第39話:名を記す選択
群衆のささやきが、遠くなった気がした。
空白になった帳面の上に、ただ風が吹き抜ける。
そのとき──静かに、一人の男が壇上に歩み出る。
群衆がざわめきを止め、神殿官たちも息をのんだ。
白い羽織の下に黒衣をまとうその男は、この場を支配するような気配をまとっていた。
どこからか、神殿長ルドヴィスだという囁きが聞こえる。
【ルドヴィス】
「……この記録は、一度、拒まれた」
「けれど、まだ”書き直す”余地はあります」
低く、どこか愉しげな声音だった。
【ルドヴィス】
「問いには、応えがあってもよい」
「もしこの場で、“もう一度、記したい”と願うなら──」
「その意志を、副記録帳が受け取るでしょう」
誰もが、息をのんでその声を聞いていた。
彼は、誰かを責めるでも、導くでもなく──ただ、“選ばせる”ような目をしていた。
【ルドヴィス】
「沈黙もまた、答えにはなるが……」
「君が”記す”なら、それもまた、一つの”在り方”だ」
壇上に、静寂が戻る。リュシアンが一歩進み、振り返る。
【リュシアン】
「……選ぶのは、君です」
「記すか、記さないか。どちらも、君の声で決めてください」
私は、羽根ペンの意匠にそっと手を添えた。
母が遺したもの。“記されない”家の、唯一の証。
(わたしは、いま、“何のために”記すのか)
(誰かの命を、言葉で救えるなら──この声を、差し出したい)
もう一度、この記録を。
誰にも消されないかもしれない、誰にも気づかれないかもしれない。
それでも、記したいと思った。
私は、歩み出る。
ふるえる声で、けれど、はっきりと告げた。
【アメリア】
「……私は、リア」
群衆が一瞬静まり返る。
【アメリア】
「記録から、すべてを消された家の者です」
「でも……ヴァルト・サーヴェル。あの人も、確かに"いた"」
「だから──もう一度、ここに記します」
言葉が落ちたあと、私は、ゆっくりと筆を取った。
頁の上に、ゆっくりと記された文字──
訂正申請
記録No.KR-00772846:ヴァルト・サーヴェル
現在地:東部第七管理区域
処分記録に齟齬あり。
書き終えた瞬間、空気がわずかに震えた。
副記録帳が、ほんのりと光を帯び──その記述が、“いまこの場で”、確かに記されたことを示していた。
【ルドヴィス】
「……“記した”と、記録しておきましょう」
男──ルドヴィスは、ゆるやかに口元を綻ばせていた。
まるで、それこそが”咲く瞬間”だとでも言うように。
【リュシアン】
「君の声が、“存在”になった」
「ここにいる誰もが、もう目をそらせない」
その言葉が、胸の奥に深く届いた。
記録が、私の手で揺らいだ──たった一行の文字が、それを証明していた。
(……もう、後戻りはできない)
(でも、それでも──この声で、記したかった)
風が吹き抜ける中、私の記した文字だけが、静かに光り続けていた。




