第21話:記されなかったもの
名もなき者を記すことは、その人を世界に呼び戻すことなのか──
それとも、永遠に封じ込めることなのか。
翌朝、私は文書整理室でペンを握っていた。
ヴァルトの証言を報告書にまとめるために。
(……書かなきゃ。あの人のことを)
"記されなかった"記憶を、自分の手で記す。その重みが、静かにのしかかってくる。
羽根ペンを持つ手に力が入る。
(でも……)
ペン先が、紙の上で止まった。
(このまま、書いていいの?)
文面ではない。私が本当に向き合わなければならない”こと”が、ほかにある気がした。
昨夜、ヴァルトと出会ってから、胸の奥でくすぶり続けていたもの。父の名前。密約の痕跡。そして、“ジェンシア家”という響き。
(あの人は、自分の名前を名乗った)
(記録から消されても、“ヴァルト”として生きてきた)
(それなのに、私は……)
視線を前に向けると、リュシアンがそこにいた。静かに、何も言わずに、ただ、私のそばに。
(もう、嘘はつけない)
彼の存在が、私に勇気をくれた。これまでずっと、彼は私の正体を知りながら、名を問わずにいてくれた。それは優しさでもあったけれど、同時に「自分で選ぶべきだ」という信頼でもあった。
(今なら、言える)
(この人になら、本当の私を知ってもらいたい)
私はゆっくりと顔を上げ、彼の方を見つめた。
【アメリア】
「……わたしの本当の名は、リア・ジェンシアです」
「十四年前、記録から消された名前。でも今、ここに”在る”と、あなたには知ってほしかった」
言った瞬間、胸の奥にあった何かが、ふっとほどけていくのを感じた。
この名前を、誰かに伝えることが、こんなにもこわくて、でも、こんなにもあたたかいなんて。
【アメリア】
「……ずっと、言えなかったんです。でも、今なら……伝えたいと思いました」
彼は一瞬だけ目を見開いた。けれど、すぐにその表情は静けさへと戻っていく。
【リュシアン】
「前に、“誰かの声が混じってる”って言いましたよね」
「……でも、名を問うのは、僕じゃないと思ったんです。記すかどうかは、君の選択だから」
「今は、君自身の声が、はっきり聞こえる気がします」
その言葉が、まっすぐに”わたし”に届いた。名前を呼ばれたわけじゃない。でも、ちゃんと”リア”として――ここに、いた。
(わたしの声。わたしの名前)
(今、この瞬間だけは……確かに在る)
深く息を吸って、私は口を開いた。
【アメリア】
「……わたしには、もうひとつ。話しておきたいことがあります」




