第14話:境界の火
誰かが、逃げた直後だった。 廃屋に人の姿はない。けれど、"気配"だけは、生々しく残っていた。
足跡、空気の揺れ、微かに焦げた煙の匂い──誰かが、ついさっきまでここにいたかのように。
【リュシアン】
「……彼かもしれませんね。まだ、近くにいる」
【アメリア】
「でも、今は……見えません」
日はすでに落ちかけていた。これから廃屋に踏み込むのは危険すぎる。そこで私たちは、少し離れた場所に野営の支度をすることにした。
廃屋の全体が見渡せる、でも向こうからは見えにくい木陰の空間。薄暗い森に囲まれた、小さな安全地帯。
火を起こし、小鍋をかけ、ようやく呼吸が落ち着いてくる。
たき火の炎が、ぱちぱちと静かに音を立てていた。空はすでに濃紺に沈み、鳥の声も消えている。
小さな鍋を火にかけながら、私は手元の食材と格闘していた。
【リュシアン】
「もう少しだけ多めにした方が、たぶん焦げません」
「経験談です。……僕の失敗例、ですけど」
声が落ちてくる。気づくと、彼が隣にしゃがみ込んでいた。
【アメリア】
「……見ないでください」
思わず口にした言葉に、彼は少しだけ目を細めた。
【リュシアン】
「君って、なんでも器用にこなす人だと思ってました」
「……でも、こういう”抜け”があるのも、悪くないと思います」
【アメリア】
「料理の記録なんて習わなかったので」
味見をして、思わず眉をひそめる。焦げは隠せず、野菜は芯が残っていた。
二人で鍋をつつく。沈黙は、あたたかくもあり、こわくもある。
【リュシアン】
「……美味しいですよ」
【アメリア】
「絶対うそです」
【リュシアン】
「ええ、嘘です。でも、嘘も記録も、“泣かせないため”というときもありますから」
思わず、小さく笑ってしまう。頬が、ほんのりと熱い。
しばらくして、焚き火の炎が、ふと揺れた。パチ、と小さな音がして、私は反射的にそちらを見る。
気づけば、リュシアンの目がこちらを向いていた。いつの間にか、彼は食べる手を止めていた。
……その視線が、深く、やさしく、それでも──確信に満ちていた。
【リュシアン】
「君って、不思議な人です」
まるで、これまでずっと見てきたものの答え合わせをするように。
【リュシアン】
「“誰かの人生”を記しているのに、自分の時間はどこか他人事みたいで──」
「……まるで、別人の履歴で生きているみたいな感覚って、わかります?」
炎の揺れと一緒に、胸の奥がわずかに波打った。
【リュシアン】
「最初は、ただの違和感だったんです。でも、一緒に過ごすうちに──」
「ときどき、別の名前が透けて見えるんです」
「君の言葉の裏に。声のトーンとか、選ぶ語尾とか──誰かの”影”みたいなものが」
(いつから? どこまで知ってるの?)
(最初から、疑われてた? それとも……)
その問いが、ひとしずくの火のように、静かに胸の奥に落ちていった。
【リュシアン】
「僕は、ただ確かめたかっただけです」
返事はできなかった。 でも、もう隠し通せない何かが、炎と一緒に揺れているのを感じていた。