第6話:知られざる記憶
「あの子は、まだ、生きてるような……気がするんだよ」
老婆の声だけが、朝になっても耳から離れなかった。宿で目を覚ますと、まず最初にその言葉が蘇った。記録にない、確かめようのない証言。それなのに、胸の奥で響き続けている。
【リュシアン】
「……昨夜の彼女、語りたいことはまだあったはずなんですが」
「話す相手が、僕たちでよかったかどうか。それは、わかりません」
村の外れの老婆の家。風に揺れる布と、積まれた干し草のあいだに、小さな生活の痕跡が見える。けれどその場所に、他の村人たちが近づこうとする気配はなかった。まるでそこだけが、村の外にあるかのように。
再び訪ねた時、老婆は戸口に立ったまま、遠くを眺めながら語り始めた。
【老婆】
「……あの子はね、春のころから、東の方ばかり見てたような……」
「昔、そこには小さな修道院があってね。今は、もうあったかどうか……」
「でもね、あそこに行くと、みんな少しだけ……心がやわらかくなったもんだよ」
老婆は遠くを眺めながら、まるで懐かしむようにそう語った。その声には、他の村人たちにはなかった”記憶の重み”があった。
(記録がない──それはこの国では、“存在しなかった”ことを意味する)
(でも、存在しないはずの場所に、“彼”は通っていた?)
【リュシアン】
「貴重なお話でした。覚えておきます」
老婆はそれきり、扉を静かに閉めた。帰り道、リュシアンがふと呟く。
【リュシアン】
「“修道院”……。僕の記録には、そんな地名は載っていませんでした」
「でも、どこかで見た気がするんです。“修道院の跡”だけが記された文書で」
「場所も、時も、曖昧なままで。誰も正式には”記録しなかった”」
(この人も、“何か”を探しているのかもしれない)
その言葉に、微かな既視感があった。記録から漏れ落ちたもの、語られずに終わったもの。彼もまた、そこに関心を向けている。
村に戻ると、数人の村人たちが老婆について口を開いた。
【村人A】
「……あの婆さんの話なんて、真に受けなくていいんです」
「文字も読めないし、昔から変なことばかり言ってて。“記録”にもない話ばかりで」
【村人B】
「記録官の文書も読めないのに、“処刑は間違いだった”なんて……おかしいですよね」
【村人C】
「神殿に逆らったとか、変な花の話をしてたって、昔から噂もあったし……」
(記されていないというだけで、人の声や記憶が切り捨てられていく)
(記録こそが真実──この国では、誰もがそう信じている。でも、それは……)
村人たちのまなざしは、老婆をまるで”存在しない人”のように扱っていた。けれど、私には——あの人の声が、いちばん”確かなもの”に思えた。
記録された言葉と、記録されない記憶。どちらが真実なのか。
そんな問いが、胸の奥でくすぶり続けていた。
この問いの答えが、私たちの任務を──
そして私自身を、根底から覆すものだとしても。