生まれてから初めてかもしれない)
こんなふうに、安心したのは。
女性が私の顔を覗き込む。
「どうしたの? 口に合わなかった?」
「いえ……逆です」
「逆?」
「……美味しすぎて、困っています」
一瞬、女性が目を丸くした。
次の瞬間、豪快に笑った。
「なにそれ! 困るくらい食べな!」
女の子も笑う。
「リュシアお姉ちゃん、変なのー!」
私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ちゃんと笑えているかは分からない。
でも、胸の奥が温かい。
(……こういう温かさを。これから、知っていきたい)
剣を振るうだけの人生じゃなく。
誰かの命令のためではなく、自分のために。
そして――こういう場所を守れる自分でいたい。
私はもう一口、味噌汁を飲んだ。
◇
第一王子アーヴィン・レグナードの私室は、王宮の中でも静かな区画にあった。
そこにいる本人の苛立ちだけが、部屋の空気を汚していた。
「……なんだ、あの女は」
アーヴィンは椅子に深く腰を下ろしたまま、片手で額を押さえた。
「俺が『来い』と言ったんだぞ……!」
怒鳴るほどの声量ではない。
だが低い声の底に、抑えきれない苛立ちが沈んでいる。
机の前に控えているのは、側近数名。
貴族出身の若い騎士と、実務を回す文官。
いずれもアーヴィンの機嫌を伺うように姿勢を正し、彼の言葉を待っている。
苛立ちの原因は一人の女騎士――リュシア・エルフェルト。
数日前、騎士団の訓練場に赴き、噂の真偽を確かめに行った。
『強い女がいる』
『平民だが剣の腕は団内でも上位』
『男騎士の中でも勝てる者はほとんどいない』
そんな話が、耳に入っていた。
アーヴィンは最初、ただの誇張だと思った。
騎士団は噂話が好きだ。
新顔を持ち上げ、叩き、勝手に盛り上がる。
だが、複数の筋から同じ話が来る。
しかも内容が妙に具体的だった。
どの隊の誰を倒した、どの訓練で誰が腕を折られた、誰が尻餅をついた――。
(それだけ強いなら、使える)
それが、彼の結論だった。
王位継承者争いは、綺麗事では勝てない。
実績と、結果と、そして駒が要る。
強い剣は強いほどいい。
命令に従う剣なら、なおいい。
そしてアーヴィンは、実際にリュシアを見て思ったのだ。
顔立ちは整い、身体つきは鍛えられているのに無駄がない。
鎧の上からでも分かる線のしなやかさ。
どこか冷えた雰囲気が、逆に従わせたくなる。
(手下に入れてやる価値はある。……幸い、見た目も悪くない)
そう思って声をかけた。
だが――。
「まさか、全員の前で断られるとはな」
アーヴィンが吐き捨てると、側近の一人がすぐに追従するように口を開いた。
「殿下、あの者は礼儀もなっておりません。平民の分際で、殿下の御前で断るなど……生意気にも程がございます」
「ええ。あんな女がいなくとも、殿下の近衛は揃っております。騎士団の噂など、所詮は戯言。例え剣の腕前が良くても、戦場では怖気づいて足手まといになる可能性も」
別の側近も、同意するように頷いた。
それは半分は本心で、半分はアーヴィンの機嫌を取るための言葉だ。
アーヴィンは口元を歪め、短く息を吐く。
「ああ、お前らの言う通りだな」
側近たちも安心して、言葉を続ける。
「あの者は意気地なしなのでしょう。殿下の剣になる覚悟もない。ただの田舎の剣自慢に過ぎません」
「……ふん」
アーヴィンは頷きながらも、胸の奥が冷えるのを感じていた。
側近の言葉を聞いて気が晴れるほど、単純ではない。
(意気地なし? 違う)
あの女は、怖がっていたのではない。
むしろ平然としていた。
膝をついた姿勢も、声も、視線の落とし方も。
礼儀は守っていた。守ったうえで断ったのだ。
あれは――拒絶だった。
(俺を拒んだ)
それが、腹が立つ。
王族に逆らうという意味を理解していないのか。
それとも理解した上で、やったのか。
どちらにしても、気に入らない。
「……まあいい」
アーヴィンは椅子の肘掛けを指で叩いた。
一定のリズム、苛立ちが指先に出る。
「数日後には魔物掃討作戦だ。俺はそれを成功させ、実績を作らねばならない」
側近たちが一斉に背筋を伸ばす。
この話題は重要だ。
魔物掃討作戦。
王都周辺で増えた魔物を討ち、被害を抑え、民に王子の力を示す。
成功すれば名声が立つ。
失敗すれば笑われる。
そして王位継承争いの盤面で、致命的に不利になる。
アーヴィンは本来、こういう場で勝てる男だ。
だからこそ、彼は自分の駒を増やそうと思った。
強い騎士は、使い道がある。
魔物を斬らせるのもいい。
邪魔な者を消させるのもいい。
必要な情報を集めさせるのもいい。
だが、リュシアは拒んだ。
(……だが問題ない)
アーヴィンは自分に言い聞かせるように思った。
「戦力は揃っている。あんな女がいなくても全く問題はない」
側近たちがすぐに頷く。
「その通りでございます、殿下」
「我々が必ずや殿下をお守りし、勝利をお持ちいたします」
「殿下の指揮のもとなら、魔物ごときに遅れは取りませぬ」
アーヴィンは部下の言葉を聞きながら、胸の奥の苛立ちを押し込めた。
(勝てばいい。勝てば、あの女のことなど忘れる)
そうだ、勝てば全ては正しい。
――そして数日後。
森へ向かう騎士たちの列が、王都の門を出ていく。
アーヴィンは立派な馬車に乗り、窓の外を眺めていた。
随行する騎士は数十人。
精鋭だ。貴族出身の騎士も多く、見栄えもいい。
いかにも第一王子の軍、という顔をしている。
(これだけいれば十分だ)
アーヴィンは胸の内で頷く。
彼は戦場そのものに立つタイプではない。
指揮官として、上から見て指示をする。
それが彼の役割だ。
目的地は、森の奥。
魔物が増えたという報告がある場所。
住民の話では、沼地が多く、奇妙な鳴き声が夜に響くという。
――そこで、最初の違和感があった。
森の奥へ進むにつれ、地面が柔らかくなる。
湿った土。足を踏み出すたび、沈む。
靴の底に泥が絡みつく。
「……ぬかるんでいますな」
騎士の一人が眉をひそめる。
アーヴィンは馬車の中からそれを眺め、軽く鼻を鳴らした。
「沼地か。まあ、多少足元が悪い程度だろう」
側近がすぐに同意する。
「問題ございません。魔物は結局、数で押せばよい」
「殿下の指揮で、速やかに掃討いたしましょう」
アーヴィンは頷いた。
敵は魔物だ、人間のような策はない。
――その判断が、浅かった。
最初に現れたのは、蛙に似た魔物だった。
ぬらぬらとした皮膚。異様に大きな口。
そして、背中の腺が膨らんでいる。
「蛙型か。簡単だ、斬れ!」
騎士たちが突撃する。
剣が閃き、数体が倒れる。
だが次の瞬間。
「――ぐっ!?」
前線の騎士が、突然膝をついた。
剣を落とし、喉を押さえる。
顔色が一気に青くなる。
「な、なんだ……!?」
別の騎士も同じように倒れた。
呻き声を出し、口から泡を出し痙攣している騎士がいる。
空気に、甘い腐臭が混じる。
目が痛い。喉が焼ける。
「毒だ!! 毒霧だ!!」
誰かの叫び。
気づいた時には遅かった。
蛙の魔物は、沼地に適応している。
人間は足を取られ、動きが鈍る。
そこへ毒。
足元が悪いから避けられない。
倒れた仲間を助けようと近づけば、さらに毒を吸う。
前線が崩れ、指揮系統が乱れる。
恐怖が広がる。
「殿下! 下がってください!」
護衛が馬車の扉を閉め、周囲に盾を構える。
アーヴィンは窓越しに戦場を見た。
騎士が倒れていく。悲鳴が上がる。
沼地に沈み、助けようとした者まで引きずられる。
(……なぜだ)
勝てるはずだった。
数もいる。装備もある。
なのに――。
「撤退だ! 撤退しろ!!」
誰かが叫ぶ。
指揮官であるアーヴィンの声ではない。
現場の混乱が生んだ、悲鳴に近い命令。
アーヴィンは叫びたかった。
撤退など、許されるはずがない。
だが現実は、彼の許可を待たなかった。
――撤退した。
馬車が揺れる。
車輪が泥に取られ、何度も大きく跳ねた。
車内でアーヴィンは拳を握り締めていた。
爪が掌に食い込み、痛い。
だがそれでも力が抜けない。
外では呻き声が続く。
毒にやられた者たちが、運び込まれている。
「殿下……死者が十三。重傷者が八」
「……っ」
アーヴィンの喉が詰まる。
数が問題ではない。
失敗した、という事実が問題だ。
馬車の中で、ついに彼は爆発した。
「な、なぜ……なぜこんなことになった!?」
声が裏返り、情けない響きになる。
アーヴィンは机代わりの台を殴った。
側近たちが青ざめる。
「殿下、落ち着きを……」
「落ち着けだと!? これでどう落ち着けという!!」
アーヴィンの脳裏に浮かぶのは、王都の貴族たちの顔。
『第一王子は見栄だけだ』
『所詮は血筋頼みのお坊ちゃんだな』
そんな言葉が、今にも飛んできそうだった。
「このままでは、王位継承権争いが……!」
彼の声に、絶望が滲む。
側近たちは必死に言葉を探す。
「殿下、今回は不運が重なっただけでございます」
「情報が足りなかったのです。次は――」
「黙れ!」
――アーヴィンは知らない。
もし、リュシアがいたなら。
彼女がいたなら、結果は違ったことを。
リュシアは一人で前へ出て、斬る。
泥に足を取られない体捌きで、魔物の群れを割る。
毒を浴びる前に、喉を断つ。
そして勝利を作った。
だから、アーヴィンは上へ行けた。
王太子へ、王に最も近い場所へ。
その裏で、リュシアが汚れ仕事をした。
邪魔者を消し、必要な情報を拾い、命令に従って血を流した。
寝る間も惜しんで。食べる間も削って。
アーヴィンのために。
――だが今、彼女はいない。
馬車の外で、重傷者の呻き声が聞こえる。
血の匂いが漂ってくる。
護衛の騎士が呟いた。
「殿下……この損害は……」
アーヴィンは歯を食いしばった。
「黙れ」
怒りが、喉を焼く。
だが怒りでは、失点は消えない。
苛立ちだけが積もる。
(……あの女がいれば変わったのか? いや、そんなわけはない)
思考がそこへ滑るのが、さらに腹立たしかった。
必要ないと言ったのは自分だ。
いなくても問題ないと頷いたのも自分だ。
なのに。
「……くそ……!」
アーヴィンは顔を歪めた。
それでも彼は、まだ知らない。
失ったのが、ただの強い騎士ではないことを。
彼の欲しいものを、黙って拾い集め、彼の泥を肩代わりし、彼の勝利を作り続けていた存在だったことを。
そして――。
寝る間も食べる間も惜しんで、自分のために働いてくれたリュシアがいない世界では。
アーヴィン・レグナードに、明るい未来はなかった。
名もなき女騎士が、街で温かな定食を食べていることを――アーヴィンはまだ知らない。
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