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【短編】裏切られた最強女騎士は、二度目の人生で自由を選ぶ ~私は幸せだけど、元主の王太子は破滅しているみたいです~

作者: shiryu
掲載日:2026/02/14



(私はこれから、死ぬのか)


 処刑台へ続く階段は、思ったよりも高かった。


 処刑場は広かった。

 見物人が多い。貴族も、平民も混じっている。


 誰もが「罪人」を見に来ている。


 処刑台の上には、執行人が立っていた。

 その刀身が、薄い光を反射しているのが見えた。


 私は最後の一段を踏み、台の上へ上がる。


「罪人、リュシア・エルフェルト」


 執行人の声は低く、感情がない。


 私は、黙って前を見た。

 前を見るしかなかった。


「これより罪状を読み上げる」


 紙の擦れる音。


 場が静かになる。

 人々の呼吸が、ひとつの塊になったみたいに止まる。


「第一、王太子アーヴィン・レグナード殿下の殺害を企てた罪」


 ……身に覚えがない。


 私は一度も、あの男を殺そうと思ったことはない。

 少なくとも、今日ここへ連れて来られるまで――私は。


「第二、王国の中枢たる人物を暗殺し、治安を乱した罪」


 ……身に覚えが、ある。

 ただし、今ではない。


 数年前だ。

 まだ私は、彼の剣として最もよく動いていた頃。


 そしてそれは、私の独断じゃない。

 ――指示したのは、アーヴィン王太子本人だ。


「第三、国家機密を外部へ流出させた罪」


 知らない。


 私が知っている機密は、彼の命令で守ったものばかりだ。

 流す理由がない。流す相手もいない。


「第四、反逆の意志を持ち、騎士団の秩序を乱した罪」


 反逆?


 私は誰よりも命令に従った。

 誰よりも剣を振った。誰よりも、血を浴びた。


 その私が、反逆?


 執行人の読み上げは淡々と続く。


「以上の罪状により、リュシア・エルフェルトを死刑に処す」


 その宣言と同時に、ざわめきが戻った。

 興奮した声や、罵声。


 誰かが「当然だ」と吐き捨てるのが聞こえた。


 ふと、視線が引き上げられるような感覚がした。

 私は無意識に顔を上げてしまう。


 処刑台を見下ろすように設えられた高台。

 そこに、男がいた。


 アーヴィン・レグナード。

 王太子。

 そして――私が忠誠を誓った相手。


 金髪は整えられ、衣装は完璧で、表情は穏やか。

 まるで、正しい裁きを見届ける王族そのものだった。


 その隣に控える側近たちも同じ顔をしている。

 誰もが「当然の結末」を見ている目だ。


 ……なぜ。

 なぜ、私はこの男に……忠誠を誓ったのか。


 忠誠を誓ったのは、五年前だ。


『――平民のくせに、よく騎士団に入れたな』

『女のくせに、剣を握るなよ』

『どうせ飾りだ。すぐ辞める』


 騎士団に入りたての頃。

 私は、ずっとそう言われていた。


 最初は無視した。

 無視するのが一番楽だと知っていたから。


 声に反応すれば、相手は喜ぶ。

 だから私は、剣だけを見た。


 小さい頃から、ただ鍛錬に明け暮れた日々だった。


 結果、私に勝てる者は少なくなった。

 新兵ではもちろん、長年団にいる熟練の騎士でさえ、私より強い者はそういなかった。


『……あいつ、化け物だろ』

『女のくせに、強すぎる』

『平民のくせに、生意気だ』


 噂は膨らんだ。

 悪意も、羨望も混ざって。


 そして――それを聞きつけたのか。


 ある日、騎士団の詰所がざわついた。


『第一王子殿下がお見えだ』


 扉が開き、金髪の青年が入ってくる。


『リュシア・エルフェルト。いるか』

『……はい』


 私は前へ出て、膝をついた。

 礼法は最低限だけ知っていた。必死に思い出した。


 第一王子――アーヴィンは、私を上から下まで眺めた。

 その視線は、値踏みだった。


 でも当時の私は、それを「評価」だと勘違いした。


『噂は本当らしいな。女で、平民で、それでも剣が強い』

『……はい。努力はしてきました』


 声が震えないように、腹に力を入れた。


 すると彼は、口元だけで笑った。


『努力? 嫌いじゃない。だが俺が欲しいのは結果だ』


 すぐに、核心を言った。


『私の剣にならないか』


 その瞬間、心臓が跳ねた。

 ……理解が追いつかない。


 けれど胸の奥が熱くなった。

 これが救いだと、勝手に思ってしまった。


『私は……女で、平民です。殿下の剣など、恐れ多い……』

『それがどうした? 優秀なら問題ないだろう』


 その言葉が、私の胸に刺さった。

 刺さって、抜けなくなった。


 生まれを理由に否定され続けた私にとって、あれは――。


『……はい。殿下に忠誠を誓います』


 私がそう言ったとき、アーヴィンは満足そうに頷いた。


『いい。では試してみろ』


 直後の魔物掃討作戦。

 それは、騎士団の名を上げる場だった。


 私は前へ出て、剣を振るった。

 血が飛び、泥が跳ね、魔物が倒れる。


 一体、二体、十体。


 仲間が退く場面で、私だけが前へ出た。


 そして作戦は成功した。


『……見事だ、リュシア』


 作戦後。

 彼は私の肩に手を置いた。


『今日からお前は、俺の近衛だ』


 周囲の騎士がざわめき、嫉妬と恐れが混ざった目を向けてくる。

 私はそれさえ誇らしかった。


 私の価値が、剣で証明された気がしたから。


 それからの私は――。


 働きに働いた。


 警護は当たり前、常に彼の背後にいた。

 命令があれば、どこへでも。


 戦争では勝利を。


 政敵が多い彼のために、暗殺もした。

 夜に動き、誰にも見られず、息を止める。


 重要人物と呼ばれた者も、私の剣で倒れた。


 そのたびに、彼は言った。


『よくやった。お前は俺の剣だ』


 私は疑わなかった。

 彼が正義だと思った。


 彼が王になることが国のためだと信じた。

 信じたかった、のかもしれない。


 信じることでしか、自分のやっていることを正当化できなかったから。


 ただ一つ……断ったことがある。


 夜、彼の部屋に呼ばれ、扉が閉まる。


『リュシア。お前も女だろう。剣だけではつまらない』


 彼の手が伸びる。

 私は一歩引いた。


『……私は殿下の剣として生きます』


 彼は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑った。


『……わかった。お前はそういう女だったな』


 その時の私は、納得したのだと思っていた。

 ――甘かったのだ。


 現実へ引き戻される。


 処刑台、高台にいるアーヴィン。


 私の視線に気づいたのか、彼は微笑んだ。

 まるで哀れむように。

 まるで「仕方ない」と言うように。


 そして、牢屋での言葉が蘇る。


 処刑場へ連れて来られる前。


 薄暗い牢で扉が開き、彼が入ってきた。


『……殿下』


 アーヴィンは、檻の外から私を見下ろして言った。


『お前は強すぎた。それに、俺の言うことを聞かない女はいらない』


 その言葉だけで、胸の奥が冷えた。


 私は何か言おうとした。

 でも言葉が見つからなかった。


『もともと本当は嫌だったんだ。平民で女を近衛騎士にするなんて。恥でしかない』


「……殿下」


 声が掠れる。


 彼は、吐き捨てるように言った。


『顔と身体が良いから遊んでやろうと思っていたが、最後までお前はつまらなかったな』


 ……ああ、そうか。


 これが本音なのか。


 復讐の炎は、上がらなかった。

 怒りも、燃えなかった。


 ただ、虚しかった。


 私は、何をしてきたのだろう。

 誰のために、剣を振ったのだろう。


 なぜ、こんな人間を信じたのだろう。


 もっと自分の人生を生きればよかった。

 それだけが、悔やまれた。


 処刑台の上、執行人が後ろへ回る。

 肩を押され、私は膝をつく。


 首を固定する木の枠が冷たい。


(終わるんだ)


 執行人が刀を構える気配。

 風を切る音が、かすかに聞こえた気がした。


 そして首に、痛みが来て――。



 世界が、ひっくり返った。


「――っ!」


 私は跳ね起きた。


 喉に手を当てて、首を撫でる。

 ……切れていない。血もない。痛みもない。


「はぁ、はぁ……」


 息が荒い。心臓が暴れている。

 汗が背中を伝う。


 私は、周囲を見渡した。


 天井が低い。窓も小さい。

 豪奢さはどこにもない、質素な部屋。


 ――騎士寮の部屋だ。


 私は、思わず口を開けた。


「……ここは」


 私はこの部屋を知っている。


 近衛騎士になる前。

 まだ、王太子の剣になる前。


 騎士団に入ったばかりの頃に、住んでいた寮の部屋だ。


 混乱したまま、私は鏡台へ向かう。


「……っ」


 あるはずの傷がない。

 頬の小さな古傷も、手の甲の裂けた痕も、薄い。


 若い、明らかに若い。


 視線を下げる。


 机の上に、日付の書かれた紙が置いてあった。

 訓練の予定表。


 私は指でなぞり、読み取る。


「……五年前?」


 声が裏返りそうになるのを、必死に押し殺した。


 ……そんな馬鹿な。

 でも目の前の現実が、それ以外を許さない。


 私は鏡を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。


 胸の奥の空虚さが、まだ残っている。

 処刑台の冷たさが、まだ皮膚に貼り付いている。


 執行人の刀が、まだ首の後ろにある気がする。


 ――なのに、私は生きている。


(まさか……回帰?)


 夢でもない、幻でもない。

 これは、「やり直し」なのか。


 私の口から、かすれた笑いが漏れそうになった。

 笑えるはずがないのに、笑ってしまいそうだった。


 だって――。


(私は、まだあいつの剣じゃない)


 五年前、あの男に拾われる前。

 何もかも、始まる前。


 私は、鏡の中の自分と目を合わせた。

 淡い銀青の目が、私を見返す。


 そこには怯えもある。混乱もある。


 けれど――。


(次は、違う)


 復讐なんてしない。

 燃やすほどの熱も、もう残っていない。


 ただ、関わらない。

 ただ、自分のために生きる。


 私は小さく呟いた。


「……私は、まだ死んでいない」


 私は鏡から目を逸らし、ゆっくり息を吐いた。


 まずは、いつも通りに動くしかない。

 変に目立てば、余計なものを呼ぶ。


 私は粗い寝台から降り、訓練着に着替えた。


 寮を出ると、朝の空気が冷たかった。


 騎士団の敷地はいつも通り。

 訓練場へ向かう足音、誰かの笑い声、鉄の擦れる音。


 世界は何も変わっていない顔をしている。

 ――私だけが、変わってしまった。


 訓練場へ入る。

 武器を打ち合わせる乾いた音があちこちで鳴っている。


 私はいつもの端へ向かった。

 目立たない場所。


 壁際に近い、少し影になるところ。


(ここなら、余計なものは来ない)


 剣を握ると、重さが掌に馴染む。

 この感触は、裏切らない。


 私は一歩踏み込み、素振りを始めた。


 踏み込み、振り下ろし、返し。


 身体が覚えている。

 五年分どころじゃない。

 死ぬまで振ってきた。


 剣だけが、私の人生だった。


 けれど――。


(これからは、剣だけじゃない)


 そう思った瞬間、ほんの少しだけ胸が軽くなった。

 不思議だった。


 私はこんなことを考える人間だったのか。


 ふと、視線を感じる。


 遠目で、男たちがこちらを見ている。

 何人も、けれど近づいては来ない。

 仕掛けても来ない。


 ……そうか、終わっているのだ。

 格付けが。


 私は回帰したのは「騎士団に入った直後」ではない。

 すでに、ここで勝ってきた後。


 女だ、平民だ、と囀られながらも、黙らせてきた後。

 だから彼らは、遠巻きに見るだけ。


(……まあ助かるな)


 絡まれるのは面倒だから。


 その時だった。


 訓練場の空気が、変わった。

 さざめきが一斉に引く。

 誰かが息を呑む。


 地面を踏む足音が、近づいてくる。


 私は剣を止めなかった。

 止めたら、気づいてしまいそうだったから。


「第一王子殿下がお見えだ」


 誰かの声。


 男たちが一斉に動き、道が開く。


 そして、金髪の青年が現れた。


 アーヴィン・レグナード。

 ――あいつだ。


 心臓が跳ねると思った。

 怒りが湧くと思った。

 復讐の炎が、燃えると思った。


 ……何も湧かなかった。


 ただ、冷たく思った。


(関係ない。関わりたくない)


 それだけ。


 私は剣を納め、訓練場の端で膝をついた。

 形式だ。


 ここで逆らって目立つ意味がない。


 だが、足音は止まらない。

 私の前へ来る、真っ直ぐに。


 そして私の目の前で、足が止まった。


「この者か。噂の女性騎士は」


 上から落ちてくる声。

 よく知っている声。


 五年、彼の背後で聞き続けた声。

 牢で、私を捨てた声。


「面を上げよ」


 言われて、私は顔を上げた。

 視界に金髪が入る。


 整った顔で柔らかな笑み、王子の仮面だ。


(……相変わらずだな)


 その顔を見ても、胸は熱くならない。


 こんなに無関心でいられるなんて、自分で自分が怖いくらいだ。

 私って、こうも冷たい人間だったか。


 アーヴィンは、私をじっと見た。

 値踏みの視線。


 昔はそれが嬉しかった。

 見つけてもらえた、と思った。


 ――それは、嘘だ。

 あれは、拾われたんじゃない。

 使える道具を見つけただけだ。


「お前、名は?」

「……リュシア・エルフェルトであります」


 声は平静でいられた。。

 敬語も、姿勢も崩れない。


「女で平民。だが剣が強い。……噂は本当らしいな」

「恐れ入ります」


 アーヴィンは口元だけで笑った。


「私の剣になれ」


 来た。回帰前と同じ言葉。


 私は、息を吸って、吐いた。


「申し訳ございません。お断りいたします」


 一瞬、周囲がざわついた。

 周りの男たちの顔が引きつる。


 当然だ。

 王子の誘いを断る者など、ここにはいない。


 アーヴィンの眉が、わずかに動いた。


「断る?」

「はい。身に余ります」

「女性だからと遠慮しているのか?」


 声は穏やかなのに、圧がある。

 昔はその圧すら、守られているように錯覚した。


「私は優秀なら問題と思っている」


 ……嘘だ。

 私はもう知っている。


 優秀だから、ではない。

 駒として使えるから、だ。


 そして、従わない女は要らない。


 私は膝をついたまま、視線を落とした。

 最後まで礼を崩さない。


「恐れながら。私は騎士団の一兵で十分でございます。殿下に仕える器ではありません」


 沈黙が落ち、周囲の息が止まる。


 その中で、アーヴィンに付き従う男が一歩前に出た。


「第一王子殿下の誘いを断るなど、なんて無礼か!」


 怒声を上げるが、私は顔を上げない。

 言い返す必要がない。


 アーヴィンは、その男を片手で制した。


「よい」


 短い一言で、場が凍る。


 そしてアーヴィンは、私を見下ろしたまま言った。


「……ふん。つまらん」


 その声に、苛立ちが混じったのが分かった。

 仮面が少しだけ剥がれる瞬間。


「出世欲もない奴に用はない」


 そのまま踵を返す。

 金髪が揺れ、護衛が続く。


 周囲の騎士たちは一斉に頭を下げた。

 私も、膝をついたまま頭を垂れた。


 足音が遠ざかり、空気が少しずつ戻る。


 ……行った。


(興味を失った、か)


 よかった。


 私は安堵して、息を吐いた。

 本当に、心の底から。


 確かに私は出世欲がない。

 回帰前も、今も。


 私はただ剣を振り、命令に従い、役に立つことで価値を示す――それだけだった。


 でも今は違う。


 人のためじゃなく、王族のためじゃなく。

 自分のために、生きたい。


 私は剣を握り直し、また素振りを始めた。

 今度は、少しだけ呼吸が楽だった。


 ――その日の鍛錬が終わり、私は寮へ戻ろうと訓練場を出た。


 汗が冷えて、肌着が肌に張りつく。


「リュシア」


 後ろから、落ち着いた声がした。


 私は足を止めて振り返る。


 そこに立っていたのは、細身の男だった。


 黒に近い濃紺の髪、灰色の目。

 騎士ではない。


 ノアール・レイモンド、宮廷魔術師だ。


「ノアール……様」

「様はいらない。ここは堅苦しい場所じゃないだろう」


 淡々とした口調。


 彼は平民の私にも分け隔てなく会話をしてくれる数少ない人だ。


「第一王子に声をかけられたんだって?」


 噂は早い。

 騎士団の中だけでなく、宮廷の耳にも届く。


「はい。ですが、お断りしました」

「……断った?」


 ノアールが珍しく目を見開いた。

 驚いた顔。


 回帰前に何度か見たが、いつもより分かりやすい反応だ。


「君なら、そういう話は受ける者かと思っていた」


 私は、少しだけ視線を逸らした。


 確かに回帰前の私は、受けただろう。

 受けて、忠誠を誓って、剣になって、最後に捨てられた。


 ――あの日、ノアールは言ったのだ。


『アーヴィン様は、君を守らないよ』


 今さら思い出して、胸がきゅっと縮む。

 あの時の忠告を聞いていたら。


 でも、もう今さらだ。


 私は一度死んだ。

 その現実は、変えられない。


 だからこそ、今がある。


「私は変わりました」


 口から出た言葉は、思ったよりも自然だった。


「今は、自分がどうしたいか考えたい気分なのです」


 ノアールは一拍置いてから、ふっと息を吐いた。


「……そ、そうか」


 どこか安堵したように、少しだけ肩の力が抜ける。


「まあ、いいことだな」


 私は、その言葉に少し驚いた。

 反対されると思っていたから。


 王族に仕えることは、名誉だ。

 その名誉を蹴る私を、愚かだと言う者は多い。


 さっきもアーヴィン様の誘いを断った直後、周りの声や視線がそう言っていた。


 でもノアールは、愚かだとは言わなかった。


 私は小さく言った。


「私を心配してくれたのでしょう? ……ありがとうございます」


 思えば、回帰前で私のことを純粋に心配してくれていたのは、彼くらいだっただろう。


 ノアールの眉がわずかに動く。


「本当に大丈夫か? リュシアじゃないみたいだ」


 その言葉に、私は思わずクスッと笑ってしまった。

 笑うつもりなんてなかったのに。


「そうね。そうかもしれないわ」


 自分の声が、少し柔らかい。

 それが可笑しかった。


 私の中に、こんな余裕が残っていたなんて。


「……いったい何があったんだ?」


 ノアールは呟くように言った。


 答えられるわけがない。

 処刑されて、回帰した、なんて。


 信じてもらえるはずがない。


 私は首を横に振る。


「秘密です」

「……そうか」


 ノアールはそれ以上踏み込まなかった。

 その距離感が、ありがたい。


「じゃあ、気をつけて戻れ。王子の誘いを断ったんだ。変な噂が立つかもしれない」

「はい」


 私が踵を返すと、背中に視線が残った。


 振り返らなくても分かる。

 ノアールはまだ私を見ている。


「……」


 私は一瞬だけ振り返った。


 ノアールと目が合う。


 彼は、ほんの少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。


 ……不思議な人だ。

 回帰前も、こういうところがあった気がする。


 私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じて、今度こそ歩き出した。



 ――数日後。


 休暇日が来た。


 回帰前、私は近衛になってから一日も取っていない。

 取らせてもらえなかったのか、取ろうとしなかったのか。


 今になっては、どちらでも同じだ。


 部屋の中で、私はしばらく考えた。


 何をすればいい?

 剣を振るう?


 ……それだといつも通りだ。

 それでは休暇の意味がない。


(……街に出るか)


 ただそれだけのことなのに、少しワクワクした。


(何をすればいいかわからないけど、新しいことだ)


 私は外套を羽織り、財布を確かめ、寮を出た。


 門を抜けると、街へ続く道が見える。


 賑やかな声。

 焼き立てのパンの匂い。

 人の暮らしの音。


 それらが、私の知らなかった世界のように思えた。


 同時に、胸の奥が少しだけ疼く。


(……私は、何を見落としてきたんだろう)


 その答えを探すみたいに、私は街へ向かって歩き出した。


「ひったくりよ!!」


 ……街を歩いて数分後。


 鋭い叫び声が、背中の方から飛んできた。


 反射で足が止まる。

 私は振り返った。


 中年の女性が、必死の顔で走り出している。


 その少し先に、袋を抱えた男がいた。


 逃げる男、追う女性。


 周囲は驚いて道を開けるが、誰も手を出せない。


 ……仕方ない。


 私は人の流れを縫って走り出す。


 男は路地へ飛び込んだ。

 狭い。暗い。


 逃げるにはちょうどいい場所。


 私は同じように路地へ入った。


 ふむ、私のほうが足は速いな。


 男は振り返り、私を見ると顔を歪めた。


「ちっ……!」


 次の瞬間、私は距離を詰めていた。


 腕を掴み、捻る。


「いたたたたっ!! な、なんだよお前!!」


 男の腕が不自然な角度に曲がる。

 骨が鳴りそうな感触。


 私は淡々と力を調整する。

 折るつもりはない、大人しくさせるだけ。


「動くな」

「痛いって! 離せ!!」

「離したら逃げるだろう」


 男が呻きながら暴れようとする。

 でも無駄だ。


 私は体重を乗せ、腕を捻ったまま壁に押し付ける。


「うぐっ……!」


 回帰前なら、こういう小賢しい犯罪者に関わる余裕はなかったな。


 その時、背後から足音が増えた。

 路地の入口から、男たちが入ってくる気配。


 私は男を押さえたまま、視線だけをそちらへ向けた。


 五人。

 いずれも荒れた目。手に短い棒や、石。


 こいつの仲間か。


 ひったくりの男が、歪んだ顔で笑った。


「兄貴たち! やっちゃってください!」


 ……やっぱり。


 男たちは私を値踏みするように見て、下卑た笑みを浮かべた。


「おいおい、上玉じゃねえか」

「ひったくり追ってきたのか? 正義感が強いねえ」

「このあと楽しめそうだなぁ?」


 鳥肌が立つ。


 けれど、怒りは湧かなかった。

 ただ、冷えた。


(……ああ、こういうのは嫌いだ)


 それだけが、はっきりしていた。


 私はひったくりの男の腕をさらに捻った。

 男が悲鳴を上げる。


「いでえええっ!! ちょ、ちょっと待っ――!」

「うるさい」


 私は男を壁に押し付けたまま、暴漢たちを見た。


「来るなら来い」


「強気だ、なぁ!」


 先頭の男が棒を振り上げる。

 振り下ろす――その軌道が見えた。


 私はひったくりを放した。


 放した瞬間、男が逃げようとする。

 私は足を引っかけ、転ばせる。


 そのまま暴漢の棒を腕で受け流し、肩で体当たり。


「ぐっ!?」


 男の体が壁に叩きつけられる。


 次の一人が殴りかかってくる。

 私は肘を落とし、鳩尾へ。


「がっ……!」


 息が抜けた男が崩れる。


 三人目が背後から掴もうとする。

 私は相手の懐に肩を入れて体を回し、腕を取って投げた。


 地面にたたきつける、鈍い音。

 路地の土埃が舞う。


「なっ……!」


 四人目が石を投げた。

 私は身体を半歩ずらす。


 石が壁に当たり、砕けた。


「遅い」


 私は踏み込む。

 掌底で顎を押し上げ、吹き飛ばした。


 最後の一人が、怯えた顔で後ずさる。


「お、おい……何者だお前……!」


 ひったくりの男も、地面に這いつくばったまま震えている。


 私は息を整えた。


 回帰前なら、ここで言っていたかもしれない。

 王太子の剣だ、と。


 ……でも今は。


「ただの、リュシアだ」


 それだけでいい。


 男たちは言葉を失っていた。


 私は彼らを一瞥し、路地の入口へ向かって声を張った。


「憲兵を呼んでください! ひったくりと暴漢です!」


 近くにいた誰かが、慌てて走っていく足音がした。


 ほどなくして、鎧の擦れる音が近づく。

 憲兵が二人、路地へ入ってくる。


 状況を見て顔を引きつらせた。


「……お前がやったのか?」

「はい。逃げようとしたので止めました」

「……全員?」

「はい」


 憲兵は一瞬黙り、すぐに暴漢たちを拘束し始めた。

 手際はいい。


 私はひったくり男が落とした袋を拾い、表の通りへ戻った。


 そこには、さっき叫んでいた女性がいた。

 息を切らしながら、私を見る。


「あなた……!?」


 私は袋を差し出した。


「これ、あなたのですよね」

「そう! そうよ! ああ、よかった……!」


 女性は袋を抱きしめ、泣きそうな顔で笑った。


 周囲の人もざわつく。

 誰かが「すげえ」と言った気がする。


「ありがとう、本当にありがとう! 綺麗なお嬢さん!」


 綺麗。


 その言葉に、私は少しだけ戸惑った。

 剣しか見てこなかったから、そういう言葉に慣れていない。


「いえ……当然のことをしただけです」

「当然!? そんなわけないよ! あいつら、いつも誰も追えなくて困ってたんだから!」


 女性は私の手をがしっと握ってきた。

 握力が強い。


「お礼しなきゃ気が済まない! ねえ、うちの定食屋で昼食食べていきな!」

「いえ、私は――」

「だーめ! 断るの禁止! 命の恩人みたいなもんだよ!」


 押しが強い。


 私は一瞬、逃げたくなった。


(……逃げる理由もないか)


 こういう善意から逃げるのは、今は何かが違う気がした。


「……わかりました。少しだけ」

「よし! 決まり! さ、こっちこっち!」


 女性は私の腕を引っ張って歩き出す。

 私は引かれるまま、通りを進んだ。


 店はすぐだった、小さな定食屋。


 扉を開けると、湯気と香ばしい匂いが押し寄せてくる。


「いらっしゃい……って、お母さん!? どうしたの!」


 中から、少女の声。


 カウンターの奥から、小さな女の子が飛び出してきた。

 十歳くらいか。


「聞いてよ! このお姉さんがね、ひったくり捕まえてくれたの!」

「えっ!? すごい!」


 女の子は私を見上げて、目を輝かせた。


「ねえねえ、お姉さん騎士さま!? 強いの!? 剣持ってる!? 魔法も使える!?」


 質問が止まらない。


 私は一歩引きそうになった。


(……子どもって、こんなに喋るのか)


 知らなかった。

 騎士団には子どもはいない。

 戦場にも、できればいない方がいい。


 私は子どもと話す機会がなかった。

 いや、避けていたのかもしれない。


「剣は……今は持ってない」

「えー!? じゃあどうやって捕まえたの!」

「素手で」

「素手!? すごーい!!」


 女の子は本気で感動している顔をした。


 母親らしい女性が、私の背中を軽く叩く。


「ほらほら、座って座って! 今作るから!」

「本当に、そこまでしていただかなくても……」

「いいの! 私がしたいの!」


 押しが強い。

 でも嫌じゃなかった。

 強いのに、温かい。


 私は言われるまま、店の席に座った。


 店内は昼時らしく、人が数人いる。

 皆こちらをちらちら見ながらも、嫌な視線じゃない。


「お姉さん、名前は?」


 女の子が隣に座って、顔を覗き込んでくる。


「リュシア」

「リュシアお姉ちゃん!」


 その呼び方に、私は一瞬言葉を失った。


 お姉ちゃん。

 それは、私が一度も呼ばれたことのない呼び方だった。


「お姉ちゃんって呼んでいい? だめ?」

「……好きにして」

「やった!」


 女の子は嬉しそうに笑った。

 その笑顔が、眩しい。


 厨房から、油の弾ける音がする。

 香りが濃くなる。


 私は鼻をくすぐられて、無意識に息を吸った。


(……匂いが、こんなに強い)


 回帰前の食事は、最低限だった。

 パンと水、それに乾いた肉。


 味などどうでもよかった。

 生きるための燃料。

 それ以上でも以下でもない。


 でも今、ここにある匂いは違う。


「はい、お待たせ!」


 女性が、盆を運んできた。


 湯気が立つ白い飯。

 香ばしい焼き魚。

 味噌の匂いがする汁物。

 小鉢の漬け物。卵焼きまである。


 私は、目を瞬いた。


「……これが、定食?」

「そう! うちの看板!」


 女性が胸を張る。

 女の子も得意げに頷いた。


「母ちゃんのごはん、世界一なんだよ!」


 私は箸を手に取った。


 こういうちゃんとした食事を前にするのは久しぶりで、緊張する。


 まずは汁を一口。


「っ……」


 熱い……でも優しい。

 身体の奥へ、じわっと染みていく。


 そして魚。

 皮が香ばしく、身が柔らかい。

 口の中でほろりと崩れる。


 私は、息を呑んだ。


(……美味しい)


 初めて、そう思った。


 いや、美味しい、という感覚自体は知っていたはずだ。

 だけどそれは、言葉として知っていただけだった。


 胸が熱くなる。

 腹が満たされるだけじゃない。

 心のどこかが、満たされていく。


「どう? 美味しいでしょ!」


 女性が期待の目で見てくる。

 女の子も身を乗り出している。


 私は少しだけ口を開いた。


「……はい、美味しいです」


 それだけ言うのに、喉が詰まった。

 自分でも不思議だ。


 私は戦場で泣かなかった。

 処刑台でも、泣かなかった。


 なのに、今は泣きそうになる。


「でしょ! ほらほら、いっぱい食べな!」

「リュシアお姉ちゃん、もっと! 卵焼きも食べて!」


 女の子が卵焼きを押してくる。


 私は頷き、食べた。


 とても美味しく、店内の空気も温かい。


(……これが、暮らし)


 私は今まで、何をしていたんだろう。


 剣を振るって、命令を聞いて、誰かのために動いて。

 でもその誰かは、私を守らなかった。


 ここには、命令もない。

 支配もない。


 ただ、ありがとう、と言ってくれる人がいて。

 笑って暮らしている子どもがいて。

 温かい飯がある。


 私は箸を止めて、少しだけ息を吐いた。


(……生まれてから初めてかもしれない)


 こんなふうに、安心したのは。


 女性が私の顔を覗き込む。


「どうしたの? 口に合わなかった?」

「いえ……逆です」

「逆?」

「……美味しすぎて、困っています」


 一瞬、女性が目を丸くした。

 次の瞬間、豪快に笑った。


「なにそれ! 困るくらい食べな!」


 女の子も笑う。


「リュシアお姉ちゃん、変なのー!」


 私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 ちゃんと笑えているかは分からない。


 でも、胸の奥が温かい。


(……こういう温かさを。これから、知っていきたい)


 剣を振るうだけの人生じゃなく。

 誰かの命令のためではなく、自分のために。


 そして――こういう場所を守れる自分でいたい。


 私はもう一口、味噌汁を飲んだ。



 第一王子アーヴィン・レグナードの私室は、王宮の中でも静かな区画にあった。

 そこにいる本人の苛立ちだけが、部屋の空気を汚していた。


「……なんだ、あの女は」


 アーヴィンは椅子に深く腰を下ろしたまま、片手で額を押さえた。


「俺が『来い』と言ったんだぞ……!」


 怒鳴るほどの声量ではない。

 だが低い声の底に、抑えきれない苛立ちが沈んでいる。


 机の前に控えているのは、側近数名。

 貴族出身の若い騎士と、実務を回す文官。


 いずれもアーヴィンの機嫌を伺うように姿勢を正し、彼の言葉を待っている。


 苛立ちの原因は一人の女騎士――リュシア・エルフェルト。


 数日前、騎士団の訓練場に赴き、噂の真偽を確かめに行った。


『強い女がいる』

『平民だが剣の腕は団内でも上位』

『男騎士の中でも勝てる者はほとんどいない』


 そんな話が、耳に入っていた。


 アーヴィンは最初、ただの誇張だと思った。

 騎士団は噂話が好きだ。

 新顔を持ち上げ、叩き、勝手に盛り上がる。


 だが、複数の筋から同じ話が来る。

 しかも内容が妙に具体的だった。


 どの隊の誰を倒した、どの訓練で誰が腕を折られた、誰が尻餅をついた――。


(それだけ強いなら、使える)


 それが、彼の結論だった。


 王位継承者争いは、綺麗事では勝てない。

 実績と、結果と、そして駒が要る。


 強い剣は強いほどいい。

 命令に従う剣なら、なおいい。


 そしてアーヴィンは、実際にリュシアを見て思ったのだ。


 顔立ちは整い、身体つきは鍛えられているのに無駄がない。

 鎧の上からでも分かる線のしなやかさ。


 どこか冷えた雰囲気が、逆に従わせたくなる。


(手下に入れてやる価値はある。……幸い、見た目も悪くない)


 そう思って声をかけた。


 だが――。


「まさか、全員の前で断られるとはな」


 アーヴィンが吐き捨てると、側近の一人がすぐに追従するように口を開いた。


「殿下、あの者は礼儀もなっておりません。平民の分際で、殿下の御前で断るなど……生意気にも程がございます」


「ええ。あんな女がいなくとも、殿下の近衛は揃っております。騎士団の噂など、所詮は戯言。例え剣の腕前が良くても、戦場では怖気づいて足手まといになる可能性も」


 別の側近も、同意するように頷いた。


 それは半分は本心で、半分はアーヴィンの機嫌を取るための言葉だ。


 アーヴィンは口元を歪め、短く息を吐く。


「ああ、お前らの言う通りだな」


 側近たちも安心して、言葉を続ける。


「あの者は意気地なしなのでしょう。殿下の剣になる覚悟もない。ただの田舎の剣自慢に過ぎません」


「……ふん」


 アーヴィンは頷きながらも、胸の奥が冷えるのを感じていた。

 側近の言葉を聞いて気が晴れるほど、単純ではない。


(意気地なし? 違う)


 あの女は、怖がっていたのではない。

 むしろ平然としていた。


 膝をついた姿勢も、声も、視線の落とし方も。

 礼儀は守っていた。守ったうえで断ったのだ。


 あれは――拒絶だった。


(俺を拒んだ)


 それが、腹が立つ。


 王族に逆らうという意味を理解していないのか。

 それとも理解した上で、やったのか。


 どちらにしても、気に入らない。


「……まあいい」


 アーヴィンは椅子の肘掛けを指で叩いた。

 一定のリズム、苛立ちが指先に出る。


「数日後には魔物掃討作戦だ。俺はそれを成功させ、実績を作らねばならない」


 側近たちが一斉に背筋を伸ばす。

 この話題は重要だ。


 魔物掃討作戦。

 王都周辺で増えた魔物を討ち、被害を抑え、民に王子の力を示す。


 成功すれば名声が立つ。

 失敗すれば笑われる。


 そして王位継承争いの盤面で、致命的に不利になる。


 アーヴィンは本来、こういう場で勝てる男だ。

 だからこそ、彼は自分の駒を増やそうと思った。


 強い騎士は、使い道がある。

 魔物を斬らせるのもいい。

 邪魔な者を消させるのもいい。

 必要な情報を集めさせるのもいい。


 だが、リュシアは拒んだ。


(……だが問題ない)


 アーヴィンは自分に言い聞かせるように思った。


「戦力は揃っている。あんな女がいなくても全く問題はない」


 側近たちがすぐに頷く。


「その通りでございます、殿下」

「我々が必ずや殿下をお守りし、勝利をお持ちいたします」

「殿下の指揮のもとなら、魔物ごときに遅れは取りませぬ」


 アーヴィンは部下の言葉を聞きながら、胸の奥の苛立ちを押し込めた。


(勝てばいい。勝てば、あの女のことなど忘れる)


 そうだ、勝てば全ては正しい。


 ――そして数日後。


 森へ向かう騎士たちの列が、王都の門を出ていく。


 アーヴィンは立派な馬車に乗り、窓の外を眺めていた。


 随行する騎士は数十人。

 精鋭だ。貴族出身の騎士も多く、見栄えもいい。


 いかにも第一王子の軍、という顔をしている。


(これだけいれば十分だ)


 アーヴィンは胸の内で頷く。


 彼は戦場そのものに立つタイプではない。

 指揮官として、上から見て指示をする。

 それが彼の役割だ。


 目的地は、森の奥。

 魔物が増えたという報告がある場所。


 住民の話では、沼地が多く、奇妙な鳴き声が夜に響くという。


 ――そこで、最初の違和感があった。


 森の奥へ進むにつれ、地面が柔らかくなる。

 湿った土。足を踏み出すたび、沈む。


 靴の底に泥が絡みつく。


「……ぬかるんでいますな」


 騎士の一人が眉をひそめる。


 アーヴィンは馬車の中からそれを眺め、軽く鼻を鳴らした。


「沼地か。まあ、多少足元が悪い程度だろう」


 側近がすぐに同意する。


「問題ございません。魔物は結局、数で押せばよい」

「殿下の指揮で、速やかに掃討いたしましょう」


 アーヴィンは頷いた。

 敵は魔物だ、人間のような策はない。


 ――その判断が、浅かった。


 最初に現れたのは、蛙に似た魔物だった。

 ぬらぬらとした皮膚。異様に大きな口。

 そして、背中の腺が膨らんでいる。


「蛙型か。簡単だ、斬れ!」


 騎士たちが突撃する。

 剣が閃き、数体が倒れる。


 だが次の瞬間。


「――ぐっ!?」


 前線の騎士が、突然膝をついた。

 剣を落とし、喉を押さえる。

 顔色が一気に青くなる。


「な、なんだ……!?」


 別の騎士も同じように倒れた。


 呻き声を出し、口から泡を出し痙攣している騎士がいる。


 空気に、甘い腐臭が混じる。

 目が痛い。喉が焼ける。


「毒だ!! 毒霧だ!!」


 誰かの叫び。


 気づいた時には遅かった。


 蛙の魔物は、沼地に適応している。

 人間は足を取られ、動きが鈍る。


 そこへ毒。


 足元が悪いから避けられない。

 倒れた仲間を助けようと近づけば、さらに毒を吸う。


 前線が崩れ、指揮系統が乱れる。

 恐怖が広がる。


「殿下! 下がってください!」


 護衛が馬車の扉を閉め、周囲に盾を構える。


 アーヴィンは窓越しに戦場を見た。

 騎士が倒れていく。悲鳴が上がる。


 沼地に沈み、助けようとした者まで引きずられる。


(……なぜだ)


 勝てるはずだった。

 数もいる。装備もある。


 なのに――。


「撤退だ! 撤退しろ!!」


 誰かが叫ぶ。

 指揮官であるアーヴィンの声ではない。


 現場の混乱が生んだ、悲鳴に近い命令。


 アーヴィンは叫びたかった。

 撤退など、許されるはずがない。


 だが現実は、彼の許可を待たなかった。


 ――撤退した。


 馬車が揺れる。

 車輪が泥に取られ、何度も大きく跳ねた。


 車内でアーヴィンは拳を握り締めていた。

 爪が掌に食い込み、痛い。


 だがそれでも力が抜けない。


 外では呻き声が続く。

 毒にやられた者たちが、運び込まれている。


「殿下……死者が十三。重傷者が八」


「……っ」


 アーヴィンの喉が詰まる。


 数が問題ではない。

 失敗した、という事実が問題だ。


 馬車の中で、ついに彼は爆発した。


「な、なぜ……なぜこんなことになった!?」


 声が裏返り、情けない響きになる。


 アーヴィンは机代わりの台を殴った。

 側近たちが青ざめる。


「殿下、落ち着きを……」

「落ち着けだと!? これでどう落ち着けという!!」


 アーヴィンの脳裏に浮かぶのは、王都の貴族たちの顔。


『第一王子は見栄だけだ』

『所詮は血筋頼みのお坊ちゃんだな』


 そんな言葉が、今にも飛んできそうだった。


「このままでは、王位継承権争いが……!」


 彼の声に、絶望が滲む。

 側近たちは必死に言葉を探す。


「殿下、今回は不運が重なっただけでございます」

「情報が足りなかったのです。次は――」


「黙れ!」


 ――アーヴィンは知らない。

 もし、リュシアがいたなら。


 彼女がいたなら、結果は違ったことを。


 リュシアは一人で前へ出て、斬る。

 泥に足を取られない体捌きで、魔物の群れを割る。

 毒を浴びる前に、喉を断つ。


 そして勝利を作った。

 だから、アーヴィンは上へ行けた。


 王太子へ、王に最も近い場所へ。


 その裏で、リュシアが汚れ仕事をした。

 邪魔者を消し、必要な情報を拾い、命令に従って血を流した。


 寝る間も惜しんで。食べる間も削って。

 アーヴィンのために。


 ――だが今、彼女はいない。


 馬車の外で、重傷者の呻き声が聞こえる。

 血の匂いが漂ってくる。


 護衛の騎士が呟いた。


「殿下……この損害は……」


 アーヴィンは歯を食いしばった。


「黙れ」


 怒りが、喉を焼く。

 だが怒りでは、失点は消えない。


 苛立ちだけが積もる。


(……あの女がいれば変わったのか? いや、そんなわけはない)


 思考がそこへ滑るのが、さらに腹立たしかった。


 必要ないと言ったのは自分だ。

 いなくても問題ないと頷いたのも自分だ。


 なのに。


「……くそ……!」


 アーヴィンは顔を歪めた。


 それでも彼は、まだ知らない。


 失ったのが、ただの強い騎士ではないことを。

 彼の欲しいものを、黙って拾い集め、彼の泥を肩代わりし、彼の勝利を作り続けていた存在だったことを。


 そして――。


 寝る間も食べる間も惜しんで、自分のために働いてくれたリュシアがいない世界では。

 アーヴィン・レグナードに、明るい未来はなかった。


 名もなき女騎士が、街で温かな定食を食べていることを――アーヴィンはまだ知らない。




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― 新着の感想 ―
温かいご飯、大事! 短編のテンポの良さもこのお話にあっていますが、ノアールのことも気になりますし、何よりリュシアが幸せな笑顔になる所をみたいので、連載でじっくり読みたいです!ぜひ!
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