静まった魔力
リリエルは静かに広間を後にした。
彼女が去った後も、そこには動揺と混乱が渦巻いていた。
だが、リリエル自身もまた、かつてない困惑を覚えていた。
(……私は、なぜ……)
なぜ、魔力を放つのをやめた?
あの場でバルゼウスを処刑するのは当然のことだった。
彼は長年仕えてきた四天王筆頭。
しかし、主の命に逆らった以上、処罰されるのは避けられない。
それが、魔王としての秩序。
それなのに——
(……私は、なぜ、あの子の目を見た瞬間、手を止めた?)
リリエルは自問する。
確かに、王子の瞳は透き通っていた。
だが、それが何だというのか。
彼の瞳には恐怖がなかった。
魔王である自分の前にいながら、怯えもせず、ただまっすぐに見つめてきた。
(それが、どうした?)
自分の前に跪き、命乞いをする者は多くいた。
だが、あの王子の眼差しは違った。
哀願でもなければ、嘆願でもない。
ただ、純粋に「やめて」と願うだけの瞳。
リリエルは、薄暗い回廊を歩きながら、ふと足を止めた。
(……私は、なぜ、あの子を育てると言ったのか?)
王子レオネル。
セリオス王家の生き残り。
彼は、自分が何者なのかすら理解していない。
王国が滅び、家族が皆殺しにされたことも知らずにいる。
ただ、母親の腕の温もりを求めて、無意識に「お母さんなの?」と呟いた。
(——私は、なぜあの言葉に反応した?)
魂を喰うことこそが自分の生きる糧。
それが揺らぐことなど、これまで一度もなかった。
だというのに——
リリエルは、自分の胸の内にある得体の知れない感情に気づいた。
それは、怒りでも、憎しみでも、殺意でもない。
もっと、別の……何か。
ふと、リリエルの頭にある考えがよぎった。
(——まさか)
その瞬間、自分自身に苛立ちを覚えた。
馬鹿な。
あり得ない。
そんなはずはない。
彼女はすぐにその考えを振り払い、闇の中へと消えていった。
だが、その胸の奥に残った違和感だけは、決して消え去ることはなかった。