第3話:揺らぎの輪郭
(本当に、ただの記録ミスなのだろうか)
私とリュシアンは、“処刑済”とされた人物がかつて暮らしていたという村へ向かっていた。馬車の前で軽く会釈すると、彼は無言のまま乗り込んだ。
(……狭い)
距離はあるはずなのに、彼の気配は妙に近く感じる。言葉がないほど、空気が濃くなる。馬車がゆっくりと動き出し、森を抜ける小道を車輪の音と馬のひづめが刻んでいく。葉の隙間から、光だけが差し込んだ。
膝に置いた記録帳の頁をそっと撫でると、それに気づいたように、彼がぽつりと口を開いた。
【リュシアン】
「……情報、ずいぶん絞られてますね。意図的なくらい」
【アメリア】
「はい。最近、その村で、“別の名前”で記録が見つかったそうで」
「特徴が似ていたんだとか。ただ、年齢や外見までは記録されていないみたいです」
【リュシアン】
「顔も名前も曖昧な記録と、似た特徴の”別人”記録」
「曖昧な指示ほど、あとで”違いましたね”って差し戻されるんですよ」
「……誰の指示だと思ってるんでしょうね」
皮肉めいた口調。でも声は平坦だった。
【リュシアン】
「記録番号はあっても、中身は空っぽ。生きていたとして――“ただの誰か”に、紛れている年齢ですね」
【アメリア】
「……そうですね」
【リュシアン】
「……でも、“名前がない”というだけで、いなかったことにされる。死んだ人より、静かに遠い存在です」
(誰の声も届かない。名も、記録もないまま、“生きていたこと”さえ、なかったことにされる)
胸の奥がひやりとした。私も──ずっと、そこにいた。
(伝えられないって、こんなにも苦しい)
【アメリア】
「記録があるかないかで、“生と死”すら決まってしまう……」
【リュシアン】
「“あるかないか”じゃなく、“書いたかどうか”ですよ。記録って、“事実”と”都合”の、折衷案ですから」
「この記録も、誰かの”都合のいい物語”にしか見えない」
(……その言い方。どういう意味?)
そのとき、鞄の中で羽根ペンが揺れて、転がりかけた。慌てて押さえた指先に、リュシアンの視線がぴたりと止まる。
【リュシアン】
「……古い型ですね。そのペン。もう市場には出てないはず」
(見られた? 気づかれるようなものじゃ、ないのに)
【アメリア】
「修道院で譲り受けたものです」
【リュシアン】
「道具って、正直ですよ。使い込まれたものほど、“誰の手だったか”が透けて見える」
その視線が、ペンから私の手へ、そして顔へと移った。まるで何かを読み取ろうとするように。
【アメリア】
「……記すことが好きだったので。道具だけは、大切にしています」
【リュシアン】
「それは、いいことですね。記録って、紙に書く前に”手で記すもの”ですから」
その声色は穏やかだった。でも、目は――どこまでも観察者のそれだった。
(……視線が、強い)
(何かを”確かめるため”の目)
馬車の揺れが少しだけ大きくなり、視線がふっと逸れる。
【リュシアン】
「……揺れますよ。せっかくの記録、吹き飛ばしたくないでしょう」
それは、ただの注意喚起。けれど、その一言が不思議と、緊張をほどいた。
(……そんなふうに感じるのが、間違いだとしても)
窓の外を見ると、森の木々が後ろへ流れていく。もうすぐ村に着くだろう。そして、“処刑済”の男の手がかりを探すことになる。
(この人と一緒に、謎を追う)
その事実が、なぜか胸の奥を微かに震わせた。 ——それが任務への期待なのか、それとも別の何かなのか、まだわからないけれど。