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第33話:香りのすれ違い

「先に行っててください」

そう言われたけれど、家の主より早く着くのも落ち着かない。

だから私は、通りの角をひとつ曲がり、小さな広場をひとまわりして時間をつぶすことにした。


石畳の上を歩いていると、ふいに、どこか異国の香りが鼻先をかすめた。


(……この香り、どこかで)


【ゼフラン】

「こんにちは。……あれ、もしかして、どこかで会ったかな?」


ゆったりとした声が、風とともに届く。振り返ると、そこには金髪の青年が立っていた。その瞳が、まっすぐに私を見つめている。


どこか遠い国の人のような、洗練された服装。けれど、その目には不思議な親しみやすさがあった。


【ゼフラン】

「さっき、風に乗って香ったんだ。君の香り」

「咲く前の花って、ほんのり匂うことがある。気づく人は少ないけど」


その言葉が、まるで詩のように響く。


【ゼフラン】

「でも、君からは……あのときも、そんな気配がした気がして」


【アメリア】

「そんなふうに、覚えてたんですか?」


【ゼフラン】

「不思議だけど、残るんだ。こういうのって」


彼は微笑みながら、小さな紙片を差し出した。やわらかな香りが、そこからほのかに立ちのぼる。


【ゼフラン】

「香りつきの紙なんだ。見つけたとき、なんとなく君を思い出して」


その紙は、見たこともない繊細な細工が施されていて、まるで芸術品のようだった。


【ゼフラン】

「風に乗せて渡すのも、悪くないだろ?……どうぞ」


【アメリア】

「ありがとうございます」


【ゼフラン】

「俺はゼフラン。旅をしている者だ」

「君の街には、しばらくいる予定だよ。……もしかしたら、また会えるかもしれない」


彼はふっと微笑み、通りの向こうへ歩き出す。その歩き方には、まるで大地を踏みしめるのではなく、風と一緒に移動しているような軽やかさがあった。


【ゼフラン】

「じゃあ、また。風が運んでくれるだろうから」


(あの人、いったい──)


ただの旅人にしては、どこか神秘的で、記憶に残る人だった。彼の存在そのものが、まるで物語から抜け出してきたような、不思議な魅力を持っている。


小さく息を吐いて、わたしはリヒテンタール邸の方へと歩を進めた。広場のざわめきが遠ざかり、静けさが戻ってくる。


やがて、邸宅の灯りが見えた。




屋敷に着くと、応接室にはもう明かりが灯っていた。扉をそっと開けると、ソファのひとつにリュシアンが座ったまま、すうすうと寝息を立てていた。


(先に来てたんだ)


膝の上には開かれたままの書類と、整えられた思考メモ。



『密約の中身が不明でも、“記そうとした証拠”は揃った。

でも、この国は”証拠”より”都合”で動く。

なら、僕はその都合の隙間に、リアの声を滑り込ませる。』



(わたしのこと?)


そのときだった。


【リュシアン】

「……リア……」


(リアって──)

(わたしの、本当の名前を……この人の口から)


寝言が、確かに聞こえた。胸がどくんと跳ねる。思わずそっと近づこうとして──その距離に、はっとして立ち止まった。


(……触れそうなのに、触れられない)


けれど次の瞬間、彼のまつげがぴくりと動いた。ぱちり、とリュシアンが目を開けた。


【リュシアン】

「──っ」


思わず距離を取る。


【アメリア】

「ご、ごめんなさい!起こすつもりは……」


【リュシアン】

「いえ、大丈夫です。……ちょっと、考えごとしてたら、そのまま……」


彼は頬をかきながら、照れくさそうに笑った。そして私の頬も、かすかに熱を帯びていた。彼の目がふと揺れて、そっと目をそらす。


(……今の距離が、近すぎたのかもしれない)


少し沈黙が落ちて──その場の温度が、ふっと引いた気がした。

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