第8話:春のにおい
(生きているはずがない男の、記録されない足跡)
村での調査から一夜明け、私は修道院の書庫で古い記録と向き合っていた。
あてもなく、でも確かに何かを求めて。 老婆の証言──処刑直前まで男が通い続けていた修道院跡。
その場所は、リュシアンが言ったように王都の公式地図にも、中央図書院にも記録はなかった。けれど、この修道院の書庫には、非公式の巡礼記録や古い証言が、静かに残されている。
(……もしかして、この中に)
ページをめくるたび、かすかな希望が膨らんでいく。そして、ついに見つけた。
──「記録されない祈りを癒す場」
──「静けさを記録する修道院」
そんな、今では忘れられた存在の名が、頁の奥から浮かび上がってきた。
(……これ、かも)
地図にも載っていない、あの小さな村よりさらに東。人がほとんど通らなくなった古道のそばに、かつて”修道院”が存在したという記述。
確証はまだない。けれど、“そこに何かがある”と──心だけが、確かにそう言っていた。
(……伝えなきゃ)
居ても立ってもいられず、私は本を閉じて書庫を後にした。外に出ると、冬の名残を含んだ風が、頬をかすめる。春はまだ、少し遠い気がした。
でも、そのときだった。足元に、何かがころんと転がってきた。
──小さなブローチ。金の装飾に、赤紫の宝石が埋め込まれている。
しゃがみこんで拾い上げた瞬間、声がかかった。
【カリーナ】
「……ありがとう。落としちゃったみたいね」
声の主は、紫の瞳をした令嬢だった。その瞳は、どこか私と似た色をしていたけれど──赤みを帯びて、ずっと艶やかだった。
彼女は、鮮やかなローズピンクのドレスの胸元に、ブローチを留め直して微笑んだ。その動きにも、たたずまいにも、まるで──咲いた花のような気配があった。
【カリーナ】
「ねえ。最近、あなた……」
「“誰かのこと”、ずっと考えてない?」
【アメリア】
「……え?」
【カリーナ】
「顔に出てるの。何かが動き出した人の顔って、わかるのよ」
「……恋かもしれないし、まだ違うかもしれないけど」
「でも、そういう時の顔って、ちゃんと咲く準備してるのよ」
さらっとした言葉。なのに、妙に胸の奥がざわめいた。
(私の顔に、何かが出てる?)
【カリーナ】
「気づかないままでも、花は咲くわ」
赤みを帯びた紫の瞳をそっと閉じ、慈しむようにつぶやく。
【カリーナ】
「……でも、気づいてるほうが、きっときれいに咲けると思うの」
彼女はくるりと背を向けて歩き出す。その後ろ姿から、ほんのりと、あたたかい香りがした。
(……春のにおい)
(さっきまでは、まだ遠いと思っていたのに)
残された空気の中、私はそっと手を胸に当てた。
(わたし……どんな顔をしてたんだろう)
そして、その時初めて気づいた。私は確かに、誰かのことを考えていた。あの人のことを。