第37話:記録の行方・前編
広場に鐘の音が響く。
それは、年に一度の「記録照合の儀」の始まりを告げる音だった。
私たちは、ついにこの日を迎えていた。
壇上では、神殿の記録官たちが整然と並び、
その中心にある石板には「訂正申告受付」と刻まれている。
けれど、空気は冷たかった。
儀式を見守る群衆の目に、期待の色はない。
「また訂正申請か、去年も通らなかった」
「副記録帳じゃ通らないよ」
「でも、なんで今年は事前に通告があったんだ?」
「神殿側も妙に緊張してないか?」
(……全部、聞こえる)
(どうして、誰も信じてくれないんだろう)
膝に力が入らない。
息を吸うたびに、胸がきゅっと締めつけられた。
斜め前に立つリュシアンの姿が、視界に入る。
(……この人の横顔。静かだけど、何かを押し殺しているようにも見えた)
(それでも、歩こうとしている。もう、止まらない)
そのとき。
リュシアンの手が、そっと私の手に触れた。
あたたかくて、静かな支え。
【リュシアン】
「大丈夫。……君が信じたことを、信じてください」
「……君の言葉が、世界に届くように」
「僕は、それを支えるためにここにいます」
──そして。
彼は観客席の向こう、神殿関係者たちを見やるようにして、低くつぶやいた。
【リュシアン】
「……“なかったこと”にしたい誰かが、また消そうとするでしょう」
「でも、今回は帳尻合わせじゃなく、“記すため”に来たんです」
その目は、ただ静かに、真っ直ぐだった。
壇上に歩を進めると、記録官の一人がこちらを見て、目を細めた。
【記録官】
「……照合済みの記録番号に、今さら”存在確認”とは」
「神殿には、既にこの件の受理記録がありますが──」
【リュシアン】
「ええ。それは”照合された”記録です」
「でも──”記されたはずの存在”は、そこにありませんでした」
副記録帳を胸元に掲げ、静かに開く。
【リュシアン】
「この場で、“再申告”の記録を記します」
「閉じられる前に、すべてを見届けてください」
神殿官たちがざわめいた。壇上で帳面に直接記す行為は、かつてない。
観衆のあちこちでも声が上がる。
「……今、書いたぞ? 本番で?」
「手順って……こんなだったか?」
「何か、様子が違う……」
「あの記録官、どこか見覚えが……」
「神殿側も慌ててるじゃないか」
リュシアンが副記録帳を差し出す。
その表紙を、私の手が静かに受け取った。
ペンは、すでにインクを含んでいる。
私は頁を開き、深く息を吸った。
(……この手で、"誰かの存在"を記す)
(今度こそ、消されないように──)
【アメリア】
「……申告内容。記録No.KR-00772846の存在確認に齟齬があるため、再調査を要請」
「現在、アルトナリア南部の第七管理区域において、対象人物の生存が確認されています」
「対象者氏名──ヴァルト・サーヴェル」
ペン先が触れた瞬間、頁に淡い光がにじむ。
書かれた文字は、祈りのように、副記録帳へと吸い込まれていった。
【リュシアン】
「……ご確認を。これは、彼の生の記録です」
リュシアンは神殿官に副記録帳を差し出す。
そのとき──視線の端で、ひときわ目を引く姿が揺れた。
黒い衣の上に、月光のように白い肩掛けをまとった男。
その白だけが、ざわめく人波のなかで異様に静かに光って見えた。
(……あの人、さっきからずっと……)
その瞬間、ふと脳裏をかすめた。
(“配置されている”って──リュシアンが、あのとき言ってた……)
(もしそれが本当なら……)
演壇の向こう。男はただ静かに、こちらを見ていた。
その目に、私は見た。
すべてを知っているという、恐ろしい確信を。
(きっとこの人が、私たちを"配置した"張本人……)




