君の視線の先にはいつも僕の弟がいた
「クリス。あまりこんなことは言いたくないんだけど、アランと親しくするのは控えてくれないか?」
僕の苦悩と羞恥が滲んだ言葉に、目の前に座る婚約者クリスティーネ・ミュラーはキョトンと目を瞬かせた。
「何よ、ロイド。藪から棒に」
クリスの表情には疚しさなど露ほどもなく、そのことが余計に僕を惨めにさせる。だがそれでも言わなくてはならない。
「……知り合いの貴族や使用人の間で、君が僕からアランに乗り換えるのではないかという噂が流れてるんだ」
「はぁ? まさか貴方そんな根も葉もない噂話を信じてるの?」
心外だと怒りに顔を歪める婚約者に、僕は慌ててかぶりを横に振った。
「そうじゃない! 君たちがそんな関係じゃないってことは分かってる。ただ……」
「ただ?」
「……傍からそう見えてしまうことが問題なんだ。だから──」
「馬鹿馬鹿しい」
僕の言葉を遮ってクリスはハッキリと言った。
「私たちに疚しいことは何もないわ。アランとはあくまで将来の義姉として親しくしているだけよ。そんな下らない噂、言いたい連中には言わせておけばいいじゃない」
「……分かってる。君たちの振る舞いに非がないことは分かってるんだ。だけど──」
「もし何か問題があるとするなら、それは私たちではなく貴方の自信の無さにこそあるのではなくて、ロイド?」
「────」
言われたくないことをズバリと突きつけられて、僕は言葉を失う。
そんな僕の顔を見てクリスも少し言い過ぎたと思ったのか、その場に少し気まずい沈黙が流れた。
何とか空気を変えようと僕が口を開こうとした瞬間、僕らのいた執務室のドアをノックして返事も待たず一人の男が飛び込んできた。
「兄さん。急ぎでちょっと話が──っと、ごめん。クリスも一緒だったのか」
「気にしなくていいのよ、アラン」
男は僕の双子の弟アラン・フーバー。
気まずそうに髪をかくアランを、クリスが温かみのある笑みを浮かべてフォローする。
クリスの視線には単なる将来の義弟に対するものではない“熱”がこもっているように思えて、僕の胸にズキンと鈍い痛みが走った。
僕の名はロイド・フーバー。フーバー子爵家の嫡男であり次期当主だ。
我がフーバー子爵家は八年前、僕が十一歳の時に父で現当主のマキシムが事故で半身不随となって以降、僕が当主代理として政務を取り仕切ってきた。
幼い当主代理の存在は、寄親であるミュラー侯爵には当時いかにも頼りなく──あるいは狙い目に見えたのだろう。両家は侯爵家の四女で歳の近いクリスティーネを僕の婚約者とすることでその難局を乗り切ろうとした。
ミュラー侯爵が単なる善意でクリスをあてがったわけでないことは明らかだったが、当時の子爵家にとって侯爵家の支援は何よりありがたく、また僕個人としても美しく聡明な婚約者を得られたことに不満などあろうはずがなかった。例え侯爵家の支配が強まろうと、大過なく家と領地を維持できるならそれ以上望むことはなかったのだから。
この時、誰にとっても予想外だったのは、僕の双子の弟アラン・フーバーの存在だろう。
弟は幼い頃から優秀で、何をやらせても僕より一回りも二回りも上の成果を残してきた。またその優秀さを鼻にかけることなく兄である僕を立ててくれる人格者でもあった。
そんな弟を差し置いて僕が次期当主に指名されたのは、双子で形式的とはいえ僕が兄であり、子供の頃の優秀さなどあてにはならないと周囲が判断したからに過ぎない。
だが父が倒れ僕が当主代理となったあの日から、アランの飛躍は始まった。
僕が家宰に補佐され当主として最低限の業務に四苦八苦しているのを横目に、アランは様々なアイデアを打ち出し、親しい使用人を使ってそれを実現。商人や職人、周辺貴族と独自に縁を結んでフーバー子爵領を発展させていった。
最初は紙漉き、次は綿花の栽培とそれを使った製品の開発と輸出ルートの確保。それに留まらず農具・工具・武器の製造など、職人や商人を次々領内に引き込んで、今ではアラン以外にその全容を把握できる者がいない程にフーバー子爵領の経済規模は拡大していた。
そのあまりの急拡大に僕は不安を抱き、何度かアランに『事業拡大は足元を固めてからにしたらどうだ?』とやんわり釘を刺したこともある。
『できない理由、やらない理由を探すのは止めようよ、兄さん。商売には機ってものがあるんだ。今を逃せば他の連中が次々マーケットに参入してくる。みすみすウチが発展するチャンスを逃す理由があるかい?』
だが逆にアランはそう諭すように言って取り合わなかった。
周囲に相談してみても、父や使用人、友人たちも皆アランの意見を支持する。いや、それどころか口には出さないが彼らの目はこう語っている気がした──優秀な弟の成果に嫉妬しているのだろう、と。
実際、華々しい成果を挙げるアランに対して嫉妬がない筈がなかったし、そのせいで目が曇っていると言われれば否定しようもない。
──でもきっと、これは嫉妬で目が曇っているからだけじゃない。
気がつけばクリスの視線は婚約者の僕ではなく、いつも弟のアランを追っていた。
彼女は不貞を働いているわけではない。
婚約者のいる淑女として不適切な言動や振る舞いをしているわけでもない。
僕が蔑ろにされたことも、勿論ない。
けれど彼女の気持ちを、いつしか僕は信じられなくなっていた。
「婚約者同士の逢瀬に割り込んですまないね」
「だからそんなこと気にしないで。お仕事のお話でしょう? 私のことは気にせずどうぞ。それとも私は席を外した方がいい?」
「いや、それには及ばない。すぐ済ませるよ」
あるいはこれは僕の嫉妬がそう見せているのだろうか?
婚約者の視線が、声が、僕と二人でいた時より活き活きしているのは、僕の劣等感が生み出した思い込みに過ぎないのだろうか?
あるいはそうあって欲しいと願い、僕は笑みを取り繕って口を開く。
「それで、どうしたアラン? またとんでもない事業でも立ち上げる話かい?」
「いやいや、今回はそういう話じゃないよ。ほら、職人の絶対数が足りないって話は前からしてただろ? 親方たちと話をしたんだけど、やっぱり今後の拡大を見据えれば実地で教えていくやり方じゃ限界があるし、専門の養成所を立ち上げようって話になってさ」
「……もっと厄介な話じゃないか」
「いやでも、将来を見据えれば絶対に必要になってくるだろう?」
「専門の養成所となれば投資も馬鹿にならない。今の調子で事業が拡大すればいいが、何か問題でも起きれば一気に職人があぶれることになるぞ」
「いいじゃない。アランの事業にはお父様も感心していたわ。投資が必要なら私からお父様にお願いしてあげてもよくてよ」
苦い顔をしてアランを思いとどまらせようとするが、そこにクリスが口を挟んだ。
「ホントかい!?」
「ええ」
「ちょっと待った」
僕を置いて進みそうになる話に、慌ててストップをかける。
「……クリス。席を外してくれるかな。これはあくまで当家の話だ。婚約者とはいえ勝手なことをされては困る」
「はいはい、分かりましたよ」
威厳を取り繕ってそう告げると、クリスは気を悪くした風でもなく肩を竦め「隣で待ってるわね」と部屋を出ていく。
今の発言はアランに対する援護射撃だろうか──きっと劣等感や嫉妬がそう見せているのだと自分に言い聞かせ、僕はアランに向き直り相談に応じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「クリスティーネ嬢の婚約者をアランに変更する」
「…………は」
その言葉は晴天の霹靂だった。
ある日、現当主である父マキシムの寝室に呼ばれ、突然告げられた言葉がこれだ。
半身不随でベッドに横たわる父からは、事前に家督に関することで話があると言われていた。クリスは今年学院を卒業する予定なので、それに合わせて結婚し正式に家督を継ぐという話だろうと、僕は今の今まで呑気なことを考えていた。
混乱から立ち直れずにいる僕に、父は淡々と続ける。
「先に言っておくがこれはあくまで政治的な判断だ。クリスティーネ嬢やアランが希望したものではない」
政治的な判断──つまり、子爵家と侯爵家の合意事項であるということだ。
そして侯爵家の令嬢であるクリスの婚約者という言葉が持つ意味は、子爵家にとってとても重い。
「……つまり、家督はアランが継ぐ、ということですか?」
「そうだ」
驚きはない。ただショックだけがあった。
父はそこで声音に罪悪感を滲ませ、慰めるように告げる。
「これはお前に瑕疵があったという話ではない。お前は我が家の嫡子として、当主代理として十分に務めてくれた。そのことは誰もが認めている。だが──」
「分かっています。アランは私とは比較にならないほど優秀だった。しかも兄弟とはいえ双子です。子爵家としても侯爵家としても、確実にアランをこの家に留めるため当主に据える、というのはむしろ自然な発想でしょう」
すらすらと言葉が出たのは、僕自身頭の片隅にずっとこうなるかもしれないとの思いがあったからだろう。
元々クリスとの婚約は政治的なものだったし、周囲から望まれていない中、無理に当主を継いだとしても良い結果になるとは思えない。
だからこの結末に、不満は勿論あるし納得しているとは口が裂けても言えないが、理解はできる。仕方のないことだと。
ただ一つだけ──
「この話はもうアランとクリスティーネ嬢には?」
「……うむ。クリスティーネ嬢には侯爵から、アランには私から伝達済みだ」
無言で父の顔を見つめていると、父は溜め息を吐いて続けた。
「クリスティーネ嬢は特に異論なく受け入れたと聞いている。アランは……一度はお前の立場を理由に固辞したが、私が重ねて命じ受け入れさせた」
「……そうですか」
それがどこまで本当の話かは分からない。ただ、二人は何も僕に言ってはこなかった。婚約者としても、次期当主としても、僕が周囲から望まれる存在でなかったことだけは確かなようだ。
気持ちを整理するように大きく息を吐き、天井を見上げる。そして改めて父に向き直り、自分の想いを口にした。
「皆がそう望むのであれば、私に否はありません」
「……すまぬ」
「いえ。ただ、私がこのまま子爵家に留まればアランもクリスティーネ嬢もやりづらいでしょう──正直、私も気まずさがあります」
暗にこの家を出ると父に告げる。
もしここで父が僕を引き留めてくれるなら──あるいは父を通じて誰かがそう望んでくれたなら、私心を封じて子爵家に仕えても良いと思っていた。
「……うむ、そうだろうな。侯爵にも相談して良き婿入り先を──」
「いえ」
しかしそうはならなかった。
僕は父の言葉を遮り、穏やかな──諦念混じりの笑みを浮かべ、自身の希望を告げる。
「柵を捨てて、一からやり直したいと思います」
結局この半月後、僕は幾ばくかの仕度金を渡され子爵家を去った。
僕が代行していた当主業に関しては元々家宰も父も概ね内容を把握していて、引継ぎに大した時間は必要ない。
その間、一度だけアランが僕に会いに来て申し訳なさそうな表情をしていたが、気にするなと肩を叩いてやるとすぐに笑顔を浮かべた。実際、僕が出ていくのはアランのせいではなかったし、奴も貴族の男子だ。野心がなかった筈がない。奴の本心がどうだったかなど今更どうでもよいことだ。
それからクリスが会いに来ることはなくて──正直、ホッとした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ロイドが子爵家を出奔して一年後。
新たに次期当主に指名されたアランは、クリスティーネとの結婚と当主交代を来月に控え、執務室で頭を抱えていた。
「どうしてこんなことに……」
兄に代わって当主代理となり、事実上フーバー領の全権を思うがままに振るえるようになったことで、それまで以上に子爵家は発展していく──筈だった。
実際、新体制になった当初、半年程はとても順調だった。兄が担当していた業務がこちらに割り振られ多少事務面で忙しくはなったものの、それも十分許容範囲。むしろ兄の意見を伺い、説得する手間が省けたことで事業の展開速度は以前より加速した。
兄がストップをかけていた事業も順調に進み、父やミュラー侯爵からの評価もうなぎのぼり。美しい婚約者も得てまさにこの世の春だったと言えよう。
そんな順調な日々に影が差したのは、次期当主となる以前から稼働していた事業で起きたちょっとしたトラブルが切っ掛け。
大口取引先の一つだった伯爵領が紛争状態に突入し、一時的に商品の輸出が滞ったのだ。ただこの程度のトラブルは特別珍しいものではなく、アランもこれまでに何度も経験し、乗り越えてきた。
元々その商品を売り込む先は他にもある。アランにはすぐに取引をまとめる自信があったし、事実平時ならそうなっていただろう
だがその時は少しだけタイミングが悪かった。領地の決算時期と重なり少しだけ対応が遅れ、また売り込み先の領地も多忙で中々話が進まなかった。
とは言え遅れと言ってもほんの二か月ほどだ。ロイドが当主代理を務めていたころであれば大した問題にはならなかっただろう。
だが急激に事業を拡大し続けていたフーバー子爵家にとって、その二か月の遅れはただの遅れでは済まなかった。一言で言えばキャッシュフロー──資金繰りの悪化。資金を常に投資に回し続けていたため、フーバー子爵家は利益は上がっても手元資金が乏しい状態が常態化していたのだ。そしてその状態はアランが舵取りをするようになって更に悪化していた。
アランは慌てて資金調達に動くはめになる。勿論、この時点でフーバー子爵家は十分以上に利益をあげており金を貸してくれる先を探すこと自体は難しくなかったが、従来は兄に任せていた分野だっただけに相応の時間と手間を割かなくてはならなかった。
問題は止まらず連鎖する。
新たに事業を始める以上、問題が発生することは避けられない。その問題に一つ一つ対処していくことで事業は成熟する。そうした観点からすると、発展拡大を続けるフーバー子爵領は火種の倉庫。これまではアランが事業全体を丁寧に目配りし、問題が大きくなる前に対処できていたため、それを問題視する者もほとんどいなかった。
だがアランが多忙となり、全体に目が行き届かなくなったことで少しずつ問題が顕在化し始める。そしてその都度対処にアランが動き、更に余裕がなくなり、問題が増加し、対処が遅れるという悪循環。
人に任せようにも事業に関してはまだ独自に動けるだけの人材が育っておらず、また当主業に関してはどうあっても人任せにはできない。
──これまでは、何かあれば兄さんが仕事を吸収してくれていたのに……!
兄を引き留めなかったことを悔やんでももう遅い。
問題は一つ一つに対処していけばいずれ解消する。だがその為の余裕が時間的にも資金的にもない。
この状況を打破する手はあった──クリスティーネの父であり義父となる予定のミュラー侯爵に頭を下げ、資金と人材を借り受けることだ。フーバー子爵家に対する支配を強めることができると、侯爵は嬉々として求めに応じてくれるだろう──出来れば避けたい手だ。
何とか独力で対処できないかと踏ん張っている内、更なる問題が起きてしまう。
他家の妨害。
資金繰りの悪化で支払いが遅れ気味となっていたフーバー子爵家、その不穏な空気を領内の職人や商人たちは敏感に感じとっていた。
その隙に付け込むように、ミュラー侯爵と反目しているクラインゲルト侯爵が、フーバー領内の職人や商人たちに好条件で誘いをかけ、彼らが持つノウハウや技術ごと一斉に引き抜いてしまったのだ。
彼らの大半は元々他領から引き抜かれてきた者たち。傾きかけたフーバー領を離れることに大した躊躇いもなかったに違いない。
核となる人材を根こそぎ引き抜かれたことで、フーバー子爵領はもはやどうにもならない状況に陥っていた。
──僕は……何を間違えた……?
クラインゲルト侯爵の工作を予想できなかったこと、ミュラー侯爵に援助を頼むのを躊躇ったこと、兄の忠告を無視して急激に事業を拡大しすぎたこと──そして無理にでも兄を引き留めなかったこと。
思い至ることはいくらでもあるが、それでも決して自分が当主になるべきではなかったとは思わない。こうなった今でも、自分が兄より優秀であることに疑いはない。事実、アランは兄がこなしていた業務を片手間に兄以上の正確さと精度でこなしてきた。
長子継承が間違いだとは思わないが自分と兄は双子。ほんの僅かな差、何かの勘違いで入れ替わっていたかもしれない程度の違いだ。
能力も実績も自分が勝っており、周囲も皆自分が当主となることを望んでいた。
兄に対して気の毒だとの思いはあれど、自分だって男だ。一国一城の主になりたいと願って何が悪い。
疎んでいたわけでも追い出したかったわけでもない。だが、周囲と本人がそう願ったのであればそれはもう仕方のないことではないか。
──せめて兄さんが領地に残って僕を補佐してくれていれば……
もし兄がいれば、このような事態にはなっていなかっただろう。それは事実だ。
口うるさくはあったが、兄はこうなることを危惧して事業拡大にブレーキをかけていたのだと、今になってみれば分かる。
だが自分が兄を押しのけ次期当主の座と婚約者を奪っておきながら、家に残って自分を手伝えなどと言えるほどアランは残酷でも恥知らずでもなかった。
──兄さん。貴方ならこんな時どうする? 僕はどうすれば良かった……?
自分を窮地に追いやったクラインゲルト侯爵からの手紙を前に、アランは──
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「いやぁ、今回は随分と儲けさせてもらったよ。なによりミュラーのクソに吠え面かかせてやれたってところがいい」
自身の屋敷の一室で、クラインゲルト侯爵家の女領主エリスは心底機嫌よく言って、昼間から勢いよくワインを呷った。
向かいに座る男は目の前に置かれたワイングラスに目もくれることなく、無表情で黙している。
「しかし些かもったいない気もするねぇ。核になる人間は全て引き抜いたんだ。今更フーバー子爵を取り込む必要があるのかな?」
「……目先の利益を追うのなら、無理にフーバー子爵を使う必要はないでしょうね」
女領主の試すような言葉に男は淡々と応じる。
「ですが次期当主の有能さは疑いようがありません。ミュラー侯爵家が彼を取り込んでしまえば、侯爵家の財と資源を使ってかつて以上の繁栄をもたらす可能性は十二分にある。そうなる前に、適当な条件で引き抜いてしまった方が長期的にはメリットが大きいでしょう」
男の提案は、フーバー子爵領から引き抜いた人材の一部を子爵領に戻す代わり、フーバー子爵家ごとこちらに引き抜けというものだった。要はフーバー子爵家を支援し、領民に影響がでないよう今まで通り事業を続けさせてやるから、寄親をミュラー侯爵からクラインゲルト侯爵に代えろという脅し。
フーバー子爵家としては領民を飢えさせぬために受けざるを得まい。当然ミュラー侯爵は激怒するだろうが、半壊状態のフーバー子爵家を支える覚悟があるとも思えない。遠からずフーバー子爵家はクラインゲルト侯爵家に頭を垂れることになる筈だ。
そして当然、クラインゲルト侯爵であるエリスもその程度のことは理解している。理解した上で、彼女は男の本音を探るように続けた。
「ほほ~う? やけにフーバー子爵を買っているんだねぇ。これだけ無様な失態を晒したばかりだというのに」
「意味ある失敗を経験した者をこそ、侮るべきではないでしょう。それに私以上にフーバー子爵の能力を買っている者はいませんよ──私は彼の兄なのですから」
ロイドは何の感情も見せることなく応じ、エリスを鼻白ませた。
「ふぅ。もう少し『わ~っ』と感情を見せてくれれば揶揄いがいがあるのに、本当に君はつまらないねぇ」
「それは何よりです」
「そういうとこだよ~? そもそもの話、君は結局何がしたかったのかな? 最初は自分を捨てた実家や元婚約者の家に復讐してやろうとでも考えてるのかと思ったが、いざ蓋を開けてみれば私に実家を領地ごと買収させただけだ。私は随分得をさせてもらったし、ミュラーのクソにかましてやれたから満足だけど、復讐というにはあまりに中途半端な内容じゃないかな」
「…………」
顔を覗き込んでくるエリスに対し、ロイドは視線を逸らして無言を貫いた。
ロイドがクラインゲルト侯爵家の門を叩いたのは一年ほど前。
フーバー子爵家を取り込む提案を持ってやってきたこの男をエリスは雇った。
提案に関しては半信半疑だったが、次期当主の兄が弟に婚約者とその座を奪われ出奔したという情報は把握しており、全く荒唐無稽な話というわけではない。さほど期待していたわけではないが、雇ったところで大きな損はないだろうと、理由などその程度のものだ。実際、ロイドは雇ってみれば噂に聞く弟ほどではないにしろ優秀で、使い勝手が良かった。
そして彼が侯爵家の文官の中でもそれなりの立場を築きつつあったタイミングで、監視していたフーバー子爵家の問題が顕在化。エリスは子爵家の事業乗っ取りに成功する。
当主代理の立場で家を存続させることを第一に考えていたロイドには、アランの危うさがハッキリと見えていたのだろう。引き抜きの勘所となる人材も把握していたため、ことはエリスが拍子抜けするほどあっさりと進んだ。
──これだけ盤面が見えているのなら、もっと徹底的にやり返すこともできただろうに……
フーバー子爵家もミュラー侯爵家も今回の件でそれなりに痛手を被ったが、致命傷には程遠い。特にフーバー子爵家はクラインゲルト侯爵家が情けをかけなければ完全に潰せていただろうに、ロイドはそうせずエリスにフーバー子爵を取り込むよう献策している。
復讐心はあった筈だ。クラインゲルト侯爵家が手を出さなければ、今頃ミュラー侯爵家がフーバー子爵家に手を差し伸べ、より穏当に着地していただろう。ロイドは確かにそれを妨害した。
だが単なる復讐にしては手ぬる過ぎる。果たしてその真意はどこにあるのか、エリスは興味深げにロイドを見つめた。
「…………しつこいですよ」
「そうかい? だがコトがコトだ。協力者の真意がどこにあるのか気になるのは当然だろう?」
「…………」
しかしロイドは決して自身の動機を語ろうとしない──そのことがエリスに、彼の真意を見抜かせた。
「なるほどね。事情は大体分かった」
「……何がです?」
「君の動機であり目的さ。復讐心もあっただろう。見返したいという稚気もあったに違いない。一方で、一時とは言え自分が当主代理を務めた領民を苦しめたくないという思いもあった筈だ。──だが、一番の目的は妨害だろう?」
「────」
図星を突かれた様子で嫌そうに表情を歪めたロイドに、エリスはククッと笑って続けた。
「これは私の推測だが、君の弟がいずれ失策を犯すことを、ミュラーのクソが見抜けなかったとは思えない。才能と能力に溢れ、成功者であるということは、失敗を経験しないという意味ではないからね。こう言っては何だが、弟は経験の浅い君にも見抜けた程度には脇が甘かったようだし」
「…………」
馬鹿にしているようなエリスの言葉だが、ロイドは否定しない。
「それでもあのクソが弟を当主に推したのは、その能力と実績もあったろうが、適当に失敗したところで恩を売り取り込んだ方がやり易いと考えたからだろうね。君が当主になれば領地は発展しないわ、大きな失敗もしそうにないわで、奴からしたら何の旨味もない」
「……でしょうね」
ミュラー侯爵家の思惑に関する推測を、ロイドは静かに認めた。
「だからミュラーのクソにとって弟の失敗は予定調和。──それが君には我慢ならなかった」
「…………」
「勿論、あのクソにやり返してやりたかったなんて話でもない。さっきも言ったように復讐が目的ならもっとやりようがあったし、そもそも君には奴に復讐する動機が薄い」
「…………もう、勘弁してください」
ニヤニヤとこちらを見つめるエリスに、ロイドはとうとう白旗を掲げた。だが女領主は容赦がなかった。
「へぇ? じゃあ認めるんだ。君がこんなことをしでかしたのは、元婚約者が自分の弟と結ばれるのを妨害する為でした、って」
「勘弁してくれって言ったでしょ!? 人の心がないのか、あんたは!?」
顔を真っ赤にして怒鳴るロイドに、エリスはケラケラと笑う。
まったく堪えた様子の無いエリスに、ロイドは手が出そうになる自分を必死に自制し。大きく溜め息を吐いた。
「まぁこうなった以上、間違いなく弟君と奴の娘の婚約は破談だ。今の年齢からだとロクな嫁ぎ先は見つからないだろうし、こっそり迎えに行けばついてきてくれるかもしれないよ?」
「……行くわけないでしょう」
一瞬間があったことを、エリスは敢えてツッコまなかった。
「向こうにメリットがないし、そもそもそんなつもりでやった訳じゃありません。ただ……」
「ただ?」
「……自分がいなくなっても、何事もなかったみたいにあの世界が回っていくことが我慢できなかったんです。だから一つ、何か爪痕を残したかった。それがこういう形になったのは……その、自分と同じ顔をした奴が元とはいえ婚約者とよろしくやってるなんて、想像しただけでなんかヤでしょ?」
「なるほど」
そこで溜め息を吐いてロイドは付け加えた。
「何よりこれから無職になる人間がそんなこと……冗談でも言えませんよ」
その言葉にエリスは片眉を上げる。
「……やはり、気持ちは変わらないかい?」
「ええ。フーバー家を取り込む以上、僕が裏で糸を引いていたなんてことがバレたら色々ややこしいことになりそうですから。身の安全のためにも退散させていただきます」
ロイドは晴れやかな笑みを浮かべて続けた。
「実家や元婚約者には迷惑この上なかったでしょうけど、一発かましてスッキリしました。これでようやく、柵なく前に進めそうです」
「ふぅむ……」
ロイドが立ち去った部屋の中で、エリスは懐から一枚の手紙を取り出す。
差出人の名前はクリスティーネ・ミュラー侯爵令嬢。その内容は、今回の一件の裏にロイドが関わっているに違いないと断定し、その所在を尋ねるものだった。
「奴の娘にしては中々いじらしいことじゃないか。たったあれだけの情報でロイド君が関わっていると見抜くなんて、余程彼のことをよく見ていたとみえる」
手紙の文面の端々に滲む女の情念に思わず苦笑する。
「彼は彼女が弟に気があると考えていたようだけど、実際はどうだったのかな? 彼女にとって弟君は未来の夫の部下であり不穏分子だ。良好な関係を築いて、監視していたとしても不思議じゃないよね」
──まぁ、それが本人に伝わらないあたり、あの唐変木の娘らしいというべきか。
「さて、どう回答したものかな。本来、雇い主としては部下の個人情報を外部に漏らすなんてとんでもないことだが、たった今彼は私の部下ではなくなった。貴族のご令嬢に恩を売っておくのも、悪くないかもしれないね」
女領主はそれが将来どんな顛末を迎えるかを想像して楽しそうに笑い、返信をしたためるべく羽ペンを手にとった。
『婚約破棄』『ざまぁ』が書いてみたくて筆をとった。
それが何でこんなプロットと180度違う展開になってしまったのか……
書いてる途中で何故か主人公が未練がましい男に、ヒロインがじっとりした愛の重い女になってしまい、『ざまぁ』ものから『勘違い?』『すれ違い?』ものに。
弟は一番の被害者。
なお、この後主人公がハッピーエンドを迎えられるかどうかは、怒り狂ったヒロインの攻撃力に彼の肉体が耐えられるかにかかっています。