第28話:灯りの下で、ひと息
リヒテンタール邸を出ると、街の空気が一段と冷たくなっていた。
隣を歩く彼の存在だけが、この夜に温もりを与えてくれる。
静かな石畳の道に、遠くから灯りが滲んで見えた。
(屋台?)
昼の喧騒とは違う、小さく揺れる火と、わずかな人影。ひっそりと、けれど確かに、誰かの営みがそこにあった。
【リュシアン】
「こんな時間に、まだ開いてるとは。珍しいですね」
【アメリア】
「夜市の名残でしょうか」
【リュシアン】
「おそらく。ですが、ちょうどよかった」
くるりと振り返ると、彼は少しだけ笑った。
【リュシアン】
「記録が重すぎた一日でした。せめて最後に、軽い頁を一枚くらい」
(軽い頁)
(彼のそんな言葉が、今夜いちばんあたたかく感じた)
思わず、口元が緩む。
【リュシアン】
「何か買ってきます。少しだけ──待っていていただけますか?」
【アメリア】
「はい」
彼の背中が、ひとつ灯りの中へと紛れていく。その足取りはどこか軽くて、けれど何かを抱えているようでもあった。
私は、すぐそばのベンチに腰掛けた。
(本当は修道院に戻る時間だけれど、今日は任務扱いだったから、大目に見てもらえるはず)
(だから少しだけ。……もう少しだけ、ここにいたい)
夜風が頬をかすめても、今だけは、冷たさよりも安心が勝っていた。
ふと、足音が近づいてくる。細いヒールの音。軽やかで、ためらいのない足取り。
月明かりの下、深紅のマントがふわりと揺れた。どこかで見たことのある姿。以前、落とし物を届けたときに交わした視線──あの瞳の色を、わたしは覚えていた。
【カリーナ】
「まあ。こんな時間に”待つ女”だなんて、ちょっと素敵じゃない」
その瞳が、私を見てふっと笑う。赤みを帯びた紫の瞳は、灯りの中でやさしく揺れていた。
【カリーナ】
「誰か、大切な人?」
「答えなくてもいいわ。瞳が、もうそう言ってるもの」
私は言葉に詰まり、思わず視線を落とす。けれど彼女は気に留める様子もなく、すっと背を向けた。
【カリーナ】
「ねえ。自分ではまだ気づいてないかもしれないけれど──」
「咲き始めた花って、案外、自分の香りに気づかないものよ?」
マントの裾が夜風にひるがえり、去り際、ふんわりと甘い香りが残る。
それは──まぎれもなく、“春”の匂いだった。
(……咲き始めた、って)
(わたしが──?)
まだわからない。でも、胸の奥で、なにかがかすかに揺れていた。
──その余韻に包まれているときだった。
別の"甘い香り"が鼻をくすぐる。
【リュシアン】
「お待たせしました」
彼の手には紙袋。
ほんのり湯気を立てるそれは、あたたかな甘い香りを放っていた。
そして──足元に、小さな影がちょこんと立っていた。
【アメリア】
「あの、猫が」
【リュシアン】
「ああ、これは......屋台にいて、ついてきてしまって」
困ったような表情を浮かべながらも、リュシアンはもう一つの小さな包みを取り出す。
【リュシアン】
「店主さんが、"また迷い猫が来た"って。この子用のおやつもくれたんです」
そっと包みを開けて、猫にほんの少しだけ与える。
猫は嬉しそうに食べて、そのままリュシアンの膝に飛び乗った。
【リュシアン】
「......なぜかいつも、こうなるんです」
苦笑いしながらも、優しく猫を撫でる手つき。
私もつられて、小さく笑った。
(こうしていると、本当に、ただの記録みたい)
でも、きっと。これは”余白”かもしれないけど、記録の中の大事な一頁になるのだと思った。




