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日々を彩るのは

作者: P4rn0s

朝、目が覚めたとき、まず天井の隅を見るのが癖になっていた。

薄い灰色に塗られたその天井の一点が、なぜか毎日違う表情をしているように思える。雨の日は深く沈んで見えて、晴れの日は少し明るく、春の朝は妙にやわらかい。

高橋はその天井をぼんやりと見ながら、ああ、今日も一日が始まるのだな、と思う。


朝食はだいたいパンと目玉焼きとインスタントのスープ。冷蔵庫にある材料で、その日作れそうな組み合わせを選ぶ。

手間のかかる料理はしないが、簡単でも「自分のために火を使う」ということを怠らないようにしていた。

昔は、生活なんてただ過ぎていくものだと思っていた。

できれば仕事に全部の意識を持っていかれたい。余計な感情が湧かないように、なるべく毎日をルーティンで埋め尽くしたかった。

けれどある時、ふとしたきっかけで体調を崩し、数週間家で過ごすことになった。

その期間が、考えもしなかった“暮らし”というものと向き合う時間になった。


洗濯機の音。

お湯が沸くまでの静寂。

カーテン越しに差し込む午後の光。

椅子に座るたび、ほんの少しきしむ音。

窓を開けると聞こえる遠くの車の音。


「なんて、いろんな音があったんだろう」


それまでは、テレビや音楽や人の声にまぎれて、気づいていなかったもの。

生活には音があって、匂いがあって、色がある。それをすべて飛ばしていた。

病み上がりの体で、ゆっくりと風呂を洗っていたとき、ふと「ああ、自分は生きてるんだな」と感じた。

ただの風呂掃除だった。

けれど、自分の手で何かをきれいにするという行為が、まるで心の中まで洗われていくようだった。


それ以来、生活を少しだけ丁寧にするようになった。

靴は毎週末に磨く。洗濯は香りのやさしい洗剤を選ぶ。食器はすぐ洗う。冷蔵庫の中身は週に一度だけ見直す。

小さなことばかり。でも、その小さな積み重ねが、自分の人生の土台になる気がした。

もちろん、仕事はある。

朝は電車に揺られてオフィスに向かい、無表情な人々に囲まれて書類をまとめ、報告をし、ため息の出るような電話にも応じる。

イライラする日もある。うまくいかない日もある。

だけど、夕方の帰り道でスーパーに寄り、今夜は何を食べようかと考える時間だけは、自分を取り戻せる。

今夜はほうれん草をおひたしにしよう。豆腐も買っておこう。ごはんは土鍋で炊こう。

それを考えていると、不思議と少しだけ、今日という日がやさしくなる。


生活って、すごい。

だって、何もない自分を受け入れてくれる。

失敗しても、うまくいかなくても、「いつも通りに」戻ってきてくれる。

椅子も机もベッドも、冷蔵庫も台所も、何も責めてこない。

昨日と同じようにそこにあって、「今日もよろしく」と言ってくれる。


休日、ベランダに出てコーヒーを飲む時間が好きだった。

一人分のコーヒーを丁寧に淹れる。温度も、蒸らす時間も気にしながら。

飲みながら見る空は、高くもなく、広くもなく、ただそこにある空。

誰かと比べる必要もない。ただ、自分にとってそれが「十分」だと、少しずつ思えるようになった。


昔は、なにか特別なことが起きないと、生きてる意味がないような気がしていた。

旅行とか、恋愛とか、大きな夢とか、誰かに語れる「何か」。

でも今は、炊き立てのごはんの匂いや、洗いたてのシャツの肌触りが、それと同じくらい大事に思える。


派手さはない。

誰かに自慢できるようなこともない。

けれど、自分の手で毎日を整えて、淡々と暮らしていくことが、

こんなにも静かで、穏やかで、時には感動すらあるものだと、ようやく気づけた。

いつかまた、忙しさや焦りにのまれて、生活が雑になる日もくるかもしれない。

それでも、自分には帰れる場所がある。

生活という、小さな港がある。


今日はちょっとだけ早起きできた。

トーストが、焦げずに焼けた。

雨の音が、思っていたより好きだった。


そんなふうに、

生活を愛せるように、

自分を少しずつ育てている。

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