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第20話:名のない筆

父の顔が、思い出せなくなっていた。


夜明け前、火が静かに消えたあと。私たちはそのまま谷の隅で、しばらく休むことにした。眠れたのか、わからない。ただ、時間だけが過ぎていった。


空が白み始めたころ、リュシアンが先に立ち上がり、帰り支度を始めた。私も鞄をまとめながら、ふと、足元に滑り落ちていた小さな物を拾い上げる。


──羽根ペン。


使い込まれた筆の根元に、小さなリンドウの刻印がある。密約にあったという私印と同じもの。


(“ジェンシア家”。そう……私はその名を、捨てたはずなのに──)


そのとき、焚き火の灰の中に、昨夜の言葉が残響のように蘇る。


(父が記した文書が、本当に密約だったとしたら)

(それが、“一家処刑”の理由だったとしたら──)


思考がぐるぐると回る。視界の端が霞む。


(……どうして。なぜ、父はそんなものを……)


父の顔を思い出そうとするが、記憶が曖昧だった。優しかった記憶しかない。それが本当だったのか、それとも子供の美化された記憶なのか。


(ずっと”咎人の娘”として生きてきたけれど)

(ほんとうの”咎”が、どれほどの重さだったのか──)

(……知るのが、怖い)


胸の奥で、何かが軋む音がした。


(知っても、それを”受け止めきれる”の……?)

(わたしには、その資格があるの?)


──ぽつりと、息のように漏れた言葉。


【アメリア】

「……これが、“咎”だったら、どうしたらいいんでしょうね」


求めたわけじゃなかった。でも、彼が静かに口を開いた。


【リュシアン】

「……それでも、“記したい”と思った時点で、もう答えは出てる気がします」


その声は、そっと支えるような優しさだった。


【リュシアン】

「揺れてますよね。……でも、それは前に進もうとしてるからだと思います」

「“咎”かどうかなんて、本当は誰にも決められない。君が、“知って、残したい”と思えるなら……僕は、それでいいと思います」


(……優しい)


その言葉よりも先に、胸の奥がきゅっとなった。


ふと顔を上げると、彼がこちらを見ていた。ほんの一瞬──でも、その瞳には、すべてを映すような静けさがあった。


呼吸が浅くなったのは、その視線が”問い”ではなかったから。彼は名を問わない。きっとずっと前から気づいていたのに。


(……呼ばれなかった)


その沈黙が、胸に刺さった。優しさと、怖さと、それでも確かに、救いだった。


でも、私は気づいていた。


(それでも、名乗らなければならない)


“記される”のが怖いんじゃない。“誰かに記される前に、自分の手で記すべきだ”と、わかっていた。


(わたしの咎を。わたしの名を。この手で、記さなければ)


ペンを握る指先に、力がこもる。それは、もう震えではなかった。覚悟だった。


日が昇りきるころ、ふたりで谷をあとにした。ふもとには、帰りの馬車が待っているはずだった。


そして私は、決めていた。帰ったら、すべてを記そうと。


(本当の名前も、父の咎も、すべてを──)


朝日が、私たちの影を長く伸ばしていた。 もう、隠れることはしない。

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